第三十九話 紅蓮の予兆と、眠りの言霊
月の神殿の奥、冷え切った空気の中でフェンリスは静かに左手を差し出した。
「……見ろ、ディアナ。これが本来の『タナトス』だ」
彼の周囲から溢れ出した漆黒の霧が、瞬時に無数の鋭い棘へと形を変え、空間を威嚇するように震える。それは見る者を戦慄させる、剥き出しの殺意の塊だった。
「そもそも死神の力は、強い怒りや悲しみ……心の底に溜まったドロドロとした感情が引き金になり、暴走する。対象を串刺しにし、無残に引き裂いて命を刈り取る。……それが死神だ。普段は花を枯らす程度の微力だが、暴走した時は凄まじい力を発揮する。そのトリガーも、力がどう発現するかも人それぞれだ。……そして、力を使いすぎれば代償として命を落とす。それほどまでに巨大な力だということだ」
フェンリスは自嘲気味に笑い、その棘を霧へと戻した。そして、まっすぐに私を見つめる。
「だが、お前が森で見せた力は……それとは正反対だ。誰かを守りたいという『祈り』で死神の力が暴走するなんて、歴史上聞いたことがない」
「……ということは、私がおかしいということですか……?」
「違う。おかしいのではなく、特別なんだ。お前のタナトスは相手を傷つけない。眠らせ、安らぎを与えながら、無の境地へと送り出す。……それは死神の力でありながら、聖女の魂そのものだ。ディアナ、お前は聖女になるべくして生まれてきたんだろうな。だからこそ、死神の力までもがそれほどに優しい」
仮面の奥にあるフェンリスの瞳が、ふっと柔らかく細められた。その言葔に救われる思いがしながらも、私は食い下がる。
「では、その力を制御する方法はないのでしょうか……? 大切な人を守るために、暴走させずに扱う方法が知りたいのです」
――
するとフェンリスは、再び自身の『宿命の荊棘』を一本出現させ、私の喉元に突きつけた。
冷たい切っ先が皮膚に触れる寸前で止まる。心臓が跳ね、喉の奥が乾く。動けば切れる、そんな緊張が、全身を縛りつけた。
「……トリガーを制御しろ。お前の瞳が燃えるように赤く光る時は、力が感情に飲まれている証拠だ。そうなれば、お前はただの壊れた器になる。……いいか、ディアナ。祈るな。『願え』。あんな大層な祈りじゃなくていい。ただ、目の前の敵に『眠れ』とだけ、心で強く命じるんだ。お前のタナトスは慈悲深い。お前の願いなら、喜んで従うはずだ」
私はゆっくりと目を閉じ、エテル殿下の温もりを思い浮かべた。喉元の冷たい棘への恐怖を抑え込み、静かに念じる。
(……眠れ。私のために、静かに眠って……)
その瞬間、私の瞳が微かに紅く明滅した。けれど、あの森の時のように意識が遠のくことはない。私の意志が、左手のタナトスを優しく手懐けていた。
フェンリスの棘が、私に触れる直前、まるで微睡みに落ちるようにサラサラと黒い砂になって消えていく。
「……そうだ。それが、お前だけの『戦い方』だ」
フェンリスは満足げに口角を上げた。
「まあ、よほどのことがない限り、あまりタナトスは使うなよ。この黒い靄を見れば、死神だとバレるからな。特に『ヴォイド・ウォーカー』には気をつけろ。あいつらの嗅覚と視覚は鋭い。隙を見せればすぐに正体が暴かれる。……もし何かあればここに来い。必ずお前を助けてやる」
力強いその言葔に、私は深く頷いた。ふと窓の外を見ると、日はすでに沈みかけている。
(……!! 殿下のところに戻らなくちゃ……!)
「もう戻るのか?」と尋ねるフェンリスに、私は立ち上がって答えた。
「ええ。私を待っている人がいるから」
「……そうか。そいつにとっても、お前が心の支えなんだろうな。早く戻ってやれ」
フェンリスは丘の上まで私を見送ってくれた。夜の帳が下りる中、私は急いで王宮への道を駆け出した。




