第三十二話 死神の片鱗
湿り気を帯びた森の静寂を、鋭い風切り音が切り裂いた。
エテルと手を繋ぎ、霧の中を慎重に進んでいたディアナは、その異変に直感的に反応する。
「――っ!?」
シュッ、という短い音と共に、エテルの肩口に矢が突き刺さった。
一瞬の油断。ディアナは即座にエテルの身体を引き寄せ、男装の身ゆえの身軽さを活かして彼を抱き上げた。次々と放たれる追撃の矢を紙一重でかわしながら、彼女は遮二無二走り出す。
矢羽根が頬をかすめ、木の幹に突き立つ音が背後で連続する。息が上がる。腕の中の重みが、これほど愛おしくこれほど恐ろしいものだと、彼女は初めて知った。
腕の中のエテルは、不老不死の彼には珍しく、苦悶に満ちた表情で喘いでいた。
「殿下、すみません……! 守ると言いながら、私は本当に……無能です。安全な場所までお運びしますから、絶対に私から離れないでください!」
ディアナは細い腕に力を込め、心臓が破けそうなほどの速さで森を駆け抜けた。背後から迫る気配を、入り組んだ巨木の影を利用してようやく撒いた頃、彼女は手近な茂みの陰に滑り込んだ。
「はぁ……はぁ……」
荒い息をつくエテルをそっとうつ伏せにし、傷口を検分する。その瞬間、ディアナの指先が凍りついた。矢が刺さった周囲の肌が、どす黒く変色している。
(毒……!? 矢に、致死性の毒が塗られていたのね)
ディアナは迷わずシャツの袖を裂き、エテルの背から矢を抜き去った。
「ごめんなさい、殿下……。痛いですよね……すぐ、止血しますから」
溢れ出す鮮血を布で押さえるが、毒のせいか傷口が塞がる気配がない。ディアナが祈るように右手をかざし、聖なる力を使おうとしたその時、熱に浮かされたエテルが彼女の手首を弱々しく掴んだ。
「だめだ……よ。君の寿命を削って……僕を助けようと、しては……。僕は不老不死だ。毒を盛られても、治癒が遅れるだけで……死にはしない……っ」
「でも……! 貴方の痛みだけでも、私の力で癒したいのです!」
悲痛な叫びを上げるディアナに対し、エテルは力なく首を振った。
「じゃあ……こうしてて。君の残り少ない時間を、僕の痛みを和らげるために使うのは……僕が許さない……」
そのまま、エテルは深い昏睡へと落ちていった。
「嫌です、殿下! しっかりしてください、殿下!」
殿下はああ言ったけれど、目の前で苦しむ人を放っておけるはずがない。ディアナは震える右手を傷口に当て、ありったけの聖なる力を注ぎ込んだ。黒い毒の紋様が霧散し、傷口が徐々に肉を盛り上げていく。
(ふぅ……毒は消えた。あとは殿下の治癒力に任せましょう。今のうちに、休める洞窟を見つけないと……日が暮れたら魔物が出てくるわ)
***
立ち上がろうとした、その時だった。
地響きのような唸り声が周囲に満ち、霧の向こうから巨大な熊の魔物が現れた。一体ではない。十、五十、百……。
(えっ……この数は、計算外。逃げなきゃいけないのに、足が動かない……!)
絶体絶命の恐怖。襲いかかる巨大な爪を前にして、ディアナはただ、愛する人を守りたい一心で天を仰いだ。
(聖なる神、アウレリア様。私のすべてを捧げる覚悟があります。どうか……どうか、エテル殿下だけはお救いください!)
その瞬間、ディアナの内側で何かが「爆ぜた」。
満月の夜でもないのに――ただ、大切な人を守りたいという想いが限界を超えた時、その力は理性の箍を軋ませて溢れ出した。
彼女の紅い瞳が、業火のように禍々しく発光する。左手からは底知れぬ漆黒の靄が噴き出し、瞬く間に森を覆い尽くした。
靄に触れた熊の魔物たちは、咆哮を上げる暇もなく、まるで糸が切れた人形のように次々とその場に倒れ伏していった。
一瞬のうちに、百体を超す魔物の命が「収穫」されたのだ。
魔物たちから強制的に寿命を吸い取った反動か、ディアナの身体に力が漲り始める。
(……あんなにいた魔物たちが、一瞬で……?)
自分の掌を見つめ、ディアナは震えた。この手が、こんなにも容易く、こんなにも大量の命を刈り取れてしまうという事実に、吐き気にも似た恐怖がこみ上げる。
(怖い……。私は今、何をしたの……? こんな力が、本当に私の中に……)
けれど、恐怖に立ち止まっている時間はなかった。
「はっ! でも、動けるようになった。早く殿下を……」
「魔物さんたち、貴方たちの寿命を奪ってごめんなさい。どうか、許してください」
変わり果てた死骸の山に小さく頭を下げ、ディアナは再びエテルを抱え上げた。
自分の中に目覚めた、悍ましくも強大な「死神の力」への恐怖を必死に押し殺しながら、彼女は闇に沈みゆく森の中、唯一の希望である洞窟へと歩き出した。




