第二十一章 雨の匂いと、泥濘(ぬかるみ)の温もり
エテル殿下が感覚を失っていると知ってからというもの、私はとにかく殿下に「世界」を取り戻してほしくて必死だった。手を繋いでご飯を食べたり、何気ない瞬間に肌を触れ合わせたり……。
正直、夜の「抱き枕任務」だけは心臓が爆発しそうで全く落ち着かないけれど、これもリハビリ。そう、聖女(仮)としての神聖な義務なのだ!
感覚を取り戻し始めてから、殿下は目に見えて上機嫌なことが増えた。執務の合間に「ふふん♪」と鼻歌まで歌っているのを見ると、なんだかこちらまで誇らしい気持ちになる。
今日も今日とて、私は殿下の私室でティーポットを傾けていた。琥珀色の紅茶が白磁のカップに注がれ、湯気がふわりと立ちのぼる。窓から差し込む午後の光を受けて、その湯気は一瞬だけ金色に透けて見えた。
「殿下、どうぞ」
差し出したカップを受け取った殿下の指と、私の指先が軽く触れる。二人で手を繋いでお茶の時間を楽しむのは、もうすっかり日課になっていた。
(というか……常に手を繋いでるこの状況、客観的に見て恋人同士では!? いやいや、何を言ってるのディアナ! 殿下のような高貴な方に、私みたいな余命わずかな死神が並んでいいはずないでしょ! これはリハビリ! 純粋な医療行為なのよ!)
必死に自分に言い聞かせていると、殿下がカップに口をつけ、一拍置いてから小さく息を漏らした。
「……この紅茶、こんなに美味しかったのか」
まるで宝物を見つけた子供のような笑顔。いつもは完璧すぎて作り物めいて見える微笑みが、今だけは年相応のいや、それ以上に幼い、無防備なものに見えた。その輝きに、私の胸の奥もじんわりと温かくなる。
不意に、窓の外の光がふっと翳った。灰色の雲が空を覆い尽くしたかと思うと、次の瞬間には、庭園に激しい夕立が降り始めていた。ガラス窓に無数の水滴が叩きつけ、白い筋を描いて流れ落ちていく。
「雨か……。雨は視界を遮るし、冷たいだけで、昔から苦手だ」
ポツリと呟いた殿下の横顔が、少しだけ寂しそうに見えた。窓ガラス越しの薄暗い光が、彼の輪郭を青白く縁取っている。
私は名案を思いつき、繋いでいた手を少し強く握って彼を誘う。
「殿下、テラスへ参りましょう! 雨の匂いって、意外と落ち着くものですよ?」
「雨に、匂い……?」
不思議そうな顔をする殿下の手を引き、私たちはテラスへと向かった。
扉を開けた瞬間、湿った空気がどっと押し寄せる。屋根を叩く激しい雨音が、太鼓のように規則正しく響いていた。テラスに飾られた鉢植えの花や葉は、重たい水滴を弾きながら、風に煽られて鮮やかに揺れている。土の匂い、濡れた緑の匂い、遠くから漂ってくる花の香り、それらが混じり合い、むせ返るほど濃密な「生」の匂いを作り出していた。
「殿下……分かりますか? 雨が土を叩く匂い、濡れた花の香り、草木の匂い……」
私が殿下の手をぎゅっと握りしめると、彼の瞳に驚きが走った。長い睫毛が微かに震え、鼻先がひくりと動く。
数百年、ただの「無」だった雨の情景に、鮮烈な「嗅覚」が流れ込んでいく。殿下は目を閉じ、深く息を吸い込んだ。まるで、初めて呼吸というものを覚えた赤ん坊のように。
「そうか……雨の匂いは、こんなに……命の香りがしていたのか」
震える声。その瞳が微かに潤んでいるのを、私は見て見ぬふりをした。
「そうですよ。雨の日も悪くないでしょう?」
私が得意げに笑うと、殿下は不意に私の肩を引き寄せた。
「えっ……!? で、殿下?」
雨粒を吸って少し重くなった私の銀髪を、彼は大きな手で優しく拭う。その指先の動きは驚くほど丁寧で、まるで壊れ物を扱うようだった。
至近距離で見つめられる、透き通ったアイスブルーの瞳。雨粒が睫毛の先に光る雫となって留まり、瞬きのたびにきらりと揺れる。そこにはいつもの悪戯っぽさはなく、深い慈しみだけが宿っていた。
「君はいつも、陽だまりのような……とても温かくて、懐かしい匂いがするね」
「そ、そうですか……?」
急すぎる殿下からの「甘い供給」に、私の思考回路はショート寸前だ。心臓が痛いくらいに脈打っているのが、自分でもわかる。
「うん。すごく落ち着く。……この匂い、ずっと嗅いでいたくなるな」
そう言って、殿下は私の首元に鼻を寄せ、深く息を吸い込んだ。彼の吐息が肌をかすめ、ぞくりとした感覚が背筋を駆け上がる。
「ひゃっ!? あ、あの! くすぐったいです殿下! それに近いです!」
「……ダメだよ。離さない」
離れようとする私の腰を、殿下はがっしりと抱き寄せた。逃げ場を失った私の耳元に、彼の規則正しい息遣いだけが響く。雨音はまだ止まず、二人を包む空気だけがやけに静かだった。
殿下は満足そうに瞳を閉じ、しばらくの間、そのまま動かなかった。
殿下にとっては、この瞬間こそが「自分が世界に繋ぎ止められている」と実感できる、何よりの贅沢なのだろう。冷たい雨に打たれる庭園とは対照的に、私の腕の中、いや、彼の腕の中は、じんわりと熱を帯びていた。
「雨も……君となら、悪くないかもしれないね」
雨音にかき消されそうな小さな囁き。
私の心拍数は、激しい夕立の音さえも追い越そうとしていた。




