第十五章 満月の夜の、逃避行
紅茶をかけられた火傷の跡が、熱を持つどころか、じわじわと不気味な黒色に変色していく。
(……これは、大変なことになりましたわね)
鏡に映る自分の肩を見つめ、私は冷や汗を流した。この黒い痣は、私の中に眠る『死神の力』が、私の制御を離れて暴走しようとしている前兆だ。
特に満月の夜。月が満ちるにつれて、力は私の精神を内側から侵食し始める。
(お花さんたちには申し訳ありませんが、致し方ありません。……人を傷つけるよりは、許されるはず……)
深夜、私は誰にも見つからないよう王宮の裏庭へ忍び込んだ。
美しく咲き誇る白百合に、震える指先でそっと触れる。その瞬間、瑞々しかった花びらは一瞬で茶褐色に染まり、崩れるように朽ち果てた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……っ」
こうしている時の自分が、一番嫌いだ。まるで自我を失い、死を撒き散らす本物の怪物になった気分になる。
涙を流しながら、枯れ果てた花を地面へと埋める。少しずつ力を解放していくと、肩の黒い痣は嘘のように消えていった。
けれど、これは一時しのぎに過ぎない。本番は数日後。完全なる満月の夜。
***
それからの数日間、私はエテル殿下をひどく怒らせてしまった。
「今日も一緒に夕食は無理かい?」
「……すみません、殿下。少し、一人になりたくて」
理由も言わずに距離を置く私に、殿下は珍しく苛立ちを隠さなかった。
「君は僕の専属聖女だろう。……まあ、いいさ。無理強いはしない」
そう言って背を向けた彼の声に滲んでいた寂しさに、私は気づかないふりをした。
暴走の瞬間だけは、彼にも誰にも知られたくない。これ以上、自分を、そして彼を汚したくない。
そして迎えた、満月の夜。
私は一人、王宮を抜け出して人里離れた丘の上に立っていた。
(ここなら……もし力が暴走しても、誰も巻き込まずに済むはずですわよね……?)
月光が銀髪を青白く照らし、指先から黒いモヤが漏れ出し始めたその時。
「――お前、こんなところで何をしている」
低い声に心臓が跳ねた。
振り返ると、そこにはあの夜と同じ、仮面をつけ黒ずくめのマントを翻したフェンが立っていた。
「フェン!? どうしてここに……っ! 来ないで、今の私は危ないんです!」
「隠すな。お前、死神だろう?」
フェンは怯むことなく、一歩ずつ私との距離を詰める。
「俺も同じだ。力の発散場所がなくて、自分を削って壊れそうになってるんだろ? なら、俺と来い。お前の本当の望みを叶えてやる」
差し出された手を、私は一瞬迷った。ここで頷けば、きっと後戻りできない何かが始まる気がして。
けれど、指先から漏れるモヤが濃くなっていくのを感じて、迷っている余裕なんてないことにも気づいていた。
有無を言わさぬ力強さで、彼は私の手を取った。
暴走しそうな黒い魔力が彼の手を伝って中和されていく。その手の温もり、そしてどこかで嗅いだ覚えのある、懐かしい花の香りに、私の記憶が不意に揺らぐ。
(……この温かさも、この香りも……どこかで……)
夜会で感じたのと同じデジャヴが、今度はもっとはっきりと胸をざわつかせる。でも、それが何なのか、答えが出る前に。
エスコートされるまま、私は彼と共に夜の闇へと駆け出した。
王宮に残された、自分を「終わらせてくれる」と信じて待つ王子のことさえ、一瞬だけ忘れて。




