第3話「二つ目の火」
フレイムピジョン編
第3話「二つ目の火」
午後の授業が進む中、サクラは黒板とノートを何度も見比べていた。
教師が新しい式を書き加えるたび、それを追ってペンを走らせる。ところが途中で、ふいに手が止まった。
「……あれ?」
教科書を数ページ戻ってみる。それから黒板へ視線を戻し、もう一度教科書を確認した。
今やっている内容そのものが難しいわけではない。問題なのは、その前提になる部分が抜け落ちていることだった。
サクラが学校を離れていた間も、当然ながら授業は進んでいた。教師も事情を知っているため無理に指名することはないが、授業そのものを一人のために止めることもできない。
仕方なく、今は分からないところに小さく印を付け、とりあえず黒板の内容をノートへ写していく。
そんなサクラとは対照的に、少し離れた席では紀人がいつも通り授業を受けていた。
「内田」
「はい?」
「ここの答え」
突然指名された紀人は黒板を見ると、少しだけ考えて答えた。
「――です」
「正解」
教師は何事もなかったように授業を続ける。
サクラがちらりと紀人を見た。
紀人も怪人事件に関わるようになってから、時々学校を休んでいる。それなのに、授業から大きく遅れている様子はない。
しばらくすると、教師が本題から少し外れた話を始めた。
「ちなみに、これと似た仕組みは――」
「ああ、それって――」
紀人が何気なく口にした内容に、教師が話を止める。
「内田。よくそんなこと知ってるな」
「昔、聞いたことあるんで」
「どこで?」
「昔の知り合いに」
「……そうか」
教師は少し不思議そうな顔をしたものの、そのまま授業へ戻った。
サクラはもう一度、紀人を見る。
今度は、少しだけ呆れたような目だった。
◇
休み時間になると、サクラは教科書とノートを抱えて紀人の席までやって来た。
「紀人」
「ん?」
「ここ、教えて」
開いた教科書を机へ置く。
紀人はページとサクラの顔を交互に見た。
「珍しいな。サクラが俺に聞くなんて」
「休んでたところなんだから仕方ないでしょ」
「はいはい」
「その言い方、腹立つんだけど」
「教えてもらう側の態度か?」
「じゃあいい」
本当に教科書を閉じようとするサクラを、紀人が慌てて止めた。
「いや、何でそこで帰ろうとするんだよ」
「紀人が余計なこと言うからでしょ」
「分かった、分かった。どこから?」
「ここ」
「ここ?」
「その前から」
紀人がページを戻していく。
「結構前じゃねえか」
「長く休んでたんだから仕方ないでしょ!」
「だから怒るなって」
紀人はサクラのノートを借りると、空いているところへ簡単な式を書いた。
「これがこうなって、前にやったこれを使うんだよ」
「ああ……」
「それで、ここを――」
「あ、分かった」
「まだ説明の途中なんだけど」
「そこまで聞けば分かる」
サクラはノートを取り戻すと、そのまま続きを解き始めた。
「ここがこうなるから……じゃあ次はこれでしょ?」
「そう。それで――」
「だったら答え、これじゃない?」
紀人がノートを覗き込む。
「……合ってる」
「ほら」
「いや、ちょっと待て。さっきまで分かんないって言ってただろ」
「抜けてるところが分からなかっただけ。そこが分かればできます」
「急に偉そうだな」
「元々、私の方が頭いいから」
「言ったな?」
「事実でしょ」
「じゃあ最初から自分でやれよ!」
「だから、休んでたところだけ分からないって言ってるでしょ!」
二人の声が少し大きくなり、近くにいたクラスメイトが振り返った。
紀人とサクラは同時に口を閉じる。
少しして、サクラが声を落とした。
「……紀人って、変なことだけ妙に知ってるよね」
「変なことって言うな」
「さっきのも授業でやってないでしょ?」
「昔聞いたんだよ」
「また昔の知り合い?」
「ああ」
「何者なの、その人」
「さあな」
「何で紀人が知らないのよ」
「いろいろあるんだよ」
サクラは納得していない顔をしたが、それ以上は追及しなかった。
紀人が時々見せる妙な知識量には、今に始まったことではないらしい。
「そういえば」
サクラが周囲を確認して、さらに声を落とす。
「昨日、北山先生に会った」
「北山さんに?」
「うん」
「何か言われた?」
「戦わなくていいって」
紀人は一瞬黙ったあと、思わず苦笑した。
「……言いそう」
「でしょ?」
「めちゃくちゃ言いそう」
「私もそう思った」
二人で小さく笑う。
サクラにとっては空手の師であり、紀人にとってもよく知る人物だ。北山ならそう言うだろうという点については、二人の意見が完全に一致していた。
「でも、必要な時はCASHに協力することになったから」
サクラがそう続けると、紀人の表情が少しだけ変わった。
「じゃあ、一つ言っとかないと」
「何?」
紀人も周囲を確認する。
誰もこちらへ注意を向けていないことを確かめてから、小さな声で言った。
「俺がキッドだってこと、CASHじゃ東さんとシラメ博士しか知らない」
「え?」
サクラが思わず声を上げかけ、自分で慌てて口を押さえた。
「そうなの?」
「ああ」
「北山先生は?」
「多分、俺じゃないかって疑ってる。でも俺からは何も言ってない」
「先生、そこまで気づいてるんだ」
「まあな」
「ニシさんとか、南浦さんたちは?」
「知らない。川出さんも」
紀人は少し真面目な顔になる。
「だからCASHにいる時は気をつけてくれ。俺から話すまでは、紀人とキッドを普通につなげないでほしい」
「分かった。紀人が話すまでは黙ってる」
サクラも、ここでは冗談を言わずに頷いた。
「頼む」
「でも、北山先生にバレるのって時間の問題じゃない?」
「……俺もそんな気はしてる」
「やっぱり」
「笑うなよ」
「だって先生だもん」
「どういう意味だよ」
「紀人のこと、道場でずっと見てるってこと」
「……それ言われると弱いな」
紀人も苦笑する。
少し間が空いたところで、何かを思い出したように口を開いた。
「あと、もう一つ」
「まだあるの?」
「会わせたいやつらがいる」
「誰?」
「明日の朝稽古、来る?」
「行くつもりだけど」
「じゃあ、その時に会わせる」
「だから誰なの?」
「見れば分かる」
サクラの目が細くなった。
「それ、一番信用できない言い方なんだけど」
「説明しにくいんだよ」
「何それ」
「先に言っとくけど、見た目で敵だと思って殴るなよ」
サクラが黙った。
数秒ほど紀人の顔を見つめる。
「……紀人」
「何?」
「何を連れてくる気?」
「だから明日分かるって」
「ものすごく不安なんだけど」
「大丈夫だって」
「紀人の『大丈夫』が一番不安」
「ひどくない?」
「普段の行いでしょ」
「何で俺が悪いんだよ!」
また声が大きくなり、二人は周囲の視線に気づいて同時に口を閉じた。
サクラは自分の教科書を抱える。
「じゃあ明日。変なの連れてきたら、紀人から殴るから」
「俺から!?」
「当然でしょ」
「理不尽すぎるだろ!」
サクラは少し楽しそうに笑いながら、自分の席へ戻っていった。
紀人は納得できない顔でその背中を見送る。
席へ戻ったサクラは、教科書を机に置いてから、ほんの少しだけ振り返った。
紀人はもう別のことをしていて、こちらを見ていない。
「……ほんと、気づかないんだから」
誰にも聞こえないほどの声で呟く。
何に気づいていないのか。
おそらく紀人本人だけは、しばらく分からないのだろう。
サクラは小さく息を吐くと、教科書を開いた。
◇
放課後。
「じゃあ、また明日」
「ああ。朝、忘れるなよ」
「紀人こそ」
「俺は忘れねえよ」
「どうだか」
「お前な……」
校門を出たところで、紀人とサクラはそれぞれ別の方向へ歩き出した。
今日は怪人も現れない。CASHから連絡が来ることもない。
授業を受け、分からないところを教え合い、くだらないことで言い合って、明日の約束をして帰る。
そんな普通の一日だった。
◇
夕方。
街の中にある神社では、参拝客の姿も少なくなり始めていた。
境内の端では、何羽もの鳩が石畳の上を歩いている。人が近づけば少しだけ離れ、またすぐに戻ってくる。
そんな穏やかな時間だった。
「……焦げ臭くない?」
一人の参拝客が足を止めた。
「え?」
連れが周囲を見回す。
次の瞬間、境内の一角から炎が上がった。
「火事!」
誰かが叫ぶ。
炎は落ち葉を燃やしただけでは終わらない。すぐそばにあった木製の案内板へ燃え移ると、さらに柵の一部へと走った。
「離れてください!」
神職が声を上げる。
「消火器!」
参拝客たちが慌てて火から離れ、境内を歩いていた鳩の群れが一斉に飛び立った。
無数の羽音と人々の声が重なり、それまで静かだった境内が一瞬で騒然となる。
神職が消火器を抱えて駆けつけ、炎へ向けて噴射した。
白い消火剤に覆われても、火はすぐには消えない。
「消防呼んで!」
「もう電話してます!」
炎は案内板を黒く焦がしながら燃え続けた。
◇
消防車が到着した頃には、火はある程度まで抑えられていた。
それでも完全に消えるまでには時間がかかった。
幸い、怪我人はいない。社殿まで火が回ることもなかったが、案内板と柵の一部は黒く焼け、境内には焦げた臭いが残っている。
「出火原因は?」
「まだ何とも」
消防と警察が現場を確認していく。
タバコの吸い殻は見つからない。近くに火を使う設備もなく、電気系統が原因とも考えにくい。
だからといって、すぐに放火と決めることもできなかった。
「何か見ませんでした?」
警察官が、火災当時に境内にいた参拝客へ聞いて回る。
「火が出る前に、不審な人とか」
「不審な人……」
一人の女性が少し考え込んだ。
「そういえば……白い服の人がいたような」
「どこに?」
「あっちの方です」
女性が境内の奥を指す。
「男性ですか? 女性ですか?」
「そこまでは……遠かったので」
すると、近くで話を聞いていた別の参拝客が口を挟んだ。
「私も見たかもしれない」
「白い服の人を?」
「はい。でも……」
「何か気になることが?」
「頭のところが、光ってたような気がして」
「光っていた?」
「火みたいに見えたんですけど……火事だったから、見間違いかもしれません」
警察官はその証言も手元へ記録した。
現場には煙も出ていたうえ、火災直後で誰もが混乱している。
目撃情報の一つとしては残る。
だが、それ以上の意味を持つものだとは、この時点では誰も考えなかった。
◇
日が暮れ始める。
消火活動を終えた境内は濡れ、黒く焦げた案内板の周囲には規制線が張られていた。
逃げていた鳩が一羽、境内へ戻ってくる。
石畳へ降りると、首を小刻みに動かしながら歩き始めた。
警察官も消防隊員も、その鳩を気に留めることはない。
神社から少し離れた道。
夕暮れの中を、一つの白い人影が歩いていた。
遠目には人間にも見える。
だが、その頭部は鳩を思わせる形をしていた。
さらに頭上では、小さな炎が揺れている。
何羽かの鳩が空を横切る。
白い影はそれを見上げることもなく、ただ歩き続けた。
やがて、その姿は夕暮れの向こうへと消えていった。




