閑話3・前編 悪い夢
閑話2・前編 悪い夢
雨が降っていた。
強い雨ではない。
けれど、朝から途切れることなく降り続いている雨は、いつもなら人の多い公園から、すっかり人影を消していた。
濡れた木々。
黒く染まった遊歩道。
水溜まりへ落ち続ける雨粒。
そんな景色の中を、一人の青年が走っている。
「はっ……はっ……」
紀人は一定の呼吸を保ちながら、濡れた遊歩道を駆けていた。
この公園を走るのは日課だ。
多少の雨くらいなら、休む理由にはならない。
むしろ今日は人が少ない。
走りやすくていい。
「……さすがに誰もいねえな」
普段なら、散歩をしている老人や犬を連れた人、子供たちの姿もある。
今日はそれすら、ほとんど見当たらない。
聞こえるのは雨音と、自分の足音だけ。
紀人は速度を少し上げた。
身体の調子は悪くない。
少し前まで道場で身体を動かしていたせいか、むしろよく動く。
師範代を務める兄弟子――北山との稽古を思い出す。
「次は一本取ってやる……」
小さく呟き、さらに足を進める。
そのときだった。
「――っ!」
紀人の足が止まった。
「…………?」
雨音。
それ以外には何も聞こえない。
「今……」
何か聞こえた。
耳を澄ます。
雨。
風。
葉の擦れる音。
そして。
「きゃあああああっ!」
「!」
今度は、はっきり聞こえた。
女性の悲鳴。
紀人は反射的に走り出していた。
遊歩道を外れ、声が聞こえた方向へ向かう。
植え込みの脇を抜ける。
公園の外。
その先にある、細い裏路地。
「大丈夫ですか!」
角を曲がった紀人の足が止まった。
「…………は?」
最初。
何を見ているのか、分からなかった。
一人の女性がいる。
地面に倒れかけながら、それでも何とか後ろへ下がろうとしていた。
そして、その前には。
もう一つ。
何かがいた。
「……なんだ、あれ」
人間ではない。
そう判断するまでに、ほとんど時間はかからなかった。
異様に膨れた身体。
人の形に近い。
だが、人ではない。
生物の幼虫を無理やり人間の形へ押し込んだような姿。
雨に濡れた表皮が、不気味に光っている。
着ぐるみ。
一瞬、そんな考えも浮かんだ。
だが。
違う。
あれは違う。
理由など説明できない。
ただ、身体がそう告げていた。
近づいてはいけない。
逃げろ。
目の前にいるものは、人間が相手をしていいものではない。
「……っ」
女性が紀人を見る。
「逃げて……!」
「え?」
「早く……逃げて!」
怪物が振り向いた。
紀人と目が合う。
「…………」
ぞくり。
背中を冷たいものが走った。
雨のせいではない。
怪物が女性へ向き直る。
「危ねえ!」
考えるより先に身体が動いた。
紀人は二人の間へ飛び込み、そのまま身体を捻った。
「おらぁっ!」
蹴りが怪物の身体へ叩き込まれる。
重い。
「っ……!」
人間を蹴った感触ではなかった。
だが、怪物の身体がわずかに傾いた。
「効いた……?」
怪物が紀人を見る。
「…………」
「いや、そんな顔されても俺も困るんだけどな……」
口ではそう言いながら。
紀人の額から流れたものは、雨だけではなかった。
怖い。
当然だった。
こんなものを見たことなど、一度もない。
何なのかも分からない。
何ができるのかも分からない。
それでも。
「立てます?」
紀人は怪物から目を離さず、背後の女性へ声をかけた。
「……ええ。なんとか……」
「じゃあ、逃げてください」
「あなたは……?」
「俺?」
紀人は構えた。
「ちょっと時間稼ぎします」
「無茶よ!」
「知ってます」
「だったら――」
「早く!」
強い声だった。
女性が息を呑む。
「ここに二人いたら、俺も逃げられないんで!」
「…………!」
「行って!」
女性が立ち上がる。
ふらつきながら走り出す。
怪物がそれを追おうとした。
「おっと!」
紀人が回り込む。
「そっちは行かせねえよ」
怪物の動きが止まった。
紀人を見る。
「…………」
「ほんとに何なんだよ、お前」
答えはない。
怪物が腕を振るった。
「っ!」
紀人は身を沈める。
頭上を何かが通過した。
風が鳴った。
「うおっ……!」
当たっていない。
なのに分かる。
まともに受ければ、まずい。
「洒落になってねえな……!」
紀人は踏み込んだ。
◇
どれくらい経った。
五分。
いや。
もっとだ。
「はぁっ……はぁっ……!」
紀人の呼吸が荒くなる。
怪物は、まだ立っている。
「硬すぎんだろ……!」
拳を当てた。
蹴った。
関節も狙った。
人間なら、とっくに倒れている。
だが。
倒れない。
それどころか、ほとんど疲れている様子すらなかった。
「俺だけ疲れてんじゃねえか……不公平だろ……」
軽口を叩く。
そうでもしなければ、恐怖に飲まれそうだった。
怪物が踏み込む。
「!」
紀人は横へかわす。
怪物の腕が壁へ激突した。
鈍い音。
壁面に亀裂が走る。
「…………」
紀人の顔から笑みが消えた。
「マジかよ」
あれを受けたら。
そう考える必要すらない。
受けてはいけない。
ただ、それだけだ。
拳。
回避。
反撃。
効かない。
蹴り。
わずかに怪物が揺れる。
離れる。
またかわす。
雨は降り続いている。
服は完全に濡れていた。
髪から水が滴る。
靴の中まで水が入り込んでいる。
「はっ……!」
怪物の腕をかわす。
懐へ入る。
掌底。
離れる。
「……まだ!」
紀人は構え直した。
逃げた女性の姿は、もう見えない。
体感では、とっくに十分近く戦っている。
これだけ時間を稼げば。
さすがに、もう大丈夫だろう。
「よし……」
今度は自分が逃げる。
怪物の次の攻撃をかわして、距離を取る。
それでいい。
怪物が腕を振り上げる。
紀人は軌道を見た。
右。
かわす。
いつもなら。
それで終わるはずだった。
踏み出した足が。
滑った。
「――え?」
濡れた路面。
靴底が、ほんのわずかに横へ流れる。
身体の軸が崩れた。
「しまっ――」
怪物の腕が迫る。
避けられない。
次の瞬間。
衝撃。
「――――っ!」
音が消えた。
息も。
声も。
何も出なかった。
身体が宙を舞う。
壁。
地面。
どちらにぶつかったのかすら、紀人には分からなかった。
「…………」
雨が顔に当たっている。
それだけは分かった。
「……ぁ……」
身体が動かない。
息を吸おうとする。
吸えない。
胸の奥で、何かがおかしな音を立てている。
痛い。
いや。
痛いという感覚さえ、少しずつ遠ざかっていく。
まずい。
これは。
本当に。
「……死ぬ……?」
怪物が近づいてくる。
一歩。
また一歩。
逃げなければ。
分かっている。
なのに。
指一本、動かない。
視界が暗くなっていく。
雨音だけが、妙に大きい。
怪物の影が紀人を覆った。
そのとき。
何かが。
怪物と紀人の間へ立った。
「…………?」
誰だ。
ぼやけて見えない。
人。
だったと思う。
一人。
いや。
「……なんだ……?」
二人。
三人。
違う。
もっといる。
同じような人影が、雨の中にいくつも立っている。
怪物が動きを止めた。
人影の一つへ襲いかかる。
だが。
怪物の腕は、その身体をすり抜けた。
「…………?」
紀人には理解できなかった。
夢でも見ているのか。
怪物が別の影へ向かう。
また、すり抜ける。
その間に。
誰かが紀人へ近づいてきた。
「…………だれ……」
顔が見えない。
声も、雨音に紛れて聞き取れない。
ただ。
なぜか。
ほんの一瞬だけ。
懐かしい気がした。
「…………」
身体が浮く。
誰かに運ばれている。
遠くで怪物の声がした。
雨音。
金属の擦れる音。
何かが開く。
暗闇。
そして。
水の音。
◇
冷たい。
暗い。
身体が揺れている。
どこだ。
分からない。
水が流れる音だけが、ずっと聞こえている。
誰かが何かを言っている。
聞き取れない。
男の声。
だったような気がする。
また暗くなる。
◇
光。
白い。
眩しい。
何かが身体に触れている。
金属音。
機械のような音。
声。
「――――」
聞こえない。
「――――しか――」
何を。
「――――」
分からない。
身体が動かない。
怖い。
何をされている。
誰だ。
「…………っ」
紀人は声を出そうとした。
出なかった。
光が強くなる。
眩しい。
何も見えない。
そして。
すべてが消えた。
◇
「――っ!」
紀人は目を開けた。
「…………」
天井。
見慣れた天井だった。
「……え?」
何度か瞬きをする。
自分の部屋。
自分のベッド。
窓から朝の光が差し込んでいる。
「……夢?」
変な夢を見ていた。
ものすごく。
嫌な夢。
雨。
公園。
悲鳴。
「…………」
そこから先が出てこない。
「昨日……」
ランニングをしていた。
それは覚えている。
雨の中。
いつもの公園を走って。
「……そのあと、どうしたっけ」
帰ってきた記憶がない。
着替えた記憶も。
ベッドへ入った記憶もない。
「…………?」
紀人は身体を起こした。
「いっ……!」
全身に痛みが走った。
「いててて……なんだこれ」
肩。
背中。
腰。
脚。
どこか一か所ではない。
全身が妙に軋んでいる。
筋肉痛とも違う。
もっと身体の奥。
骨と関節の内側から、ぎしぎしと音を立てているような。
「昨日そんな走ったか……?」
腕を回す。
「いってぇ……」
動く。
普通に動く。
怪我をしている様子もない。
何かが引っかかる。
ひどく大事なことを忘れているような。
怖いものを見た。
そんな気がする。
誰かに会った。
そんな気もする。
「…………まあ」
紀人は頭を掻いた。
「夢か」
それ以外に説明がつかない。
雨の日に走って。
疲れて帰って。
そのまま寝た。
きっとそうだ。
「にしても……夢で筋肉痛になるか?」
答える者はいない。
紀人はベッドから降りた。
足の裏が床へ触れる。
一瞬。
自分の身体ではないような、奇妙な感覚がした。
「…………?」
だが、それもすぐに消えた。
「腹減った」
いつもの朝。
いつもの部屋。
いつもの自分。
少なくとも。
紀人は、そう思っていた。
――――――――――
【あとがき】
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
今回は、本編では描かれていなかった出来事を描く閑話、その前編となります。
紀人にとっては「妙に生々しい悪い夢」。
しかし、読者の皆様には、この出来事が単なる夢ではないことが見えてきたのではないでしょうか。
なぜ紀人は自分の部屋で目を覚ましたのか。
あのとき彼を助けたのは誰だったのか。
そして、紀人の身体に何が起きたのか。
本作品を含む、凛監修×生成AI合作作品は、同じ世界観の中でつながるシリーズ作品です。
それぞれ単独でもお楽しみいただけますが、同じ出来事が別作品では異なる視点から描かれたり、一方で起きた出来事が、もう一方の物語へつながったりすることがあります。
一つの作品だけでも楽しめる。
けれど、複数の作品を読むことで、初めて見えてくるものもある。
ぜひ、それぞれの物語をあわせてお楽しみください。
【人間×生成AIによる合作作品】
企画・原案・設定・ストーリー構成:時根脱才
文章制作・構成補助:ChatGPT(OpenAI)
本作品の世界観、キャラクター、各エピソードの原案・展開は作者が制作し、それをもとにAIと相談・推敲を重ねながら、小説として文章化しています。
本作品は「小説家になろう」「カクヨム」の両サイトに掲載しています。




