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第9話 封鎖の翌朝

 翌朝、王立学院は静かに揺れていた。


 大きな混乱が起きたわけではない。


 授業は通常通り行われる。食堂も開いている。訓練場では一年生が属性魔力の基礎練習をしている。


 だが、北区画へ向かう通路だけは封鎖されていた。


 管理迷宮《翠門》。


 その入口前には学院の警備兵だけでなく、境界軍の兵士が立っている。


 灰色の外套。黒線と銀杭の紋章。


 それを見た生徒たちは、自然と声を潜めた。


「本当に、境界軍が警備してる……」


 食堂の窓際で、ミナが呟いた。


 ロイ、リアナ、ヴァルター、ミナの四人は、いつもの席についていた。


 ただ、いつもより会話は少ない。


 ミナは外を見ながら言った。


「昨日の夜、何かあったよね」


 リアナはロイを見る。


 ヴァルターも同じだった。


 ロイはスープを飲んでから答えた。


「下見があった」


「やっぱり」


「セレス隊長たちが?」


 リアナが訊く。


「ああ」


「あなたも行ったのね」


「門の中には入った」


 ミナが顔をしかめる。


「さらっと言うやつじゃないよね、それ」


「止められなかったのか」


 ヴァルターがリアナを見る。


 リアナは静かに答えた。


「私は門の外まで同行したわ。中には入っていない」


「なぜ」


「命令されたからよ」


「君が?」


「セレス隊長に。私は従うべきだと判断した」


 ヴァルターは少しだけ目を伏せた。


 名簿持ちからの命令。


 学院生にとって、それは特別な重みを持つ。


 境界名簿は、憧れであり、目標であり、同時に現実の重さでもある。


 生徒たちは名簿の名前を覚える。

 序列保持者の戦果を読む。

 いつか自分もそこへ、と思う。


 その名簿の第三十二席が、今この学院にいる。


 それだけで、学院全体が浮き足立っていた。


 ミナが声を落とす。


「で、中はどうだったの?」


「封鎖した」


「何を?」


「奥から来るもの」


 ミナの手が止まった。


 リアナの表情が硬くなる。


「奥から来るもの、ということは、昨日の根が本体ではなかったのね」


「ああ」


「見たの?」


「影だけだ」


 ヴァルターが訊く。


「危険度は」


「まだ分からない」


「君でも?」


「見えていないものは分からない」


 ロイは淡々と答えた。


 ミナは少しだけ息を吐く。


「ロイって、そういうところはちゃんと言うよね」


「分からないものは分からない」


「普通は、強い人ほど分かったふりするんだけど」


「それで死ぬ」


 食卓が一瞬、静かになった。


 リアナはロイの言葉を聞いて、短く頷いた。


「今日、学院から説明があると思うわ」


「たぶんな」


「私たちは呼ばれる?」


「可能性はある」


 その時、食堂の入口で教師が声を上げた。


「二年第一班、リアナ・セレスト班。食後、第一会議室へ来るように」


 ミナが小さく呻いた。


「ほら来た」



 第一会議室には、学院長、エルナ教官、管理局の術師長、セレス・アーヴェインがいた。


 その時点で、ただの事情聴取ではない。


 リアナたちは扉の前で一礼し、室内へ入った。


 セレスは壁際に立っている。


 灰色の軍装。腰の蒼い長剣。


 その姿を見ただけで、ミナの背筋が伸びた。


 ヴァルターも自然と姿勢を正す。


 名簿持ち。


 その存在感は、教官とも貴族とも違った。


 学院長が穏やかな声で言う。


「来てくれてありがとう。まず、《翠門》で発生している異常について説明する」


 机の上には、簡易地図と封印された黒い根の断片が置かれていた。


「昨日、第一層に現れた未記録個体は、通常の迷宮種ではない。外域魔獣反応に近い波形を持つことが確認された」


 ミナが小さく息を呑む。


 ヴァルターの顔も険しくなる。


 リアナは表情を崩さず、質問した。


「外域魔獣そのもの、という判断ですか」


 答えたのはセレスだった。


「現時点では違う。外域に由来する反応を帯びた、迷宮内発生個体。あるいは、外域反応に汚染された迷宮防衛反応。そのどちらかだ」


「迷宮防衛反応……」


 リアナが呟く。


 セレスは頷いた。


「《翠門》は完全に死んではいない。迷宮そのものが奥から来るものを押し返そうとしている可能性がある」


 ロイが昨日言ったことと同じだった。


 リアナは一瞬だけロイを見る。


 ロイは黙って地図を見ていた。


 学院長が続ける。


「よって、本日より《翠門》の学生実習は全面停止する。境界軍と管理局による調査が優先される」


 ミナが少しほっとした顔をした。


 だが、続く言葉でその表情は固まった。


「ただし、昨日の接触班である君たちには、現場確認に協力してもらう可能性がある」


「生徒を同行させるのですか」


 ヴァルターが言った。


 声は抑えているが、緊張がある。


 学院長は頷いた。


「戦闘参加ではない。あくまで記録照合と証言確認だ。安全確保は境界軍が行う」


 セレスが短く付け加える。


「危険と判断すれば、即座に下がらせる」


 その一言で、部屋の空気が少し引き締まった。


 境界名簿第三十二席の判断。


 憧れの名簿持ちの言葉は、生徒にとって重い。


 リアナが一歩前に出る。


「同行する場合、指揮権はどちらにありますか」


 エルナ教官がわずかに眉を上げた。


 セレスもリアナを見る。


「迷宮内では私が持つ」


「では、学院生側の小単位行動は私がまとめます。よろしいですか」


「許可する。ただし、私の命令と衝突した場合は、私を優先しろ」


「承知しました」


 セレスは少しだけ目を細めた。


「判断が早い」


「昨日、遅れれば危険だと学びました」


「悪くない」


 ミナが隣で小さく息を止める。


 名簿持ちからの評価。


 それは、学院生にとって簡単に得られるものではない。


 リアナは表情を変えなかったが、指先にわずかに力が入っていた。



 会議が終わる直前、セレスがロイを呼んだ。


「ロイ・オルディス。残れ」


 空気が止まる。


 学院長も止めなかった。


 リアナはすぐにロイを見る。


「私も残ります」


「理由は」


 セレスが訊く。


「班長として、彼が関わる内容を把握する必要があります」


「今回は境界軍側の確認だ」


「それでも、学院内で彼が私の班員であることは変わりません」


 セレスは数秒黙った。


 エルナ教官が腕を組む。


 ミナとヴァルターは息を潜めていた。


 やがて、セレスが言う。


「いい。聞くだけなら許可する」


「ありがとうございます」


 ミナとヴァルターは外に出るよう促された。


 会議室に残ったのは、ロイ、リアナ、セレス、エルナ教官、学院長。


 セレスは机の上に一枚の測定板を置いた。


 そこには、黒い筋が複数刻まれている。


「昨日の封鎖区画で採取した波形だ」


 ロイはそれを見る。


「濃くなっている」


「ああ。今朝の時点で、さらに深部へ向けて反応が伸びている」


「蓋が保たないか」


「もって今日の夜までだ」


 リアナの表情が険しくなる。


「それほど早いのですか」


「封鎖は一時的なものだ。根本処理ではない」


 セレスは測定板を指で叩いた。


「処理には、反応源の確認が必要になる。そこで、君に確認したい」


 ロイは黙っている。


「昨日、奥の影を見たな」


「ああ」


「あれをどう見る」


「外域魔獣の本体とは限らない。だが、外域反応の核に近いものではある」


「禍等級は」


 その言葉に、リアナの呼吸がわずかに止まった。


 禍等級。


 ダンジョンのEからSとは違う、外域脅威のための等級。


 授業で名称だけは聞いたことがある。だが、生徒が日常的に扱う言葉ではない。


 ロイは少し考えた。


「まだ小禍にも届かない」


 リアナは少しだけ安堵しかけた。


 だが、ロイの次の言葉で止まる。


「ただし、壁内に出ていい反応ではない」


 セレスが頷く。


「同感だ」


 エルナ教官が低く言う。


「小禍未満でも、学院の管理迷宮に出れば十分すぎる異常だ」


「そういうことだ」


 セレスはロイを見る。


「今日の夜、再調査に入る。必要なら封鎖ではなく、切除する」


「討伐命令か」


「まだ違う。調査と切除だ。ただし、現場判断で討伐に移る可能性はある」


「分かった」


「その場合、私の指揮に従え」


「ああ」


 リアナは二人の会話を聞いていた。


 短い。

 迷いがない。

 それでいて、情報の密度が高い。


 学院の実習会議とは違う。


 これは、外域に近い戦場の会話だった。



 会議室を出ると、ミナとヴァルターが廊下で待っていた。


「どうだった?」


 ミナがすぐに訊く。


 リアナが答える。


「《翠門》の実習は停止。私たちは現場確認に協力する可能性があるわ」


「やっぱり関わるんだ……」


「戦闘参加ではない。記録照合よ」


「でもロイは?」


 ミナの視線がロイへ向く。


「ロイはどうせ戦うんでしょ」


「命令次第だ」


「それ聞くたびに不安になる」


 ヴァルターが静かに言った。


「禍等級という言葉が出たのか」


 リアナは少し驚いたように彼を見る。


「聞こえていたの?」


「少しだけだ」


 ミナの顔が固まる。


「禍等級って、外域のやつだよね」


「ええ」


 リアナは声を落とした。


「ただし、ロイの見立てでは小禍未満。今すぐ大規模災害になるものではないわ」


「小禍未満……」


 ヴァルターは呟く。


「それでも、外域反応だ」


「そうよ」


 リアナは頷いた。


「だから、私たちは浮つかないこと。境界軍が来ているからといって、見物気分で近づく生徒が出れば危険よ」


「注意喚起する?」


 ミナが訊く。


「教師が行うはず。ただ、私たちの周囲には伝えておく」


 ロイは廊下の窓から北区画を見る。


 《翠門》の方角は静かだ。


 だが、奥では動いている。


 昨日より深く。


 そして、早く。



 午後、通常授業は短縮された。


 代わりに、全生徒へ向けた臨時講話が行われることになった。


 大講堂には、二年生だけでなく上級生も集められていた。


 壇上には学院長。


 その横に、セレス・アーヴェインが立っている。


 彼女が姿を見せた瞬間、講堂がざわめいた。


 《蒼刃》。


 境界名簿第三十二席。


 憧れの序列保持者が、自分たちの前に立っている。


 それだけで、空気が熱を帯びた。


 学院長が手を上げ、静寂を作る。


「管理迷宮《翠門》において、未記録の異常反応が確認されました。安全確認が完了するまで、《翠門》の実習は全面停止とします」


 講堂にざわめきが走る。


 学院長は続けた。


「不用意に北区画へ近づくことを禁じます。これは脅しではありません。君たちの安全を守るための措置です」


 その後、セレスが一歩前へ出た。


 講堂が一瞬で静かになる。


 彼女は淡々と言った。


「境界軍のセレス・アーヴェインだ」


 その名だけで、空気が震えた。


「《翠門》の調査は境界軍と学院管理局が行う。学生の立ち入りは認めない。興味本位で近づいた者は、理由を問わず拘束する」


 短い。


 だが、強い。


「外域に関わる脅威は、好奇心で測るものではない。知りたいなら学べ。近づきたいなら鍛えろ。憧れるだけなら、距離を守れ」


 講堂の生徒たちは、誰も口を挟まなかった。


 セレスの言葉は冷たい。


 だが、それは見下しではない。


 境界名簿に憧れる者たちへ向けた、現実の線引きだった。


「以上だ」


 セレスは一礼もせず下がった。


 それでも、講堂の空気はしばらく戻らなかった。


 ミナが小さく呟く。


「かっこいいけど、怖い……」


 ヴァルターは壇上を見つめていた。


「境界名簿とは、ああいう場所なのか」


 リアナは答えない。


 ロイも黙っていた。


 ただ、セレスの言葉だけは正しいと思った。


 知りたいなら学べ。

 近づきたいなら鍛えろ。

 憧れるだけなら、距離を守れ。


 境界は、憧れだけで立てる場所ではない。



 講話の後、ロイは廊下で数人の上級生に声をかけられた。


「オルディス」


 先頭にいたのは、三年生の男子生徒だった。胸元の徽章から見て、上級実技班の一人だ。


「少し聞きたい。君は昨日、《翠門》の未記録個体と接触したらしいな」


「ああ」


「境界軍の調査にも関わっているのか」


「少し」


「なぜ君が?」


 その言葉には、疑問だけではない。


 不満もあった。


 境界軍。

 序列保持者。

 名簿持ち。


 学院生にとって憧れの存在と、編入して間もないロイが近い距離で話している。


 面白くない者がいても不思議ではない。


 ロイは答えた。


「接触者だからだ」


「それだけか?」


「それだけだ」


 上級生の眉が動いた。


 その時、リアナが横から入った。


「彼は二年第一班の班員として、昨日の件に関わりました。詳細は学院から説明があるはずです」


「セレスト嬢。君に聞いているわけではない」


「班員への不必要な接触を止めています」


 空気が少し硬くなる。


 ヴァルターも前に出た。


「学院長から北区画への接近禁止が出たばかりです。今は噂話を広げるべきではないでしょう」


 上級生はロイを睨んだが、それ以上は踏み込まなかった。


「……分かった。失礼した」


 彼らが去ると、ミナが胸を撫で下ろした。


「今の、ちょっと怖かった」


「よくあるのか」


 ロイが訊くと、リアナが答える。


「憧れが強いほど、近くにいる人間を見たくなるものよ」


「そういうものか」


「そういうものよ」


 ヴァルターが言う。


「境界名簿は、学院生にとって目標だ。そこへ近づける機会があれば、誰でも気になる」


「近づくだけなら危ない」


「分かっている。だが、分かっていても憧れる」


 ロイはヴァルターを見た。


 その声には、嘘がなかった。


 ヴァルターもまた、境界名簿を目標として見ている一人なのだ。


「なら、鍛えるしかないな」


 ロイが言う。


 ヴァルターは一瞬黙り、それから小さく笑った。


「君に言われると腹が立つが、正しい」


「腹が立つのか」


「立つ」


「そうか」


 ミナが小さく笑った。


「この二人、少し慣れてきたよね」


「慣れていない」


 ヴァルターが即答する。


 ロイも頷いた。


「たぶん慣れていない」


「そこは揃うんだ」



 夕方。


 ロイは寮室で《黒鳴》を点検していた。


 夜に再調査がある。


 命令が出るかどうかは、まだ分からない。


 だが、準備はしておく。


 鞘内の導雷軌条。

 蓄雷炉。

 刀身の歪み。

 柄の固定。


 問題なし。


 窓の外では、学院の灯りが一つずつ灯っていく。


 昼間の講堂で、セレスが言った言葉を思い出す。


 憧れるだけなら、距離を守れ。


 正しい。


 けれど、距離を守っているだけでは届かない場所もある。


 ロイは《黒鳴》を鞘へ戻した。


 その時、扉が叩かれた。


「ロイ」


 リアナの声だった。


 扉を開けると、彼女が立っていた。


 制服ではなく、動きやすい訓練服。腰には細剣。


「何だ」


「夜の再調査。あなたに招集がかかったわ」


「そうか」


「私にも」


 ロイは少しだけ眉を動かした。


「なぜだ」


「現場証言者として。戦闘参加ではないわ」


「危険だ」


「分かっている」


 リアナは真っ直ぐにロイを見る。


「でも、私は班長よ。見ないまま指揮はできない」


 その言葉に、ロイは少しだけ沈黙した。


 正しい。


 危険ではある。

 だが、理由は通っている。


「分かった」


「反対しないのね」


「理由がある」


「そう」


 リアナは小さく頷いた。


 表情は硬い。


 だが、怯えてはいない。


「セレス隊長から、十分後に北区画集合とのことよ」


「行く」


 ロイは《黒鳴》を腰に差した。


 鞘の奥で、黒雷が低く鳴る。


 夜の《翠門》が、再び口を開こうとしていた。


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