第8話 夜の翠門
夜の王立学院は、昼とは違う顔をしていた。
白い校舎は月明かりを受けて青く沈み、廊下の魔導灯は足元だけを淡く照らしている。生徒たちの声は遠く、訓練場の音もない。
ロイは寮棟を出て、北区画へ向かった。
腰には界刀《黒鳴》。
外套は羽織っていない。目立つからではなく、今夜は長く動くつもりがなかったからだ。
《翠門》の方角から、鉄の臭いが流れてくる。
昨日よりも濃い。
だが、広がり方は遅い。まだ迷宮の外へ漏れてはいない。境界軍が下見を急いだのは正しい判断だった。
北区画へ続く渡り廊下に差しかかった時、背後から声がした。
「どこへ行くの」
リアナだった。
制服ではなく、薄い上着を羽織っている。腰には細剣。眠っていたところを出てきた様子ではない。
「起きていたのか」
「あなたが夜に一人で動きそうだったから」
「なぜ分かった」
「あなたは、必要なら動くと言っていたわ」
「そうか」
リアナはロイの腰の《黒鳴》を見る。
「《翠門》ね」
「ああ」
「境界軍が動いているの?」
「たぶん」
「なら、あなたは学生として待機するべきよ」
「そうだな」
「そうだな、で戻らないのね」
「確認だけだ」
リアナは目を細めた。
「その確認が一番信用できないわ」
ロイは少し考えた。
「危険なら下がれ」
「命令?」
「助言だ」
「なら却下するわ。私は班長として、班員が夜中に迷宮へ向かう理由を確認する」
「面倒だな」
「ええ。人間関係は面倒なの」
リアナは一歩も引かなかった。
ロイは北区画を見た。
時間は惜しい。
ただし、無理に振り切れば後で余計に面倒になる。
「分かった。門までだ」
「中には?」
「入るな」
「理由は」
「外域反応がある」
その一言で、リアナの表情が引き締まった。
「……分かったわ。門まで同行する」
◇
《翠門》の入口前には、すでに境界軍がいた。
灰色の外套をまとった兵士が六名。
それぞれが灯りを最小限に抑え、装備を確認している。学院の警備兵もいるが、完全に空気に呑まれていた。
その中央に、セレス・アーヴェインが立っていた。
深い青の髪。灰色の軍装。腰の長剣。
彼女はロイを見ると、驚きもしなかった。
「来たか」
「臭いがした」
「だろうな」
セレスの視線が、ロイの後ろへ向く。
「そちらは」
「リアナ・セレスト。二年第一班班長です」
リアナが名乗る。
「門までの同行です。迷宮内への立ち入りは求めません」
「賢明だ」
セレスは短く言った。
その言い方に嫌味はなかった。
境界軍の兵士の一人が、ロイを見てわずかに姿勢を正した。
ほんの一瞬。
普通の学院生なら気づかない程度の変化だった。
だが、リアナは見逃さなかった。
境界軍の兵士。
それも外域対応経験者が、ロイを見て緊張した。
ロイは何も反応しない。
セレスが扉へ向き直る。
「状況を共有する。外域反応は第一層北東封鎖区画から再発。昨日より濃い。ただし、移動速度は遅い。目的は反応源の確認と、可能なら封鎖処理。討伐は優先しない」
兵士たちが短く返事をする。
「ロイ・オルディス」
「何だ」
「同行するなら、私の指揮下に入れ」
「目的は」
「反応源の確認。撤退路の維持。必要時の封鎖」
「討伐は」
「許可するまで禁止」
「分かった」
リアナがロイを見る。
彼は本当に、ただそれだけで納得した顔をしていた。
命令の目的が明確なら従う。
昨日もそうだった。
セレスはリアナへ視線を向ける。
「君はここで待機。異常があれば学院側へ報告。門の外へ出るな」
「了解しました」
「判断が早いな」
「中に入っても、今の私では足を引っ張ります」
セレスは少しだけ目を細めた。
「悪くない」
リアナは何も言わなかった。
だが、その一言が軽くないことは理解していた。
境界名簿第三十二席。
その序列保持者に、悪くないと評された。
学院生なら、それだけで胸を張れる評価だ。
だが今は、喜んでいる場合ではない。
《翠門》の石扉が、低く鳴った。
◇
夜の《翠門》は、昼よりも静かだった。
壁の根は黒く沈み、苔の光は弱い。通路の奥から、湿った風が流れてくる。
セレスを先頭に、境界軍の兵士たちが進む。
ロイは最後尾に近い位置を歩いた。
昨日の班行動とは違う。
彼らは無駄に話さない。足音の高さが揃っている。呼吸も乱れない。装備の金具が鳴る音すら少ない。
下級兵。
境界軍の中では、そう呼ばれる者たち。
だが壁内の基準なら、十分すぎるほど上澄みだった。
通路の分岐で、セレスが手を上げる。
全員が止まった。
「反応は」
兵士の一人が観測石を見た。
「北東。距離、およそ二百。濃度、上昇中」
ロイは床に目を落とす。
「近い」
セレスが振り返る。
「どこまで分かる」
「床下の流れが昨日より太い。根はまだ出ていない。出るなら三十秒以内」
「方向」
「前方、右壁、天井」
セレスが短く指示を出す。
「右壁、蒼壁。天井、射線確保。前方は私が見る。ロイ、後方」
「ああ」
兵士たちが即座に動いた。
右壁へ防御術式。天井へ照明符。前方へセレスが立つ。
次の瞬間、右壁が割れた。
黒い根が飛び出す。
兵士の防御術式が受け止める。続けて天井から三本。射手が青白い矢で撃ち落とす。
前方の床が盛り上がった。
セレスが剣を抜いた。
青い刃が、音もなく走る。
黒い根が凍るように断たれた。
蒼い斬撃。
炎でも雷でもない。氷とも違う。
斬られた根の断面が、青い光を帯びて硬直している。
《蒼刃》。
その異名にふさわしい一撃だった。
ロイは後方へ鞘を向ける。
背後の床に、細い亀裂。
根が出る前に、黒雷を置いた。
亀裂の中で雷が弾ける。
黒い根は、表面へ出る前に止まった。
セレスが言う。
「進む」
誰も返事をしない。
だが全員が動いた。
◇
北東封鎖区画の前に着くと、空気が明らかに変わった。
鉄の臭い。
湿った土。
さらに奥に、何か焦げたような臭い。
封鎖扉には管理局の封印符が貼られている。だが、符の端が黒く変色していた。
兵士が声を低くする。
「封印符、汚染されています」
セレスが頷く。
「開ける」
兵士が封印解除の準備を始める。
ロイは扉の下を見る。
「待て」
全員の動きが止まった。
セレスだけがロイを見た。
「理由は」
「扉の向こうに本体はいない。扉そのものに根を食わせている。普通に開けると、封印符ごと弾ける」
「対処は」
「符を残したまま、根だけ焼く」
「できるか」
「できる」
ロイは《黒鳴》を抜かなかった。
左手を鞘に添える。
黒い雷が、鞘の縁を這う。
「天穿」
雷は落ちなかった。
音もほとんどない。
黒い筋が、扉の表面を走った。
一本、二本、三本。
封印符の下を通り、根だけを焼いていく。
兵士の一人が小さく息を呑んだ。
「……符に触れていない」
黒雷は封印符を避け、扉に食い込んだ根だけを焼き切った。
細かすぎる制御。
境界軍の兵士ですら、簡単にはできない。
セレスは表情を変えずに言う。
「開けろ」
封鎖扉が低く開いた。
その奥にあったのは、通路ではなかった。
根で覆われた空間。
壁も床も天井も、黒い根に食われている。中心には、赤黒い塊が脈打っていた。
昨日の仮の中心より、大きい。
だが、まだ本体ではない。
「成長している」
セレスが呟く。
「反応源は奥か」
「いや」
ロイは首を横に振った。
「これは蓋だ」
「蓋?」
「奥から来るものを、ここで留めている。迷宮が押し返そうとしている」
兵士たちの空気が変わった。
セレスの目が鋭くなる。
「つまり、迷宮側の防衛反応か」
「たぶん」
「なら、これを壊せば奥が開く」
「ああ」
「残せば汚染が広がる」
「ああ」
短い沈黙。
選択は二つ。
壊して奥を見るか。
残して一時封鎖するか。
セレスは即断した。
「封鎖する。今夜の任務は確認だ。奥へは行かない」
「正しい」
ロイが言った。
セレスは彼を見る。
「君に評価されるとはな」
「事実だ」
「なら受け取る」
セレスは兵士たちへ命じる。
「封鎖陣を張る。三層式。内側を蒼刃で止める。外側を術式で固定。ロイ、黒雷で汚染の進路を焼け。壊すな」
「分かった」
命令は明確だった。
ロイは《黒鳴》を抜く。
黒い刀身が、根に覆われた空間の光を吸う。
セレスも長剣を構えた。
蒼い魔力が刃に宿る。
蒼と黒。
二つの色が、夜の迷宮で並んだ。
◇
作業は速かった。
境界軍の兵士たちは、迷わず封鎖陣を組み上げる。
ロイはその隙間を縫うように、黒雷を走らせた。
根を焼く。だが切らない。
汚染された魔力の流れだけを断つ。
封鎖陣の外へ広がろうとする細い枝を、一本ずつ潰す。
並列は十一。
増やす必要はない。
セレスは赤黒い塊へ蒼い刃を向けた。
斬らない。
ただ、蒼い魔力を薄く広げ、塊の動きを遅らせる。
彼女の指揮は短い。
「左、二歩下がれ」
「外縁固定」
「術式を重ねるな。濁る」
「ロイ、右下」
「分かった」
無駄がない。
若くして小隊を率いるだけの理由がある。
最後の封鎖符が貼られた瞬間、赤黒い塊の脈動が弱まった。
通路の空気が少しだけ軽くなる。
兵士が観測石を確認した。
「外域反応、低下。封鎖、安定」
セレスは長剣を下ろした。
「撤収する」
その瞬間だった。
赤黒い塊の奥で、何かが動いた。
音ではない。
視線のようなもの。
ロイは刀を構え直す。
セレスも反応した。
二人だけが、同時に奥を見た。
封鎖の向こう。
黒い根のさらに奥。
一瞬だけ、巨大な影が見えた。
目ではない。
だが、こちらを見ていた。
次の瞬間、影は消えた。
反応も途切れる。
兵士たちは気づいていない。
セレスが低く言う。
「見たか」
「ああ」
「あれが本体か」
「分からない」
「分からない、か」
「少なくとも、昨日の根ではない」
セレスは長剣を鞘へ戻した。
「撤収する。ここで判断を増やすな」
「同意する」
ロイも刀を納めた。
封鎖はできた。
だが、終わってはいない。
◇
《翠門》の入口へ戻ると、リアナが待っていた。
彼女は門の外に立ち、約束通り中には入っていなかった。
だが、目は眠気を帯びていない。
「戻ったのね」
「ああ」
「状況は」
セレスが答える。
「外域反応を確認。北東封鎖区画にて一時封鎖。今夜の調査は終了」
「危険は?」
「消えてはいない」
リアナは頷いた。
「分かりました」
セレスはリアナを見た。
「君は、中に入らなかったな」
「命令でしたから」
「命令を守れる者は貴重だ」
「ありがとうございます」
短いやり取り。
だが、リアナの背筋がわずかに伸びた。
ロイはそれを見て、少しだけ考えた。
セレスの言葉は短いが、相手の必要な場所に落ちる。
自分とは違う。
学ぶ価値はある。
リアナがロイを見る。
「ロイ。あなたも無事ね」
「問題ない」
「それは見れば分かるわ」
「ならなぜ聞いた」
「確認よ」
「そうか」
セレスが小さく言った。
「班長に報告する習慣をつけろ」
「努力する」
「努力ではなく実行しろ」
「分かった」
リアナが少しだけ驚いたようにセレスを見る。
ロイが素直に聞いたからだ。
セレスは何も言わず、兵士たちに撤収を命じた。
◇
寮へ戻る途中、リアナはロイの隣を歩いていた。
夜の廊下は静かだった。
「中で何を見たの」
「封鎖区画に外域反応。根は蓋だった」
「蓋?」
「奥から来るものを、迷宮が押し返していた」
リアナの表情が険しくなる。
「では、昨日の根は敵ではなく、防衛反応だった可能性があるの?」
「全部ではない。汚染されていた。だが、迷宮側の動きも混じっていた」
「複雑ね」
「ああ」
「あなたでも分からないことがあるのね」
「ある」
「少し安心したわ」
「なぜだ」
「何でも分かる相手より、分からないことを分からないと言う相手の方が信用できるから」
ロイは少し考えた。
「そういうものか」
「そういうものよ」
北区画の窓から、《翠門》の石扉が見えた。
封鎖はした。
だが、奥には何かがいる。
ロイは足を止めずに言った。
「明日は動く」
「学院が?」
「たぶん」
「あなたは?」
「命令次第だ」
リアナは短く息を吐く。
「その命令が出たら、私たちも関わることになるかもしれない」
「危険だ」
「分かっているわ」
リアナは前を向いた。
「でも、見ないふりをするには、もう近すぎる」
ロイは何も返さなかった。
それは正しい。
《翠門》の奥で動いた影。
壁の中へ伸びる外域の気配。
そして、境界軍の到着。
学院の日常は、まだ続いている。
だが、その下の地面には、もう亀裂が入っていた。
《黒鳴》の鞘の奥で、黒雷が低く鳴った。




