第7話 蒼刃、来たる
翌朝、王立学院の正門前には、いつもより多くの教師が立っていた。
表向きは、管理迷宮《翠門》の追加調査。
だが、門の内側に停まっている軍用馬車の紋章を見た者は、それだけでは済まないとすぐに気づいた。
黒い線と、銀の杭。
境界軍。
壁の外に関わる脅威を扱う、王国最精鋭の軍だ。
その名は、学院生にとっても遠いものではない。
騎士を志す者。魔術師を志す者。ダンジョン攻略者として名を上げたい者。
彼らの多くが、一度は夢を見る。
いつか自分も、境界軍に選ばれるのではないか。
いつか自分も、壁の外に名を刻む者になれるのではないか。
そして、その頂にあるのが――**境界名簿**。
外域で戦果を上げ、人類圏の防衛に貢献した者だけが名を載せることを許される、王国最高峰の序列。
学院の生徒にとって、それはただの軍事記録ではない。
憧れだった。
目標だった。
英雄譚に出てくる名前ではなく、努力の果てに手を伸ばせるかもしれない、最も遠い星だった。
「本当に来てる……」
食堂へ向かう途中、ミナが窓の外を見て呟いた。
灰色の外套を着た兵士たちが、校舎へ入っていく。人数は少ない。けれど、歩き方が違う。
生徒のような緊張はない。
騎士のような誇示もない。
ただ、必要な場所へ、必要な速度で進んでいる。
ヴァルターは窓の外を見たまま、低く言った。
「境界軍の兵士か」
その声には、いつもの自信とは違う響きがあった。
緊張。
そして、憧れ。
「ヴァルターでも緊張するんだ」
ミナが言うと、ヴァルターは視線を外さずに答えた。
「当然だ。境界軍は、壁内の騎士とは基準が違う。たとえ下級兵でも、外域対応経験者なら王国軍の上位部隊に匹敵する」
「そんなに?」
「そんなに、だ」
リアナも窓の外を見ていた。
その目は冷静だが、少しだけ硬い。
「境界名簿に載る者は、さらに別格よ。学院の実技成績やダンジョン踏破記録とは、評価の次元が違う」
ミナは小さく息を呑む。
「名簿持ち……本当に来てるのかな」
「来ている」
ロイが言った。
三人の視線が、彼に向く。
ロイはいつも通り、盆に黒パンと煮込みを載せていた。
「知ってるの?」
ミナが訊く。
「名前だけなら」
「誰?」
「《蒼刃》セレス・アーヴェイン」
その名が出た瞬間、近くを歩いていた数人の生徒が足を止めた。
ヴァルターの顔つきも変わる。
「《蒼刃》……境界名簿第三十二席」
ミナが目を見開いた。
「三十二席って、すごいの?」
「すごいどころではない」
ヴァルターは即答した。
「名簿は百席まである。だが、載るだけで王国中の騎士や魔術師の憧れだ。その中で三十二席なら、外域戦の主力級だ」
ミナはもう一度、窓の外を見た。
「そんな人が、学院に……」
ロイは何も言わなかった。
食堂の入口付近がざわめいたのは、その直後だった。
灰色の外套を着た境界軍の兵士が二人、食堂横の廊下を通る。
そして、その後ろから一人の少女が歩いてきた。
深い青の髪。
細身の軍装。
腰には、青みがかった長剣。
年齢だけ見れば、学院の上級生と大きく変わらない。けれど、誰も彼女をただの少女とは見なかった。
兵士たちが、自然と彼女の後ろに並んでいる。
率いられている。
命令されているからではない。
彼女が先頭に立つ者だと、誰もが理解しているからだ。
「……あれが」
誰かが呟いた。
「《蒼刃》……」
食堂の空気が静まり返る。
憧れの名簿持ち。
壁の外で名を刻んだ者。
学院生たちが、遠くからその背中を見つめていた。
セレス・アーヴェインは、周囲の視線に反応しなかった。
ただ一度だけ、ロイを見た。
青い瞳と、黒雷の少年の視線が重なる。
一瞬。
セレスの歩みが、わずかに遅くなった。
しかし、彼女は何も言わず、そのまま職員棟の方へ向かった。
ミナが小声で訊く。
「今、見たよね?」
「見たな」
「知り合い?」
「直接は知らない」
「直接は、って言い方やめようよ。不安になるから」
リアナは黙っていた。
彼女は、セレスがロイを見た意味を考えているようだった。
◇
午前の授業は予定通り行われた。
ただし、生徒たちの集中は明らかに落ちていた。
窓の外を境界軍の兵士が通るたび、誰かがそちらを見る。教師は何度か注意したが、完全には戻らない。
無理もない。
境界軍が来た。
しかも、境界名簿の序列保持者が来た。
学院生にとって、それは歴史書の人物が突然校舎を歩き始めたようなものだった。
黒板には、迷宮内における退避経路の確保について書かれている。
昨日の件を受けて、急遽差し替えられた内容らしい。
教師が言う。
「迷宮内では、敵を倒すことだけが成果ではありません。撤退路を維持すること。負傷者を出さないこと。情報を持ち帰ること。これらも重要な任務達成です」
何人かの生徒が、ロイを見た。
昨日、未記録個体を討伐せず、撤退補助に徹した編入生。
その判断が、授業の言葉と重なっている。
ロイは黒板を見ていた。
ミナが小声で言う。
「昨日のロイみたい」
「授業を聞け」
「聞いてるよ」
ヴァルターは真剣な顔で黒板を見ていた。
以前なら、ロイに反発していたかもしれない。
だが今は違う。
彼は理解しようとしていた。
自分が憧れてきた序列の世界と、目の前の編入生がどこかで繋がっているかもしれないことを。
◇
昼前、ロイは教室を出たところで呼び止められた。
「ロイ・オルディス」
廊下の先に、セレス・アーヴェインが立っていた。
周囲の生徒たちが、一斉に息を潜める。
境界名簿第三十二席。
《蒼刃》。
その本人が、編入生の名を呼んだ。
ミナが固まる。
ヴァルターは目を見開いた。
リアナだけが、すぐに表情を整えた。
ロイはセレスの前へ歩く。
「何だ」
「少し話がある」
「今か」
「今だ」
短い会話だった。
だが、その場にいた生徒たちは、そこに含まれた異様な距離感に気づいた。
《蒼刃》が、ロイを名指しした。
ロイは、それを当然のように受けた。
「分かった」
ロイが頷くと、リアナが一歩前に出た。
「彼は午後も授業があります。長くかかりますか」
セレスはリアナを見る。
無表情に近い顔。
だが、視線は鋭い。
「五分で済む」
「なら、班長として同行します」
廊下の空気がさらに硬くなった。
名簿持ちに、学院生が同行を申し出た。
普通なら、できない。
だが、リアナは引かなかった。
「彼は現在、王立学院二年第一班の班員です。《翠門》の件に関わる話なら、班長として把握する必要があります」
セレスは数秒、リアナを見た。
やがて、短く言う。
「いい。来い」
ミナが小さく「リアナすご……」と呟いた。
ヴァルターも前に出る。
「僕も同行します」
「理由は」
「同じ班員として、昨日の事案に関わっています」
セレスはロイを見る。
「増えるのか」
「俺に聞くな」
「では来い。五分を超えるなら切る」
そう言って、セレスは歩き出した。
◇
案内されたのは、職員棟の小会議室だった。
部屋にはセレス、ロイ、リアナ、ヴァルター、ミナ。加えて、境界軍の兵士が一人だけ控えている。
セレスは机に《翠門》の簡易地図を広げた。
「未記録個体の出現位置を確認する」
ロイは地図を見た。
「ここだ」
撤退路の一角を指す。
「床下から出た。最初は三本。すぐに増えた」
「核は」
「散っていた。仮の中心は作った」
「潰したか」
「抜いた。止めるために」
セレスは頷いた。
「討伐は」
「していない」
「理由は」
「命令が撤退補助だった」
セレスはそこで初めて、わずかに目を細めた。
「報告通りだな」
「何の報告だ」
「こちらの話だ」
ミナが小さくリアナを見る。
リアナは黙っていた。
セレスは次の質問に移る。
「倒すなら、何点必要だった」
「最低七。安定させるなら九。確実なら十一」
「十一で足りるか」
「第一層の構造を残すなら」
セレスは短く頷く。
「私の見立ても同じだ」
ヴァルターが思わず声を漏らした。
「同じ……?」
セレスがヴァルターを見る。
「何か」
「失礼しました。ただ、十一点同時処理を当然のように扱っていたので」
「当然ではない」
セレスは淡々と言った。
「だが、外域反応個体を相手にするなら、それくらいの想定は必要だ」
ミナが小さく呟く。
「世界が違いすぎる……」
セレスは地図を閉じる。
「確認は終わりだ」
「もう?」
ミナが声を漏らした。
「必要な情報は取れた」
セレスはロイを見る。
「明日、調査班が《翠門》に入る。学院側から同行者が出る可能性がある」
リアナが即座に訊く。
「生徒もですか」
「原則はない。だが、昨日の接触者として現場確認を求められる可能性はある」
「危険度は?」
「低くはない」
セレスは迷わず答えた。
「外域反応がある以上、管理迷宮として扱うべきではない」
その一言で、会議室の空気が沈んだ。
セレスは踵を返しかけ、ふとロイを見た。
「ロイ・オルディス」
「何だ」
「今回は私の指揮下ではない。勝手に討伐するな」
「命令がなければしない」
「ならいい」
短い確認だった。
だが、学院生たちは聞き逃さなかった。
**勝手に討伐するな。**
それはつまり。
《蒼刃》は、ロイがその気になれば討伐行動に移れると判断している。
境界名簿第三十二席の序列保持者が、目の前の編入生を、そういう戦力として見ている。
ミナは何も言えなかった。
ヴァルターの喉が小さく動く。
リアナは、ロイを見ていた。
何者なのか。
その問いが、また一段深くなる。
◇
小会議室を出た後、ミナは大きく息を吐いた。
「緊張した……」
ヴァルターも口数が少ない。
リアナはしばらく黙って歩いていたが、やがてロイを見た。
「セレス隊長は、あなたを知っていたわね」
「報告で知っているらしい」
「あなたは?」
「名前だけ知っていた」
「境界名簿第三十二席。《蒼刃》」
「ああ」
リアナは足を止めた。
「ロイ。あなたは――」
そこで、言葉を切った。
廊下の向こうに、他の生徒たちがいる。
好奇心に満ちた視線が、こちらを見ていた。
リアナは一度だけ息を吐き、言い方を変える。
「いずれ、話してもらうわ」
「必要なら」
「必要になると思う」
「そうか」
ミナが小声で言う。
「今の、絶対すごい話だったよね」
ヴァルターはロイを見た。
「君は、境界名簿をどう見ている」
「どう、とは」
「憧れではないのか」
ロイは少し考えた。
「役割だと思っている」
ヴァルターの表情が変わる。
「役割……?」
「名前が載れば、呼ばれる場所が増える。倒すべきものも増える。それだけだ」
ミナは困ったように笑った。
「ロイらしいけど、夢がない……」
ヴァルターは黙っていた。
彼にとって、境界名簿は憧れだった。
いつか届きたい場所だった。
だがロイは、それを栄誉ではなく、任務の重さとして見ている。
その差が、二人の間に静かに横たわっていた。
◇
その日の夕方。
境界軍の臨時宿舎として使われる客棟で、セレスは窓の外を見ていた。
白い校舎が夕陽に染まっている。
背後の兵士が言った。
「《黒雷》との接触、予定より早かったですね」
セレスは振り返らない。
「名を出すな」
「失礼しました」
「ここでは学生として扱う。学院長からもそう言われている」
「ですが、あれは……」
兵士は言葉を選んだ。
「本当に、学生として置いておくべき戦力ですか」
セレスは少しの間、答えなかった。
やがて、静かに言う。
「本人がそう命じられているなら、そうなのだろう」
「隊長は納得されていますか」
「納得と任務は別だ」
その言葉で、兵士は口を閉じた。
机の上の観測石が、かすかに震える。
黒い波紋が一つ、表面に広がった。
セレスの目が細くなる。
「《翠門》か」
「反応が再発しています。昨日より、わずかに濃い」
「予定を早める」
セレスは長剣を取った。
「今夜、下見に入る」
「学院側には」
「通達する。同行は不要」
観測石が、もう一度震えた。
黒い波紋。
外域反応。
セレスは扉へ向かう。
「ただし」
足を止め、窓の外を見た。
北区画の方角。
そこには、管理迷宮《翠門》がある。
「彼が気づかないとは限らない」
◇
同じ頃。
ロイは寮室で《黒鳴》を点検していた。
鞘の奥で、黒い雷が微かに鳴る。
窓の外は夜になりかけている。
学院の灯りは穏やかだった。
だが、北区画の方角から、ほんのわずかに鉄の臭いが流れてくる。
昨日より濃い。
ロイは手を止めた。
《翠門》の奥で、何かが動いている。
ロイは《黒鳴》を腰に差した。
「下見で済めばいいが」
誰に聞かせるでもなく呟き、部屋を出る。
廊下は静かだった。
誰も、まだ気づいていない。
ただ一人。
境界軍の序列保持者を除いて。




