第6話 十一並列
翌日の王立学院は、表面上だけはいつも通りだった。
朝の鐘が鳴り、生徒たちは教室へ向かう。廊下には話し声があり、食堂では焼きたてのパンの匂いがして、訓練場では一年生が基礎魔法の練習をしている。
ただし、二年棟の空気だけは少し違った。
昨日、管理迷宮《翠門》で未記録個体が出た。
その噂は、学院中に広がっていた。
「第一層に出たって本当か?」
「上級生の実習区画じゃないのか?」
「いや、二年第一班が遭遇したらしい」
「黒い根みたいな魔獣だって聞いたぞ」
「それを編入生が一人で止めたって」
話は尾ひれをつけて広がっていく。
ロイ・オルディスは、その噂の中心にいながら、いつもと変わらず教室の窓際に座っていた。
机の上には迷宮基礎論の教本。
腰には《黒鳴》。
右手には、購買部で買った下級回復薬が一本。
昨日リアナに言われて買ったものだ。
「それ、ちゃんと持ってるんだ」
前の席から、ミナが振り返った。
「ああ」
「使う気ある?」
「必要なら」
「必要になる前に持ってることが大事なんだよ」
「そうらしいな」
「リアナの言うことは素直に聞くよね」
「正しかったからな」
ミナは少しだけにやついたが、隣のリアナが無言で視線を向けると、すぐに前を向いた。
リアナは机の上で資料を整理していた。
昨日の報告書の写しだ。学院から正式に渡されたものではない。班長として、自分の記憶を元に書き起こしたものらしい。
通路。退避地点。未記録個体の出現場所。ロイが残った位置。
線は細かいが、無駄がない。
「ロイ」
「何だ」
「昨日の個体。あなたは外域由来だと思う?」
その言葉に、周囲の数人が反応した。
外域。
学院の授業でも触れられる言葉だ。壁の外、あるいは境界壁の外側に広がる危険領域。だが、生徒たちにとっては歴史書や軍事講義の中の単語に近い。
ロイはすぐには答えなかった。
「断定はしない」
「可能性は?」
「ある」
教室の空気が、少しだけ重くなる。
ミナが声を落とした。
「外域って……壁の外の?」
「そう呼ぶんだろう」
「呼ぶんだろう、って」
リアナは表情を変えなかった。
「根拠は?」
「核の散り方。再生の仕方。魔力の濁り。あと、迷宮内の魔獣にしては、迷宮の法則に従いすぎていない」
「従いすぎていない?」
「迷宮魔獣は、迷宮の中で生きている。昨日の根は、迷宮を使っているように見えた」
リアナの筆が止まる。
ミナは顔をしかめた。
「それ、違うの?」
「違う」
ロイは短く答えた。
「住んでいるものと、利用しているものは違う」
その言葉に、近くで聞いていたヴァルターが振り返った。
「では、あれは迷宮の魔獣ではなく、迷宮に入り込んだ何かだと言うのか」
「可能性はある」
「第一層にか」
「ああ」
「そんなことが起きれば、大問題だ」
「そうだな」
ヴァルターはそれ以上言わなかった。
反論したい顔ではあった。だが、昨日の光景を見ている以上、否定しきれないのだろう。
◇
午前の授業は、予定通り行われた。
属性応用論。
迷宮資源学。
戦術基礎。
教師たちは何事もなかったかのように授業を進める。だが、どの教師も《翠門》の件に触れない。触れなさすぎるせいで、逆に生徒たちは落ち着かなかった。
昼休みになると、ミナが食堂の席で大きく息を吐いた。
「絶対、何か隠してるよね」
「調査中なのだと思うわ」
リアナが言った。
「未確認の情報を出せば混乱する。学院の判断としては間違っていない」
「でもさあ、こっちは遭遇した側だよ?」
「だから、私たちには後で説明があるはずよ」
ミナはパンをちぎりながら、ロイを見る。
「ロイは何か知ってる?」
「知らない」
「本当に?」
「ああ」
「知ってそうな顔してる」
「顔で判断するのか」
「するよ。女子はする」
「そうか」
ロイはスープを飲んだ。
温かい。
昨日、迷宮の中で嗅いだ鉄のような臭いとは違う。食堂の空気は明るく、騒がしく、そして安全だった。
だが、その安全さは壁のようなものだ。
内側からは頑丈に見える。
外からどれだけ叩かれているかは、内側にいる者には分からない。
ヴァルターが静かに口を開いた。
「ロイ。昨日、君はあの個体を倒せたと言った」
「ああ」
「倒す場合、どれほどの規模になる」
「この迷宮内なら、通路一つは潰れるかもしれない」
ミナが固まった。
「さらっと怖いこと言った」
ヴァルターは眉を寄せる。
「だから倒さなかったのか」
「それも理由の一つだ」
「他には」
「命令が撤退補助だった」
「それは昨日聞いた」
「なら、それが大きい」
ヴァルターはしばらくロイを見ていた。
「君は、命令を重く見るのだな」
「命令というより、目的だ」
「目的?」
「何を達成するか。それ以外をやると、余計なものが壊れる」
リアナが静かに頷いた。
「あなたは、勝つことより任務達成を優先するのね」
「勝つ必要がある任務なら勝つ」
「昨日は違った」
「ああ」
ミナが小さく呟く。
「何か、軍人みたい」
ロイは返事をしなかった。
ミナも、それ以上は聞かなかった。
◇
同じ頃、職員棟の地下会議室には、学院長、エルナ教官、管理局の術師長、そして王国軍の連絡将校が集まっていた。
机の中央には、封印瓶に入った黒い根の断片が置かれている。
連絡将校は、灰色の軍服を着た若い男だった。階級章は低い。だが、立ち方に隙がない。
学院長が静かに訊く。
「王国軍としての判断は」
連絡将校は一枚の報告書を差し出した。
「境界軍外域観測部より通達です。《翠門》第一層で採取された断片から、外域魔獣反応に類似する波形を検出。完全一致ではありませんが、通常迷宮種ではありません」
エルナ教官の目が細くなる。
「外域魔獣反応、か」
「はい。ただし、反応は薄い。現時点では小規模な漏出、または汚染個体の可能性が高いとのことです」
管理局の術師長が硬い声で言う。
「王立学院の管理迷宮に、外域反応が出た。薄いから問題ない、では済みませんな」
「当然です」
連絡将校は頷く。
「そのため、境界軍から少人数の確認班が派遣されます」
「通常の軍ではなく、境界軍が?」
「はい」
会議室の空気が変わった。
王国軍と境界軍は違う。
王国軍は壁内の防衛と治安を担う。境界軍は、境界壁と外域に関わる脅威を扱う。
その名が出るだけで、事態の重さが変わる。
学院長が訊いた。
「派遣されるのは?」
連絡将校は一瞬だけ言葉を選んだ。
「主力は境界軍第三外郭隊の調査兵です。人数は六名。いずれも下級兵扱いですが、外域対応経験があります」
「下級兵、か」
エルナが小さく笑った。
「境界軍の下級は、壁内では上澄みだ」
「それに加え、序列保持者が一名、確認役として同行します」
管理局の術師長が顔を上げた。
「序列保持者?」
「はい」
連絡将校は報告書の次の頁を開いた。
「境界名簿第三十二席。《蒼刃》セレス・アーヴェイン。特別指揮課程修了者。現在は第三外郭隊の臨時小隊を率いています」
エルナ教官の表情がわずかに変わった。
「《蒼刃》が来るのか」
「はい。明朝、学院へ到着予定です」
学院長は静かに目を閉じた。
「学生への公表は」
「行いません。表向きは管理局の追加調査です」
「ロイ・オルディスには?」
連絡将校はその名を聞いて、初めて反応した。
ほんのわずかに、視線が動く。
「……彼が在籍していることは、境界軍側も把握しています」
エルナが腕を組む。
「だろうな」
「ただし、今回の招集は彼を対象としたものではありません。あくまで《翠門》の外域反応確認です」
「建前は、か」
連絡将校は答えなかった。
学院長が静かに言った。
「彼は学生として扱う。それが学院の方針だ」
「承知しています」
会議室に、重い沈黙が落ちた。
外域魔獣反応。
境界軍。
序列保持者。
王立学院の内側に、壁の外の気配が入り込み始めていた。
◇
放課後、ロイたちは訓練場にいた。
《翠門》での実習は一時中止。代わりに、班ごとの基礎連携訓練が行われることになった。
リアナが簡単な指示を出す。
「今日は防御と撤退の確認をするわ。昨日の反省よ」
ミナが肩を落とす。
「また撤退?」
「撤退できない班は、討伐もできないわ」
「正論だけど、地味」
「地味な訓練ほど生死に関わる」
ヴァルターが槍を構える。
「同意する。昨日、僕たちは撤退に手間取った」
「手間取ってはいない」
ロイが言う。
「ただ、初動は少し遅かった」
ヴァルターが眉を寄せる。
「そこを分けるのか」
「分ける。手間取ったなら隊列全体を変える。初動が遅いだけなら、合図と判断を詰めればいい」
リアナが頷く。
「では、そこを直しましょう。ロイ、異常感知時の合図を決めたいわ」
「短い方がいい」
「言葉は?」
「下、後ろ、止まれ、走れ、伏せろ」
「命令形ね」
「短い」
「分かったわ。非常時はそれでいい」
ミナが少し不安そうに手を上げる。
「ちなみに、ロイが“伏せろ”って言ったら?」
「伏せて」
リアナが即答した。
「理由は後で聞けばいいわ」
「了解……」
ロイはミナを見る。
「伏せろと言う時は、上か横を通す」
「何を?」
「雷か敵」
「どっちも嫌だなあ」
ヴァルターが小さく息を吐く。
「だが、分かりやすい」
訓練は短く、密度が濃かった。
ロイが合図を出す。リアナが指揮を切り替える。ヴァルターが前を塞ぐ。ミナが中央を守る。
最初はぎこちなかったが、数回繰り返すうちに動きが変わった。
特にヴァルターは、昨日より視界を残す壁を作るようになっていた。厚い一枚ではなく、薄い壁をずらして複数置く。
ロイが言ったことを、試している。
「ヴァルター」
「何だ」
「今の壁は良かった」
ヴァルターは槍を下ろし、ロイを見る。
「……そうか」
「ああ。正面は止まる。右は少し薄い」
「次は直す」
「そうしろ」
ミナが小声でリアナに言う。
「何か、会話できてる」
「少しずつね」
リアナはそう答えたが、視線はロイから離さなかった。
黒雷。
十一並列。
外域魔獣反応。
そして、彼がまだ語らないもの。
この班は、想像以上に厄介な場所へ近づきつつある。
それでも、リアナは指揮を手放すつもりはなかった。
「もう一本。撤退開始から退避完了まで、二十秒短縮するわ」
ミナが悲鳴を上げる。
「まだやるの!?」
「やるわ」
ヴァルターが槍を構える。
「問題ない」
ロイも頷く。
「必要だな」
ミナはため息をつきながら、水糸を展開した。
「この班、真面目すぎる……」
◇
その夜、学院の正門に一台の軍用馬車が到着した。
紋章は王国軍のものではない。
境界を示す、黒い線と銀の杭。
境界軍。
馬車から降りたのは、灰色の外套をまとった兵士たちだった。
人数は六名。
誰も大柄ではない。派手な装備もない。だが、全員が静かだった。足音が揃い、視線が無駄に動かない。
その最後に、一人の少女が降りた。
深い青の髪。細身の軍装。腰には、青みがかった長剣。
年齢は、学院の上級生とそう変わらない。
だが、兵士たちは彼女の後ろに自然と並んだ。
率いられている。
少女は学院の白い校舎を見上げた。
「ここが王立学院か」
隣の兵士が低く言う。
「はい、セレス隊長」
「外域反応は《翠門》第一層。反応は薄いが、混入経路は不明。加えて、学院には《黒雷》がいる」
「接触しますか」
少女――セレス・アーヴェインは、少しだけ考えた。
「任務は反応確認だ。余計な接触はしない」
「承知しました」
「ただし」
セレスは正門の奥へ視線を向けた。
「向こうが関わってくるなら、話は別だ」
腰の長剣が、かすかに青く鳴った。
学院の夜風の中に、外の匂いが混じり始めていた。




