第5話 撤退補助
《黒鳴》が鞘を離れた瞬間、迷宮の空気が低く震えた。
黒い刀身に、黒い雷が絡む。
光っているのに、暗い。
雷であるはずなのに、周囲を照らすというより、そこだけ空気の色を沈めているように見えた。
床下から這い出した黒い根が、石を割りながら広がっていく。
一本、二本、三本。
根の先端が裂け、牙のようなものが覗く。通常の迷宮魔獣ではない。核の反応が一点にまとまっておらず、根全体に薄く散っている。
斬れば増える。
焼けば別の根が伸びる。
潰せば床下へ逃げる。
面倒な種類だ。
だが、倒せないわけではない。
ロイは背後の通路へ意識を向けた。
リアナたちはすでに撤退を始めている。距離はまだ近い。ここでこの根を通せば、後衛のミナが捕まる。
やるべきことは討伐ではない。
撤退補助。
班が退避地点へ入るまで、この場で止める。それで十分だった。
ロイは左足の踵を石床へ置いた。
足裏へ雷。
膝へ雷。
腰へ雷。
右肩、肘、手首、指へ雷。
刀身へ雷。
鞘へ雷。
脳と神経へ、ごく薄い雷。
心拍の制御へ、さらに細い雷。
十一。
ロイの中で、十一の雷が同時に走る。
出力も、流す時間も、役割も違う。ひとつでもずれれば無駄が出る。二つの魔術を並列で扱えるだけでも、学院では上級者として評価される。
だが、ロイにとっては戦闘前の調整にすぎない。
黒い根が跳ねた。
ロイは刀を横へ払う。
根の先端が斬れた。すぐに切断面から新しい枝が吹き出しかける。
そこへ、鞘から走らせた黒雷を落とした。
再生が止まる。
完全には止まらない。
一拍、鈍るだけ。
それでいい。
「ここは通さない」
ロイは半歩だけ前に出た。
◇
リアナたちは退避地点へ向かって走っていた。
先頭はヴァルター。土属性で床のひびを埋めながら進む。中央にミナ。リアナは最後尾寄りで、後ろを振り返りたい衝動を押さえ込んでいた。
ロイは来ていない。
「リアナ!」
ミナが声を上げる。
「戻らないの!?」
「戻らないわ」
リアナは即答した。
「今戻れば、ロイが作った時間を無駄にする」
「でも、あれ一人で相手するようなものじゃ――」
「たぶん、ロイは相手にしていない」
ミナが目を見開く。
「どういう意味?」
「倒すために残ったんじゃない。私たちを逃がすために残ったのよ」
リアナは走りながら、通路の先を見た。
退避地点まで、あと少し。
背後から黒い雷光が走る。
轟音は大きくない。むしろ、迷宮全体に響かせないよう、極端に絞られている。
ヴァルターが歯を食いしばった。
「僕たちは、足手まといだったということか」
「違うわ」
「違わないだろう。彼は一人で残った」
「役割が違っただけよ。あなたが前を開けた。ミナが後衛を支えた。私は撤退判断をした。ロイは後方を塞いだ」
「それでも、一番危険な場所にいるのは彼だ」
リアナは否定しなかった。
ただ、ひとつだけ分かることがある。
ロイは、感情で残ったのではない。
格好をつけたわけでも、勝ちたいからでもない。
必要な場所に、必要なだけ残った。
それが分かるからこそ、リアナは戻れなかった。
◇
黒い根が、通路全体に広がった。
床から壁へ。壁から天井へ。天井からまた床へ。
迷宮の石組みそのものを食い破るように、根が蠢く。
ロイはその中心へ踏み込まない。
討伐するなら、床下へ潜っている本体に近い太根を見つけ、そこへ《黒鳴》を通せばいい。黒雷を十一ではなく、十五、十六まで増やしてもいい。天穿・抜雷を使えば、この通路ごと貫ける。
だが、それは今の任務ではない。
迷宮内で大きく撃てば、別の魔獣を寄せる。構造を崩す可能性もある。班員の撤退路にも影響が出る。
だから、ロイは殺さない。
止める。
根が三方向から伸びた。
ロイは刀で一本を弾き、鞘で一本を落とし、最後の一本へ床伝いの黒雷を当てる。
三本が同時に止まった。
その隙間を縫うように、細い根が足元へ迫る。
ロイは足を上げなかった。
足裏に流した黒雷を一瞬だけ強める。
根が靴底に触れる直前、焼け落ちた。
服にも肌にも届かない。
次に天井から落ちてきた根は、肩へ触れる前に斬った。
背後を測る。
リアナたちは退避地点まで残り二十秒。
ロイは鞘を床に突き立てた。
「天穿」
黒雷が床下へ沈む。
根の太い流れを直接撃つのではなく、進路だけを焼く。通路の左右へ、細い雷の線が走った。
簡易の封鎖線。
根がその線へ触れるたび、黒い火花が弾ける。
長くは保たない。
だが、二十秒なら十分だ。
根の群れがロイへ向きを変えた。
獲物を変えたのではない。
邪魔な杭を先に抜こうとしている。
ロイは息を吐いた。
「判断は悪くない」
黒い根が一斉に襲いかかった。
◇
退避地点の結界杭が見えた。
ヴァルターが先に飛び込み、土壁で入口を補強する。ミナが結界杭へ魔力を流し、リアナが緊急符を起動した。
緑の光が小部屋を覆う。
すぐに通信魔石が震えた。
『セレスト班、状況を報告しろ』
エルナ教官の声だった。
リアナは息を整えるより先に答える。
「第一層撤収路に未記録個体。黒い根状。核は不明。現在、ロイ・オルディスが後方で足止め中」
『全員揃っていないのか』
「ロイが残っています。ただし、討伐行動ではありません。撤退補助のための遅滞戦闘です」
通信の向こうで、一瞬だけ沈黙があった。
『……その判断は誰がした』
「ロイです」
『分かった。そこを動くな。救援を出す』
通信が切れる。
ミナが結界の外を見た。
「ロイ、大丈夫だよね」
リアナはすぐには答えなかった。
無責任に大丈夫とは言えない。
けれど、さっきの動きは追い詰められた者のものではなかった。
ロイは、最初から時間を測っていた。
「少なくとも、無理をしている動きではなかったわ」
ヴァルターが低く言う。
「あれで無理をしていないのか」
遠くで、黒い雷が三度光った。
音は小さい。
だが、正確に根の進行を止めていることは分かる。
◇
根の一本が、ロイの首筋を狙った。
ロイは頭をわずかに傾ける。根は髪をかすめることもなく通り過ぎた。
同時に刀を返し、別の根を断つ。
切断面へ黒雷を置く。再生を遅らせる。鞘で床を叩き、地走雷を三方向へ分ける。足元、壁際、天井。
並列処理は十一のまま。
増やす必要はない。
根は増えているが、動きは単調になってきた。こちらを止めるために数を増やしすぎて、流れが読める。
ロイは一歩も通路の中央から退かなかった。
そこを抜かれなければいい。
根が絡まり、正面で獣の頭のような形を作った。
顎が割れる。
中に赤黒い光がある。
核ではない。仮の中心だ。
潰せばしばらく止まる。
ロイは《黒鳴》を正面に構えた。
左手を刀身の根元へ添える。
黒雷が刃を走る。
「天穿」
雷は上から落ちなかった。
刀身の先から、細く伸びた。
黒い線が獣頭の口内へ入り、赤黒い中心を撃ち抜く。
爆発はしない。
周囲にも広がらない。
ただ、中心だけが消えた。
根の群れが一斉に硬直する。
崩れはしない。倒してもいない。
だが、止まった。
ロイは刀を振り、根についた黒い粘液を払う。
そして背を向けた。
討伐はしない。
命令は撤退補助。
班員は退避地点へ入った。なら、ここに残る理由はもうない。
◇
退避地点の結界が揺れた。
通路の奥から、ロイが戻ってくる。
制服に汚れはある。袖に黒い粘液が少し付いている。だが、傷はない。呼吸も乱れていない。
ミナが目を丸くした。
「ロイ!」
リアナが入口の結界を開く。
「状態は?」
「問題ない」
「負傷は?」
「ない」
「敵は?」
「止めた。倒してはいない」
ロイが退避地点へ入ると、リアナはすぐに結界を閉じた。
数秒後、通路の奥で黒い根が再び動き出す音がした。
ミナの顔が引きつる。
「止めただけって、本当にまた動いてる……」
「仮の中心を抜いた。少しは鈍る」
ヴァルターがロイを見る。
「君は、あれを倒せなかったのか」
「倒せた」
ロイは迷わず答えた。
その一言で、退避地点の空気が止まる。
ヴァルターの眉が寄った。
「なら、なぜ倒さなかった」
「命令が撤退補助だった」
「……それだけか」
「それだけだ」
リアナはロイを見た。
冗談ではない。誇張でもない。
ロイは本当に、倒せると判断した上で倒さなかったのだ。
ミナが恐る恐る訊く。
「倒すと、まずかったの?」
「ここで大きく撃つと通路が崩れる可能性がある。魔力も広がる。別の魔獣を寄せる。救援の判断も乱れる」
「じゃあ、止めるだけの方が安全だった?」
「今はな」
ミナは両手で顔を覆った。
「何か、判断が怖い……」
ヴァルターは黙っていた。
その沈黙には、反発よりも別の感情が混じっている。
理解できないものを見た時の硬さ。
リアナが静かに言った。
「ロイ。さっきの黒雷、いくつ同時に扱っていたの」
「基本は十一」
「十一?」
ミナの声が裏返った。
ロイは頷く。
「足、膝、腰、肩、肘、手首、指、神経、心拍、鞘、刀身。状況で入れ替える」
リアナの表情が鋭くなる。
「並列魔力制御は、二つでも上級扱いよ」
「そうなのか」
「そうなのか、ではないわ」
ミナが小さく叫ぶ。
「十一って何!? 人間がやる数じゃないよ!」
「数は人間と同じだ」
「そういうことじゃない!」
ヴァルターが低く呟く。
「君は、それをしながら、あの未記録個体を倒さずに止めていたのか」
「ああ」
「……どこまでが本気なんだ」
ロイは少し考えた。
「今のは本気ではない。必要な処理だ」
誰もすぐには返事をしなかった。
その時、通路の奥で炎が走った。
黒い根が焼け、後退する。
救援が来た。
エルナ教官が短槍を持って現れる。背後には二人の教官。さらに管理局の術師が続いていた。
「全員、無事か!」
リアナが答える。
「全員無事。負傷者なしです」
エルナの視線がロイへ向く。
「オルディス」
「問題ない」
「見れば分かる。敵は」
「仮の中心を一度抜いた。動きは鈍っている。床下に広がっているから、焼くなら根元を複数同時に。強く撃ちすぎると通路が落ちる」
「情報共有か」
「ああ」
エルナは一瞬だけ笑った。
「受け取る。後退しろ、《黒雷》」
その言葉に、ミナが反応した。
「黒雷……?」
リアナも、ヴァルターも、何も言わなかった。
ロイだけが、特に表情を変えなかった。
今は、呼び名に意味はない。
撤退が先だ。
◇
救援班の到着後、撤退はすぐに完了した。
石扉を抜けると、外の空気が肺に入る。
入口前の広場では、他班の生徒たちも集められていた。負傷者はいない。ただ、顔色の悪い者は多い。
ロイは壁際に立ち、《黒鳴》の状態を確認する。
刀身に欠けはない。鞘内の導雷軌条にも乱れはない。蓄雷の残りも十分。
問題なし。
「座りなさい」
リアナが言った。
「必要ない」
「班長命令」
ロイは少し考え、壁際に座った。
ミナが隣にしゃがみ込む。
「命令なら聞くんだ」
「正しいなら」
「じゃあ、さっき戻れって命令してたら戻った?」
「状況による」
「だよね」
ミナはため息をついた。
ヴァルターが近づいてくる。
「ロイ」
「何だ」
「さっきは助かった」
「ああ」
「それと、僕はまだ納得していない」
「何にだ」
「君が倒せたと言ったことに」
「そうか」
「だが、嘘を言っているようにも見えない」
ヴァルターは拳を握る。
「だから、いずれ確かめる」
「必要なら」
「必要だ」
ロイは頷いた。
「分かった」
リアナが二人を見て、短く息を吐く。
「次からは、班長への報告をもう少し増やして」
「どの程度だ」
「最低でも、残る理由と戻る目安」
「分かった」
「今のは本当に分かった?」
「撤退補助で残る時は、目的と時間を言う」
「それでいいわ」
遠くで、エルナ教官が管理局の職員と話している。
表情は険しい。
管理迷宮の第一層に、記録にない個体が出た。
ただの訓練事故では済まない。
ロイは空を見上げた。
壁の中の空は青い。
だが、その静けさの下にあるものが、少しだけ顔を出した。
《黒鳴》の鞘の奥で、黒雷が低く鳴った。




