表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/48

第5話 撤退補助

 《黒鳴》が鞘を離れた瞬間、迷宮の空気が低く震えた。


 黒い刀身に、黒い雷が絡む。


 光っているのに、暗い。


 雷であるはずなのに、周囲を照らすというより、そこだけ空気の色を沈めているように見えた。


 床下から這い出した黒い根が、石を割りながら広がっていく。


 一本、二本、三本。


 根の先端が裂け、牙のようなものが覗く。通常の迷宮魔獣ではない。核の反応が一点にまとまっておらず、根全体に薄く散っている。


 斬れば増える。

 焼けば別の根が伸びる。

 潰せば床下へ逃げる。


 面倒な種類だ。


 だが、倒せないわけではない。


 ロイは背後の通路へ意識を向けた。


 リアナたちはすでに撤退を始めている。距離はまだ近い。ここでこの根を通せば、後衛のミナが捕まる。


 やるべきことは討伐ではない。


 撤退補助。


 班が退避地点へ入るまで、この場で止める。それで十分だった。


 ロイは左足の踵を石床へ置いた。


 足裏へ雷。

 膝へ雷。

 腰へ雷。

 右肩、肘、手首、指へ雷。

 刀身へ雷。

 鞘へ雷。

 脳と神経へ、ごく薄い雷。

 心拍の制御へ、さらに細い雷。


 十一。


 ロイの中で、十一の雷が同時に走る。


 出力も、流す時間も、役割も違う。ひとつでもずれれば無駄が出る。二つの魔術を並列で扱えるだけでも、学院では上級者として評価される。


 だが、ロイにとっては戦闘前の調整にすぎない。


 黒い根が跳ねた。


 ロイは刀を横へ払う。


 根の先端が斬れた。すぐに切断面から新しい枝が吹き出しかける。


 そこへ、鞘から走らせた黒雷を落とした。


 再生が止まる。


 完全には止まらない。

 一拍、鈍るだけ。


 それでいい。


「ここは通さない」


 ロイは半歩だけ前に出た。



 リアナたちは退避地点へ向かって走っていた。


 先頭はヴァルター。土属性で床のひびを埋めながら進む。中央にミナ。リアナは最後尾寄りで、後ろを振り返りたい衝動を押さえ込んでいた。


 ロイは来ていない。


「リアナ!」


 ミナが声を上げる。


「戻らないの!?」


「戻らないわ」


 リアナは即答した。


「今戻れば、ロイが作った時間を無駄にする」


「でも、あれ一人で相手するようなものじゃ――」


「たぶん、ロイは相手にしていない」


 ミナが目を見開く。


「どういう意味?」


「倒すために残ったんじゃない。私たちを逃がすために残ったのよ」


 リアナは走りながら、通路の先を見た。


 退避地点まで、あと少し。


 背後から黒い雷光が走る。


 轟音は大きくない。むしろ、迷宮全体に響かせないよう、極端に絞られている。


 ヴァルターが歯を食いしばった。


「僕たちは、足手まといだったということか」


「違うわ」


「違わないだろう。彼は一人で残った」


「役割が違っただけよ。あなたが前を開けた。ミナが後衛を支えた。私は撤退判断をした。ロイは後方を塞いだ」


「それでも、一番危険な場所にいるのは彼だ」


 リアナは否定しなかった。


 ただ、ひとつだけ分かることがある。


 ロイは、感情で残ったのではない。


 格好をつけたわけでも、勝ちたいからでもない。


 必要な場所に、必要なだけ残った。


 それが分かるからこそ、リアナは戻れなかった。



 黒い根が、通路全体に広がった。


 床から壁へ。壁から天井へ。天井からまた床へ。


 迷宮の石組みそのものを食い破るように、根が蠢く。


 ロイはその中心へ踏み込まない。


 討伐するなら、床下へ潜っている本体に近い太根を見つけ、そこへ《黒鳴》を通せばいい。黒雷を十一ではなく、十五、十六まで増やしてもいい。天穿・抜雷を使えば、この通路ごと貫ける。


 だが、それは今の任務ではない。


 迷宮内で大きく撃てば、別の魔獣を寄せる。構造を崩す可能性もある。班員の撤退路にも影響が出る。


 だから、ロイは殺さない。


 止める。


 根が三方向から伸びた。


 ロイは刀で一本を弾き、鞘で一本を落とし、最後の一本へ床伝いの黒雷を当てる。


 三本が同時に止まった。


 その隙間を縫うように、細い根が足元へ迫る。


 ロイは足を上げなかった。


 足裏に流した黒雷を一瞬だけ強める。


 根が靴底に触れる直前、焼け落ちた。


 服にも肌にも届かない。


 次に天井から落ちてきた根は、肩へ触れる前に斬った。


 背後を測る。


 リアナたちは退避地点まで残り二十秒。


 ロイは鞘を床に突き立てた。


「天穿」


 黒雷が床下へ沈む。


 根の太い流れを直接撃つのではなく、進路だけを焼く。通路の左右へ、細い雷の線が走った。


 簡易の封鎖線。


 根がその線へ触れるたび、黒い火花が弾ける。


 長くは保たない。


 だが、二十秒なら十分だ。


 根の群れがロイへ向きを変えた。


 獲物を変えたのではない。


 邪魔な杭を先に抜こうとしている。


 ロイは息を吐いた。


「判断は悪くない」


 黒い根が一斉に襲いかかった。



 退避地点の結界杭が見えた。


 ヴァルターが先に飛び込み、土壁で入口を補強する。ミナが結界杭へ魔力を流し、リアナが緊急符を起動した。


 緑の光が小部屋を覆う。


 すぐに通信魔石が震えた。


『セレスト班、状況を報告しろ』


 エルナ教官の声だった。


 リアナは息を整えるより先に答える。


「第一層撤収路に未記録個体。黒い根状。核は不明。現在、ロイ・オルディスが後方で足止め中」


『全員揃っていないのか』


「ロイが残っています。ただし、討伐行動ではありません。撤退補助のための遅滞戦闘です」


 通信の向こうで、一瞬だけ沈黙があった。


『……その判断は誰がした』


「ロイです」


『分かった。そこを動くな。救援を出す』


 通信が切れる。


 ミナが結界の外を見た。


「ロイ、大丈夫だよね」


 リアナはすぐには答えなかった。


 無責任に大丈夫とは言えない。


 けれど、さっきの動きは追い詰められた者のものではなかった。


 ロイは、最初から時間を測っていた。


「少なくとも、無理をしている動きではなかったわ」


 ヴァルターが低く言う。


「あれで無理をしていないのか」


 遠くで、黒い雷が三度光った。


 音は小さい。


 だが、正確に根の進行を止めていることは分かる。



 根の一本が、ロイの首筋を狙った。


 ロイは頭をわずかに傾ける。根は髪をかすめることもなく通り過ぎた。


 同時に刀を返し、別の根を断つ。


 切断面へ黒雷を置く。再生を遅らせる。鞘で床を叩き、地走雷を三方向へ分ける。足元、壁際、天井。


 並列処理は十一のまま。


 増やす必要はない。


 根は増えているが、動きは単調になってきた。こちらを止めるために数を増やしすぎて、流れが読める。


 ロイは一歩も通路の中央から退かなかった。


 そこを抜かれなければいい。


 根が絡まり、正面で獣の頭のような形を作った。


 顎が割れる。


 中に赤黒い光がある。


 核ではない。仮の中心だ。


 潰せばしばらく止まる。


 ロイは《黒鳴》を正面に構えた。


 左手を刀身の根元へ添える。


 黒雷が刃を走る。


「天穿」


 雷は上から落ちなかった。


 刀身の先から、細く伸びた。


 黒い線が獣頭の口内へ入り、赤黒い中心を撃ち抜く。


 爆発はしない。


 周囲にも広がらない。


 ただ、中心だけが消えた。


 根の群れが一斉に硬直する。


 崩れはしない。倒してもいない。


 だが、止まった。


 ロイは刀を振り、根についた黒い粘液を払う。


 そして背を向けた。


 討伐はしない。


 命令は撤退補助。


 班員は退避地点へ入った。なら、ここに残る理由はもうない。



 退避地点の結界が揺れた。


 通路の奥から、ロイが戻ってくる。


 制服に汚れはある。袖に黒い粘液が少し付いている。だが、傷はない。呼吸も乱れていない。


 ミナが目を丸くした。


「ロイ!」


 リアナが入口の結界を開く。


「状態は?」


「問題ない」


「負傷は?」


「ない」


「敵は?」


「止めた。倒してはいない」


 ロイが退避地点へ入ると、リアナはすぐに結界を閉じた。


 数秒後、通路の奥で黒い根が再び動き出す音がした。


 ミナの顔が引きつる。


「止めただけって、本当にまた動いてる……」


「仮の中心を抜いた。少しは鈍る」


 ヴァルターがロイを見る。


「君は、あれを倒せなかったのか」


「倒せた」


 ロイは迷わず答えた。


 その一言で、退避地点の空気が止まる。


 ヴァルターの眉が寄った。


「なら、なぜ倒さなかった」


「命令が撤退補助だった」


「……それだけか」


「それだけだ」


 リアナはロイを見た。


 冗談ではない。誇張でもない。


 ロイは本当に、倒せると判断した上で倒さなかったのだ。


 ミナが恐る恐る訊く。


「倒すと、まずかったの?」


「ここで大きく撃つと通路が崩れる可能性がある。魔力も広がる。別の魔獣を寄せる。救援の判断も乱れる」


「じゃあ、止めるだけの方が安全だった?」


「今はな」


 ミナは両手で顔を覆った。


「何か、判断が怖い……」


 ヴァルターは黙っていた。


 その沈黙には、反発よりも別の感情が混じっている。


 理解できないものを見た時の硬さ。


 リアナが静かに言った。


「ロイ。さっきの黒雷、いくつ同時に扱っていたの」


「基本は十一」


「十一?」


 ミナの声が裏返った。


 ロイは頷く。


「足、膝、腰、肩、肘、手首、指、神経、心拍、鞘、刀身。状況で入れ替える」


 リアナの表情が鋭くなる。


「並列魔力制御は、二つでも上級扱いよ」


「そうなのか」


「そうなのか、ではないわ」


 ミナが小さく叫ぶ。


「十一って何!? 人間がやる数じゃないよ!」


「数は人間と同じだ」


「そういうことじゃない!」


 ヴァルターが低く呟く。


「君は、それをしながら、あの未記録個体を倒さずに止めていたのか」


「ああ」


「……どこまでが本気なんだ」


 ロイは少し考えた。


「今のは本気ではない。必要な処理だ」


 誰もすぐには返事をしなかった。


 その時、通路の奥で炎が走った。


 黒い根が焼け、後退する。


 救援が来た。


 エルナ教官が短槍を持って現れる。背後には二人の教官。さらに管理局の術師が続いていた。


「全員、無事か!」


 リアナが答える。


「全員無事。負傷者なしです」


 エルナの視線がロイへ向く。


「オルディス」


「問題ない」


「見れば分かる。敵は」


「仮の中心を一度抜いた。動きは鈍っている。床下に広がっているから、焼くなら根元を複数同時に。強く撃ちすぎると通路が落ちる」


「情報共有か」


「ああ」


 エルナは一瞬だけ笑った。


「受け取る。後退しろ、《黒雷》」


 その言葉に、ミナが反応した。


「黒雷……?」


 リアナも、ヴァルターも、何も言わなかった。


 ロイだけが、特に表情を変えなかった。


 今は、呼び名に意味はない。


 撤退が先だ。



 救援班の到着後、撤退はすぐに完了した。


 石扉を抜けると、外の空気が肺に入る。


 入口前の広場では、他班の生徒たちも集められていた。負傷者はいない。ただ、顔色の悪い者は多い。


 ロイは壁際に立ち、《黒鳴》の状態を確認する。


 刀身に欠けはない。鞘内の導雷軌条にも乱れはない。蓄雷の残りも十分。


 問題なし。


「座りなさい」


 リアナが言った。


「必要ない」


「班長命令」


 ロイは少し考え、壁際に座った。


 ミナが隣にしゃがみ込む。


「命令なら聞くんだ」


「正しいなら」


「じゃあ、さっき戻れって命令してたら戻った?」


「状況による」


「だよね」


 ミナはため息をついた。


 ヴァルターが近づいてくる。


「ロイ」


「何だ」


「さっきは助かった」


「ああ」


「それと、僕はまだ納得していない」


「何にだ」


「君が倒せたと言ったことに」


「そうか」


「だが、嘘を言っているようにも見えない」


 ヴァルターは拳を握る。


「だから、いずれ確かめる」


「必要なら」


「必要だ」


 ロイは頷いた。


「分かった」


 リアナが二人を見て、短く息を吐く。


「次からは、班長への報告をもう少し増やして」


「どの程度だ」


「最低でも、残る理由と戻る目安」


「分かった」


「今のは本当に分かった?」


「撤退補助で残る時は、目的と時間を言う」


「それでいいわ」


 遠くで、エルナ教官が管理局の職員と話している。


 表情は険しい。


 管理迷宮の第一層に、記録にない個体が出た。


 ただの訓練事故では済まない。


 ロイは空を見上げた。


 壁の中の空は青い。


 だが、その静けさの下にあるものが、少しだけ顔を出した。


 《黒鳴》の鞘の奥で、黒雷が低く鳴った。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ