第4話 管理迷宮《翠門》
管理迷宮《翠門》の入口は、学院北区画の奥にあった。
巨大な石扉の周囲には、蔦のような緑の結界紋が刻まれている。門の上には学院の紋章。その下に、迷宮管理局の封印印が三つ。
扉の前には、二年第一班の生徒たちが班ごとに並んでいた。
緊張している者。楽しげな者。装備を何度も確認する者。すでに迷宮実習を経験している者は、落ち着いた顔をしている。
ロイは列の端で、腰の《黒鳴》を確認していた。
鞘内の導雷軌条に乱れはない。蓄雷量は最低限。黒雷はまだ使う必要がない。
「緊張してないの?」
ミナが横から覗き込んできた。
「していない」
「即答」
「した方がいいのか」
「いや、しなくていいけど。初めての迷宮なんでしょ?」
「ここは初めてだ」
「言い方」
ミナが苦笑する。
リアナは地図を開き、班の四人に見せた。
「今日の目標は第一層の指定区画確認と、魔石の回収。戦闘より、隊列維持と撤退判断を優先するわ」
ヴァルターが頷く。
「第一層なら危険度は低い。だが、油断はしない」
「ええ。ロイは後方警戒。異常を感じたらすぐに報告して」
「分かった」
「すぐに、よ」
「分かった」
リアナは念を押すように言ったが、ロイは特に反発しなかった。
必要な指示だ。
エルナ教官が全体へ声をかける。
「これより管理迷宮《翠門》第一層へ入る。各班は記録通りに進め。ただし、記録を信じすぎるな。迷宮は管理されているだけで、安全な場所ではない」
石扉が低く鳴る。
緑の結界紋が淡く光り、扉が内側へ開いた。
湿った土の匂いが流れてくる。
ロイはその匂いを吸い、目を細めた。
外ではない。
だが、完全に安全な空気でもない。
◇
《翠門》第一層は、石と根が混じった迷宮だった。
壁には植物の根が走り、天井からは淡い緑色の光を放つ苔が垂れている。足元は乾いた石床だが、ところどころに土が露出していた。
リアナが先頭から二番目を歩く。
最前はヴァルター。中央にミナ。最後尾にロイ。
進行は早すぎない。リアナは地図と実際の通路を照合しながら進んでいる。ヴァルターも盾の角度をこまめに変え、左右の壁を警戒していた。
悪くない。
最初に出た魔獣は、牙鼠の群れだった。
大きさは犬ほど。灰色の毛に、鋭い前歯。数は六。
「ヴァルター、正面を止めて。ミナ、右を絡めて」
「了解」
ヴァルターが土の小壁を立てる。牙鼠の突進が止まったところへ、リアナの氷が足元を固める。ミナの水糸が右側の二体を縛った。
ロイは後方から一体だけ抜けてきた牙鼠を見た。
刀は抜かない。
鞘の先で床を軽く叩く。
黒い火花が石床を走り、牙鼠の足元で弾けた。
牙鼠は痙攣して倒れる。
ミナがちらりと振り返った。
「後ろ、助かった」
「ああ」
「そこは、どういたしまして、とか」
「どういたしまして」
「遅い」
リアナが短く言う。
「会話は後。次、左奥」
左奥の根の隙間から、さらに二体。
ヴァルターが槍を振るい、リアナが一体を氷で止める。ミナが回収用の袋へ魔石を入れた。
戦闘は一分もかからなかった。
第一班の上位生徒だけあって、基礎はできている。
ロイは後方を確認しながら、呼吸を変えずに歩き出した。
◇
その後も、戦闘は続いた。
棘犬が二体。
粘糸虫が一群。
壁に張り付く小型甲殻種が四体。
どれも記録通りの魔獣だった。
ロイは前に出すぎないようにしていた。
必要な時だけ、床や壁に黒雷を走らせる。敵の足を止める。関節の魔力回路を焼く。後衛へ向かう個体だけを落とす。
大きな雷撃は使わない。
刀も抜かない。
それでも、班全体の被害はなかった。
三度目の戦闘後、ミナが肩で息をしながら言った。
「ロイ、魔力減ってる?」
「少し」
「少し? さっきからずっと撃ってるよね?」
「撃ってはいない。流している」
「同じじゃないの?」
「違う」
ミナは理解を諦めた顔をした。
リアナは魔石を回収しながら口を挟む。
「放出ではなく、伝導に近いのね」
「近い」
「なら、消耗が少ないのも分かるわ。ただ、あの精度で続けるのは別問題だけれど」
ヴァルターが槍についた粘糸を払う。
「持続力は認める」
「そうか」
「だが、火力を抑えすぎではないか。魔獣相手にそこまで小さく使う必要があるのか」
「ある」
「理由は」
「迷宮内で大きく撃つと、音と魔力が広がる。寄せる」
ヴァルターは言葉を止めた。
リアナが頷く。
「確かに。第一層なら問題は少ないけれど、余計な交戦は避けたいわ」
「……分かった」
ヴァルターは不満そうではあったが、納得はしたらしい。
ミナが小さく笑う。
「今の、ちゃんと会話だったね」
「今までも会話はしている」
「うん。そういうところ」
ロイには、何がそういうところなのか分からなかった。
◇
指定区画の中間地点には、退避用の小部屋があった。
四方に結界杭が打ち込まれ、簡易結界で魔獣の侵入を防ぐ場所だ。
班はそこで短い休憩を取る。
ヴァルターは地図を広げ、リアナと進路を確認していた。ミナは水筒を傾け、ロイは入口の横に立って通路を見ている。
「座らないの?」
ミナが訊いた。
「見張る」
「結界あるよ」
「あるな」
「信用してない?」
「信用はしている。過信はしない」
ミナは肩をすくめた。
「リアナ、ロイが休まない」
「ロイ。五分後に交代するわ。今は座って」
「必要ない」
「命令ではなく、班の消耗管理として言っているの」
ロイはリアナを見た。
リアナは地図から目を離さずに続ける。
「あなたが動けるのは分かっている。でも、他の班員があなたの消耗を把握できないと判断が遅れる。休む時は休む。見せることも必要よ」
ロイは数秒考えた。
「分かった」
壁際に座る。
ミナが小さく親指を立てた。
「リアナ、扱いがうまくなってる」
「扱いではなく、班管理よ」
「はいはい」
ロイは水を飲み、携行食を一つ口に入れた。
通路の奥から、別班の戦闘音が聞こえる。金属音。魔獣の鳴き声。すぐに収まった。
順調だ。
だが、ロイは少しだけ眉を動かした。
音が一つ、違った。
遠い。かなり遠い。通常の第一層の魔獣ではない。石を擦るような、湿った音。
「ロイ?」
リアナが気づいた。
「何かあるの?」
「遠い。まだ近くはない」
「魔獣?」
「たぶん」
ヴァルターが立ち上がる。
「どの方向だ」
「北東。地図だと、指定区画の外」
リアナが地図を見る。
「北東は封鎖通路よ。今日の演習範囲ではない」
「なら、今は関係ない」
ロイはそう言い、水筒を閉じた。
「ただ、戻る時に音が近ければ報告する」
リアナは頷いた。
「分かった。休憩を一分短縮。進行を再開するわ」
◇
後半の区画は、前半より魔獣の数が多かった。
棘犬の群れが通路を塞ぎ、奥から牙鼠が回り込む。さらに天井から粘糸虫が落ちてくる。
リアナの指示は早かった。
「ヴァルター、正面。ミナ、天井。ロイ、後ろ」
ロイは返事の代わりに動いた。
足首に雷。膝に雷。腰に一瞬。
後方から来た牙鼠三体へ、床を走る黒雷を分岐させる。
三体同時。
牙鼠の足が止まった瞬間、ロイは鞘で一体を打ち、残り二体を壁際へ弾いた。そこへミナの水糸が伸び、動きを封じる。
「ありがとう!」
「まだ左」
「えっ」
左壁の根が裂け、棘犬が飛び出す。
リアナの氷が間に合った。棘犬の足元が凍り、ヴァルターの石槍が胴を貫く。
戦闘終了。
ミナが息を吐く。
「今の、完全に不意打ちだった」
「根の音が変わった」
「ロイの耳どうなってるの?」
「普通だ」
「絶対普通じゃない」
ヴァルターが棘犬の魔石を抜きながら言った。
「後方警戒に置いたのは正解だったな」
ロイは頷く。
「セレストの判断だ」
ヴァルターはリアナを見る。
「そうだな」
リアナは短く返す。
「まだ終わっていないわ。回収したら撤収地点へ向かう」
その判断は早かった。
魔石の回収数は目標を満たしている。これ以上進む理由はない。
ロイは地図の北東側を見た。
さっきの音は、もう聞こえない。
消えたのか。
あるいは、止まったのか。
◇
撤収路の途中で、それは起きた。
通路の灯りが一瞬、暗くなった。
魔導灯が揺れる。壁に走る根が、かすかに震える。
ミナが足を止めた。
「今の、何?」
リアナが即座に手を上げる。
「停止。隊列維持」
ヴァルターが前に出る。
ロイは後方を見る。
何もいない。
だが、空気が変わった。
湿った土の匂いに、鉄のような臭いが混じる。
迷宮の奥で、何かが石を擦った。
今度は近い。
「北東じゃない」
ロイが言った。
リアナが振り返る。
「どこ?」
「下だ」
次の瞬間、床の一部がひび割れた。
黒ずんだ根のようなものが、石床の隙間から這い出す。
通常の《翠門》第一層には存在しない魔力反応。
魔獣ではある。
だが、記録の形と違う。
ヴァルターが槍を構えた。
「新種か?」
「下がれ」
ロイの声は低かった。
ミナが一歩下がる。
リアナはロイを見る。
「危険なのね」
「ああ」
「等級は?」
「ここでは知らない」
黒い根が膨れた。
その先端が割れ、中から牙のようなものが覗く。
迷宮の魔獣なら、核の反応がある。
だが、これは核が薄い。代わりに、根全体にばらけている。
面倒な形だ。
ロイは《黒鳴》の鞘に左手を添えた。
黒雷が低く鳴る。
「リアナ、三歩下がって氷を張れ。ミナは足元に水を出すな。吸われる。ヴァルターは壁を厚くするな。割られる」
ヴァルターが反射的に反論しかけ、止まった。
リアナが即座に動く。
「指示通りに。後退」
班が下がる。
黒い根が跳ねた。
ロイは刀を抜かず、鞘を床へ押し当てる。
「天穿」
黒雷が床を走った。
根の先端ではなく、床下へ。
次の瞬間、石床の下で黒い雷が弾けた。
根の動きが止まる。
しかし、焼けたはずの部分から、別の細い根が生えた。
ミナが息を呑む。
「再生した……?」
「違う」
ロイは目を細める。
「別のところから出ている」
迷宮の奥で、また石を擦る音がした。
一つではない。
複数。
エルナ教官の笛が遠くで鳴った。
撤退信号。
リアナが叫ぶ。
「全員、退避地点へ戻る!」
班が動く。
ロイは最後尾に残った。
「ロイ!」
「先に行け。すぐ戻る」
「一言言う約束だったわね」
「今言った」
「短すぎるわ!」
リアナの声を背に、ロイは《黒鳴》をわずかに抜いた。
鞘の内側で、黒雷が濃くなる。
床下から這い出そうとする黒い根。
その数は増えている。
ロイは息を吐いた。
「管理迷宮、か」
黒い雷が、刀身の根元で軋んだ。
「……面倒だな」
そして、ロイは初めて《黒鳴》を抜いた。




