第3話 翠門前夜
ロイ・オルディスの黒い雷は、翌日には二年棟の大半に知られていた。
正確に言えば、見た者がそれぞれ違う言葉で語った。
黒い雷を落とした。
刀を抜かずに訓練人形を壊した。
三体同時に撃ち抜いた。
魔法陣なしで落雷を操った。
雷属性ではなく、別の属性ではないか。
噂は混ざり、少しずつ形を変えていく。
ロイはそれを気にしなかった。
食堂でも、廊下でも、教室でも、視線が増えたことは分かる。だが、視線は攻撃ではない。対応する必要があるのは、危険が実際に形を持った時だけだった。
「気にならないの?」
朝の教室で、ミナが椅子の背もたれに腕を乗せて振り返った。
「何がだ」
「噂。昨日より増えてるよ」
「そうか」
「そうか、で終わるんだ」
「間違っている部分を全部直すのは時間がかかる」
「間違ってない部分もあるってこと?」
「ある」
「どれ?」
「黒い雷を使った」
「そこは認めるんだ」
ミナは呆れたように笑った。
隣の席で、リアナは手元の資料を読んでいる。
今日の午前は迷宮演習の事前講義。机の上には、管理迷宮の地図と危険度表が置かれていた。
リアナは顔を上げずに言った。
「噂を放置するのは自由だけれど、班行動に影響するなら対処してもらうわ」
「分かった」
「本当に?」
「班に不利益が出るなら止める」
「ならいいわ」
リアナは淡々と答え、資料に視線を戻した。
その様子に、ミナが小声で言う。
「リアナ、昨日からロイの扱い方を覚え始めてる」
「聞こえているわ」
「聞こえるように言ったもん」
「ミナ」
「はいはい」
ロイは二人の会話を聞きながら、配られた地図を見た。
王立学院の北区画に隣接する、管理迷宮《翠門》。
学院が実習用に管理している低〜中難度の迷宮で、第一層から第三層までは二年生の演習範囲とされている。
地図には通路、退避地点、魔獣の出現傾向、魔力溜まりの位置が細かく記されていた。
よく整っている。
整いすぎている。
ロイは紙の端を指で押さえながら、出現傾向の欄を見た。
牙鼠。棘犬。粘糸虫。下級甲殻種。
危険度はDからC。群れればB相当。
十分に危険だ。油断すれば死ぬ。
だが、地図に書ける危険でもある。
◇
「今日の演習は、明日の実地に向けた装備確認と隊列訓練だ」
エルナ教官の声が、訓練場に響いた。
生徒たちは四人から五人の班ごとに分かれている。ロイの班は、リアナ、ヴァルター、ミナ、そしてロイの四人。
リアナが班長。
ヴァルターが前衛。
ミナが支援。
ロイは遊撃兼後方警戒。
昨日とほぼ同じ形だった。
「迷宮では、魔獣より先に準備不足が人を殺す。武器、触媒、治療具、灯り、帰還符、保存食。互いの装備を確認しろ」
エルナの指示で、各班が装備を広げる。
ミナは水属性の触媒杖と、治療用の魔石を持っていた。リアナは細剣、短杖、凍結符。ヴァルターは土属性用の魔石を埋め込んだ槍と、小型盾。
ロイは《黒鳴》と短い外套、携行食、包帯、針、止血剤、予備の手袋を並べた。
ミナが首を傾げる。
「ロイ、荷物少なくない?」
「足りる」
「回復薬は?」
「ない」
「え、ないの?」
「高い」
「そういう問題?」
ミナが本気で驚いた顔をする。
リアナがロイの装備を確認しながら言った。
「止血剤と包帯はある。応急処置は自分でできるのね」
「ああ」
「でも回復薬は一本持っておくべきよ。迷宮では、治療役が常に動けるとは限らない」
「分かった。買う」
「素直ね」
「正しいからな」
ヴァルターが鼻を鳴らした。
「正しいかどうかを判断するのは君か?」
「今のはセレストが正しい」
「そういう意味ではない」
「なら何だ」
ヴァルターは一瞬言葉を詰まらせた。
リアナが二人の間に入る。
「言い合いは後にして。次は隊列確認よ」
彼女は地面に簡単な図を描いた。
「狭路ではヴァルターが前。私がその後ろ。ミナは中央。ロイは後方。ただし、挟撃時はロイが横へ出て対応。広間ではヴァルターとロイが左右に開く。私は中央から制御。ミナは拘束と回復」
「問題ない」
ロイは頷いた。
ヴァルターも渋々頷く。
ミナは地図を覗き込みながら言った。
「ロイ、後ろ任せて大丈夫?」
「大丈夫かどうかは、敵次第だ」
「そこは大丈夫って言ってよ」
「なら、大丈夫にする」
「言い方は不安だけど、意味は頼もしい」
リアナが地図から顔を上げる。
「ロイ。あなたは気配の察知が得意なの?」
「音と匂いと魔力の流れなら拾う」
「魔力探知ではなく?」
「探知も使う。ただ、探知に頼ると外す時がある」
「なぜ?」
「相手が魔力を隠していると遅れる。足音や空気の動きは、隠し方が違う」
リアナは黙ってメモを取った。
ヴァルターは眉を寄せる。
「迷宮の魔獣が、そこまで高度に魔力を隠すとは思えないが」
「個体による」
「明日は管理迷宮だ。記録された範囲で動く」
「記録は助かる」
「なら――」
「ただ、記録があるから安全とは限らない」
空気が少し止まった。
ヴァルターの顔に、反発が浮かぶ。
「そんなことは分かっている。僕たちは実習で遊んでいるわけではない」
「ならいい」
「君は本当に……」
「ヴァルター」
リアナが名前を呼んだ。
「今のロイの言い方は悪い。でも内容は間違っていないわ。明日は記録を前提に動く。ただし、記録と違う事態があれば即時撤退も選択肢に入れる」
ヴァルターは不満そうだったが、反論はしなかった。
「……了解した」
ミナが小さく息を吐いた。
「この班、明日までに仲良くなれるかな」
「必要か?」
ロイが訊くと、ミナは真顔でこちらを見た。
「必要」
「そうか」
「そこから?」
「努力する」
「うん。まずはそれでいいよ」
◇
隊列訓練は、訓練場の地下にある模擬迷宮で行われた。
石壁の通路。低い天井。魔導灯。横穴。落とし穴を模した床板。実際の迷宮よりは安全だが、油断すれば怪我はする。
リアナが先頭のヴァルターに合図を出す。
「進行。速度は抑えて」
ヴァルターが盾を前に出して進む。リアナはその後ろで細剣に手を添え、ミナは中央で水糸を準備する。
ロイは最後尾。
背後の通路。天井。壁の継ぎ目。床の微細な魔力。
異常はない。
一つ目の曲がり角で、右壁が開いた。訓練人形が飛び出す。
ヴァルターの反応は早かった。土属性の小盾を追加で展開し、人形の腕を受け止める。リアナの氷が足元を固め、ミナの水糸が腕を縛る。
良い。
次の瞬間、ロイは鞘を床へ触れさせた。
黒い火花が細く走る。
背後から出かけていた別の人形が、通路の途中で膝を落とした。
ミナが振り返る。
「また後ろ?」
「今のは遅かった」
「遅かったのに止めたの?」
「出る前に音が変わった」
リアナが短く言う。
「助かったわ。進む」
ヴァルターが苦い顔をした。
「後方配置としては優秀だな」
「そうか」
「褒めている」
「分かった」
「……褒められ慣れていないのか?」
「必要なら礼を言う」
「いや、もういい」
ミナが笑いをこらえている。
リアナは前を見たままだが、肩がわずかに揺れた。
ロイは首を傾げた。
何かおかしかったらしい。
◇
模擬迷宮の最後は、小さな広間だった。
中央に旗が置かれている。班の誰かが旗を取れば終了。ただし、周囲の壁から複数の訓練人形が出る仕組みになっていた。
リアナが即座に指示を出す。
「ヴァルター、左を止めて。ミナ、右の足元を拘束。ロイは後方と天井」
「天井?」
ミナが顔を上げる。
直後、天井の板が開いた。
小型の人形が三体、落下する。
ロイは刀を抜かず、鞘に指を添えた。
黒雷が三筋、天井近くで弾けた。
落ちてきた三体の魔導回路だけが焼き切れ、床に落ちる前に動きを止める。
ミナが目を丸くした。
「今、見てから撃った?」
「落ちる前に音がした」
「音ばっかり」
「便利だ」
ヴァルターが左の人形を押さえ込む。リアナが風で旗の周囲の砂を払い、ミナが水糸を伸ばす。
だが、旗の真下に魔力反応。
罠だ。
「待て」
ロイが言う。
ミナの水糸が止まった。
「旗の下に反応がある」
リアナがすぐに風を流した。
床板の隙間から、細い針が飛び出す。
もし手で取っていれば、指を貫いていた。
ミナの顔が少し青くなる。
「うわ……」
「訓練用の麻痺針だ」
ヴァルターが言う。
「それでも当たれば失格だ」
リアナは冷静に旗の周囲を凍らせ、針の動きを止めた。
「ミナ、今」
「了解」
水糸が旗を絡め取り、手元へ引き寄せる。
終了の鐘が鳴った。
模擬迷宮の灯りが明るくなる。
エルナ教官の声が響いた。
「合格だ。所要時間は上位。判断も悪くない」
ミナが大きく息を吐いた。
「緊張した……」
ヴァルターは槍を下ろし、ロイを見た。
「旗の罠、よく気づいたな」
「魔力の流れが下に落ちていた」
「僕は見落とした」
「次は見るといい」
ヴァルターの眉が動いた。
リアナがすぐに口を挟む。
「今のは、助言として受け取っていいと思うわ」
「言い方は?」
「悪いわ」
「だそうだ」
ロイはヴァルターに向き直る。
「旗の下を見る判断は必要だった。次は、俺より先に気づけると思う」
ヴァルターは一瞬、面食らったような顔をした。
「……それは、評価しているのか?」
「ああ」
「分かりにくい」
「努力する」
ミナが小さく拍手した。
「一歩前進」
「何がだ」
「会話」
ロイにはよく分からなかったが、班の空気は少しだけ軽くなった。
◇
訓練後、ロイは一人で学院の購買部へ向かった。
回復薬を買うためだ。
棚には薬瓶が並んでいる。下級回復薬、中級回復薬、解毒薬、魔力補助薬。値段は高い。
ロイが下級回復薬を一本手に取ると、横から声がした。
「それだけでいいの?」
リアナだった。
「最低限は」
「明日は迷宮よ。二本は持ちなさい」
「高い」
「命よりは安いわ」
「そうだな」
ロイはもう一本取った。
リアナは自分の分の補助薬を選びながら言う。
「あなた、指摘されれば直すのね」
「正しければ」
「正しくないと思えば?」
「直さない」
「分かりやすいわ」
リアナは淡々と言った。
褒めているのか、呆れているのかは分からない。
会計を済ませると、窓の外は夕暮れだった。
明日の迷宮演習。
記録された危険。整えられた地図。管理された退避路。
それでも、人は死ぬ。
ロイは薬瓶を外套の内側に収めた。
「ロイ」
「何だ」
「明日、班員として動いて」
「そのつもりだ」
「一人で片付けられると思っても?」
「必要なら一人で動く」
「……そこは譲らないのね」
「譲ると遅れる場面がある」
リアナは数秒黙った。
「なら、動く前に一言だけ言って。私が合わせる」
ロイは彼女を見た。
命令ではない。妥協でもない。
対応するための提案だった。
「分かった」
「それでいいわ」
リアナはそう言って、購買部を出ていった。
ロイは少しだけ考えてから、その後ろを歩いた。
王立学院の廊下は、夕陽で赤く染まっている。
静かだ。
だが、明日はその静けさの下にあるものを見ることになる。
ロイは腰の《黒鳴》に触れた。
鞘の奥で、黒い雷がかすかに鳴った。




