第2話 色相転位
翌朝、ロイが食堂に入ると、いくつかの視線がこちらへ向いた。
昨日よりも数が多い。
好奇心。警戒。疑い。
そのどれもが、ロイの腰にある《黒鳴》と、手元に落ちてはすぐ消える小さな黒い火花を見ていた。
火花は意識して出しているものではない。鞘内の導雷軌条を整えているだけだ。刃を抜かずに魔力を通しているため、余りが外へ漏れている。
ロイは盆を取り、黒パンと肉の煮込み、卵、野菜を選んだ。
席を探していると、ミナが手を上げた。
「ロイ、こっち」
その隣にはリアナもいた。
リアナは本を読んでいた。表紙には『属性魔力基礎論』とある。食事の前に読む本としては少し硬い。
ロイが向かいに座ると、ミナは身を乗り出した。
「昨日のあれ、みんな噂してるよ。黒い雷。三体同時。刀抜いてない。あれ何?」
「雷だ」
「それは見れば分かるけど」
「なら、だいたい合ってる」
「合ってないよね?」
ミナがリアナを見る。
リアナは本から目を上げた。
「黒い雷属性というものは、一般的な教本には載っていないわ。少なくとも、基礎課程では扱わない」
「じゃあ、やっぱり変なんだ」
「変というより、判断材料が少ない」
リアナはロイを見る。
「あなたの属性測定は雷で間違いないのよね」
「ああ」
「闇属性との複合では?」
「違う」
「呪術系の混入は?」
「ない」
「なら、あれは雷属性の範囲で起きている現象ということになる」
リアナは本を閉じた。
「普通ではないけれど」
「普通ではない使い方をしている」
「昨日もそう言っていたわね」
「事実だからな」
ロイは卵を口に運んだ。
温かい。塩気もある。食堂の食事にはまだ慣れない。警戒せずに食べられること自体、少し妙だった。
ミナがじっとロイを見ている。
「ねえ、ロイって怖がられたいの?」
「なぜだ」
「だって、その黒い火花、しまえるんでしょ?」
「しまえる」
「なら、しまった方がよくない? みんな見てるし」
ロイは自分の手元を見た。
黒い火花が一つ、鞘の縁で弾けて消えた。
「不安にさせるなら、止める」
「できるんだ」
ロイは《黒鳴》へ通していた魔力を切った。
火花が消える。
ミナが目を丸くした。
「本当にすぐ止まった」
「止めるだけなら難しくない」
リアナは無言でその様子を見ていた。
感心ではない。警戒でもない。観察。
それでいい、とロイは思った。
◇
午前の授業は、属性魔力論だった。
教壇に立つのは、白髪交じりの女性教師。黒板には、火、水、風、土、雷、氷、光、闇の八属性が並んでいる。
「属性魔力は、基本的にその性質に応じた色を帯びます。火は赤、または橙。水は青。風は薄緑。土は黄土。雷は白、黄、青白。氷は淡青。光は白金。闇は紫や黒に近い色を示すことが多い」
黒板に色付きの魔石が並べられる。
生徒たちにとっては基礎の復習らしく、空気は少し緩い。
「ただし、例外はあります」
その言葉で、ロイの前の席にいたミナがちらりと振り返った。
「ある一定以上の練度に達した魔術師は、属性魔力の色や質を変質させる場合があります。これを専門的には、色相転位と呼びます」
教室の空気が少し変わる。
教師は続けた。
「たとえば、極限まで圧縮された火属性は白炎を生むことがある。水属性が治癒特化に傾けば、青ではなく銀に近い光を帯びることもある。雷属性も例外ではありません」
そこで、何人かがロイを見た。
ロイは黒板を見ていた。
「ただし、色が変われば強い、という単純な話ではありません。色相転位は、属性への理解、出力、圧縮、術式の癖、環境、魔力回路の状態などが複雑に絡んで起きます。狙って起こすものではなく、起きた者の大半は制御に苦しむ」
リアナが小さくメモを取る。
ヴァルターは腕を組んだまま、表情を動かさなかった。
「この現象は上級課程でも深く扱いません。危険だからです。真似をして魔力回路を壊す生徒が出るので」
教師はそこで、教室全体を見た。
「昨日の実技を見た者もいるでしょう。珍しい魔力色を見たからといって、軽率に模倣しないように」
視線がロイに集まる。
ロイは何も言わなかった。
説明が不要な場面で口を挟むと、余計な摩擦が増える。
授業の終盤、教師は小型の魔石を配った。
「各自、自分の属性魔力を流し、色と安定性を確認しなさい。強く流す必要はありません。むしろ、細く長く保つことを重視すること」
生徒たちが次々と魔石へ魔力を流す。
赤、青、緑、黄土、白。
リアナの魔石は、淡い氷青に薄い緑が混じった。氷と風の複合。色が濁らず分かれている。制御が良い。
ミナの魔石は水色。揺れが少ない。
ヴァルターの魔石は重い黄土色で、中心がやや金に近かった。出力が強く、安定している。
そしてロイの番が来た。
ロイは魔石を指先で持つ。
弱く。細く。最低限。
魔石の中心に黒い筋が走った。
だが、周囲には青白い光も残っている。雷属性の基礎色。その中心を、黒い雷が芯のように貫いていた。
教室が静まり返る。
教師は魔石を見て、数秒黙った。
「……オルディス。出力を上げていませんね」
「ああ」
「意図的に抑えている?」
「必要ないから」
「正しい判断です」
教師はそれだけ言って、次の生徒へ移った。
それ以上は聞かなかった。
ロイは魔石を机に置いた。
リアナはメモを取る手を止めていた。
「何だ」
「いいえ」
「聞きたいことがある顔だ」
「あるけれど、ここで聞くことではなさそうだから」
「そうか」
ロイは頷いた。
聞くべき場を選ぶ相手は、やりやすい。
◇
午後は班行動の基礎訓練だった。
場所は昨日と同じ屋外訓練場。
ただし今回は標的の破壊ではなく、四人一組で移動しながら、障害物を越え、魔導人形を無力化する訓練だった。
ロイの班は、リアナ、ミナ、ヴァルターと同じになった。
露骨な組み合わせだ。
エルナ教官の意図だろう。
「役割を決めるわ」
リアナが言った。
「前衛はヴァルターとロイ。私は遊撃。ミナは支援と拘束。これでいい?」
「構わない」
ヴァルターは短く答える。
ロイも頷いた。
「問題ない」
「ただし、単独で突出しないこと」
リアナの視線がロイへ向く。
「俺か」
「あなたよ」
「状況による」
「その返答は信用しづらいわ」
「では、必要になるまで前には出ない」
「それでいい」
ヴァルターが不快そうに息を吐いた。
「随分と簡単に従うんだな」
「班の指揮はセレストだろう」
「君は指揮を受けることに抵抗がないのか」
「正しいなら従う」
「正しくないなら?」
「止める」
ヴァルターの目が細くなる。
「はっきりしているな」
「曖昧にすると遅れる」
ミナが小声で言った。
「この班、空気が硬い」
「訓練中だ」
「ロイ、そういう意味じゃない」
開始の笛が鳴った。
最初の障害は、狭い通路を模した石壁の列。左右から魔導人形が出る仕組みになっている。
リアナが手で合図を出す。
ヴァルターが前に出て土壁を立てた。ミナが水糸を展開する。リアナは後方から風を薄く流し、通路の先を探った。
悪くない。
ロイは最後尾寄りで歩いた。
前に出る必要はまだない。
右側の壁が開き、魔導人形が飛び出す。
ヴァルターが即座に石槍で止めた。続けて左から二体。ミナの水糸が足を絡める。リアナの氷が関節を固める。
連携は取れている。
だが、三体目の出現が遅れた。
遅れたのではない。
待っていた。
「後ろだ」
ロイは短く言った。
ミナが振り返るより先に、背後の壁が開く。
魔導人形がミナの背中を狙って飛び出した。
ロイは刀を抜かなかった。
鞘を床へ触れさせる。
黒い雷が床を走り、人形の足元で弾けた。膝の魔導回路が焼け、人形が崩れる。
ミナが息を呑んだ。
「助かった」
「位置が悪かった」
「お礼言ったんだけど」
「聞いた」
ミナは一瞬だけ眉を寄せたが、すぐ前を向いた。
リアナが短く指示を出す。
「隊列を詰める。ミナを中央へ。ロイ、後方警戒を続けて」
「ああ」
ヴァルターがちらりとロイを見る。
「今の、よく気づいたな」
「音が違った」
「音?」
「右と左の壁は駆動音が軽い。後ろだけ重かった」
ヴァルターは黙った。
自分も聞いていたはずだ。だが、拾えていなかった。
ロイはそれ以上言わない。
責める必要はない。次に拾えばいい。
◇
訓練は、想定より早く終わった。
班としての結果は上位。
最後の区画で、ヴァルターが前衛として敵を止め、リアナが制御し、ミナが拘束した。ロイは要所で黒雷を床や壁に走らせ、死角から来る人形を処理した。
派手に見えたのはヴァルターとリアナだ。
だが、エルナ教官は最後にロイを呼んだ。
「オルディス」
「何だ」
「お前、今の訓練で刀を抜かなかったな」
「必要なかった」
「黒雷も最小限だった」
「ああ」
「昨日より制御を絞った理由は?」
「班訓練だからだ。広げると邪魔になる」
エルナ教官はしばらくロイを見た。
「なるほど。お前は火力より、継続と制御に寄せているのか」
「火力も必要なら出す」
「だろうな」
教官は笑った。
「今日はいい。戻れ」
ロイが班の元へ戻ると、ミナが疲れたように座り込んでいた。
「ロイってさ」
「何だ」
「ずっと動いてたのに、全然疲れてないよね」
「疲れていないわけではない」
「嘘。呼吸変わってない」
「呼吸は変えない方が楽だ」
「何その理屈」
リアナが言う。
「魔力消費も少ない。全身雷装を使っていないから?」
「それもある」
「部位ごとに流しているのね」
「ああ」
「戦闘中に、常時?」
「必要な時だけ」
「必要な時が多すぎる」
リアナの声には、呆れよりも分析の色が強かった。
ヴァルターは腕を組んだまま言った。
「それを維持できるのは、異常だ」
「そうか」
「褒めているわけではない」
「分かっている」
「……本当に分かっているのか?」
「警戒されている」
ヴァルターは言葉を詰まらせた。
ミナが小さく笑った。
「ロイって、鈍いのか鋭いのか分からないね」
「鈍くはないと思う」
「そこは自分で言うんだ」
訓練場に夕方の光が差し込む。
遠くで鐘が鳴った。
ロイは空を見上げる。
壁の中の空は、今日も静かだった。
けれど、静かな場所にも、見るべきものはある。
ロイはそう判断した。
◇
その日の夕方。
属性魔力論の教師は、職員棟の一室でエルナ教官と向かい合っていた。
机の上には、授業で使った魔石が置かれている。
中心に、黒い筋が残っていた。
「雷属性の色相転位、と見ていいのかしら」
教師が言う。
エルナは腕を組んだ。
「少なくとも闇混じりではない。呪術の反応もない」
「では、純粋な雷属性?」
「純粋かどうかは知らない。ただ、あれは雷だ」
エルナは魔石を見下ろす。
「黒い雷を、三点同時に落とす。床を走らせる。身体強化は局所。しかも消耗が少ない」
「学生の技術ではないわね」
「学生として扱えと言われている」
「誰から?」
エルナは答えなかった。
教師はそれ以上追及しない。
窓の外では、生徒たちが寮へ戻っていく。
その中に、ロイの姿もあった。
腰に黒い鞘を差した少年。
特に周囲を見回すでもなく、急ぐでもなく、ただ一定の速度で歩いている。
エルナは小さく呟いた。
「黒雷、か」
その名が正式に学院で語られるには、まだ少し早い。
だが、隠し続けるには、あの雷は黒すぎた。




