第1話 黒雷の編入生
王立学院の朝は、静かだった。
ロイ・オルディスは、寮室の寝台で目を開けると、まず天井を見た。
次に窓。扉。机。椅子。床板。壁際に置いた荷物。逃げ道は二つ。窓から出れば三階分の高さがあるが、足首と膝に雷を通せば着地は可能。扉側から踏み込まれた場合は、机を倒せば一拍稼げる。
そこまで確認してから、ロイは息を吐いた。
「……壁の中か」
窓の外には、白い校舎と整えられた庭園が広がっていた。
石畳の上を、生徒たちが歩いている。笑い声がする。誰も空を警戒していない。風の臭いを確かめる者もいない。遠くの地鳴りに耳を澄ませる者もいない。
静かすぎる。
だが、ここではそれが普通なのだろう。
ロイは寝台から降り、制服に袖を通した。王立学院指定の紺の上着。銀の留め具。胸には学院の紋章。
動きにくくはない。けれど、汚すことを前提に作られていない。
腰には、一振りの刀を差す。
界刀《黒鳴》。
刀身だけでなく、鞘まで含めて一つの魔導兵装として作られた、ロイ専用の武器だった。
扉を開けて廊下へ出る。
すれ違った生徒たちが、ちらりとこちらを見た。
「あれが編入生?」
「腰に刀って、騎士科じゃないのか」
「雷属性らしいぞ」
「魔術院の記録はないんだろ?」
声は聞こえている。
ロイは足を止めなかった。
知らない相手の噂に返事をしても、たいてい時間の無駄になる。
階段の踊り場で、一人の少女と鉢合わせた。
銀色の髪を肩のあたりで揺らした、姿勢の良い少女だった。制服の着こなしに乱れはなく、腰には細剣。歩幅は一定で、視線の置き方にも無駄がない。
戦える。
ロイがそう判断するのとほぼ同時に、少女が口を開いた。
「ロイ・オルディスね」
「ああ」
「リアナ・セレスト。同じ二年第一班よ。教室まで案内するよう、教官から言われているわ」
「助かる」
「なら来て。朝の鐘まで、あまり余裕はないわ」
リアナはそれだけ言って歩き出した。
必要以上に踏み込んでこない。声も落ち着いている。少なくとも、初対面の相手を値踏みするためだけに来たわけではなさそうだった。
廊下を並んで進む。
「第一班は実技の水準が高いわ」
リアナが前を向いたまま言った。
「中級ダンジョンの実習経験者もいる。属性戦闘に慣れている生徒が多いから、最初は少しやりづらいかもしれない」
「そうか」
「驚かないのね」
「まだ見ていない」
「見てから判断する、ということ?」
「ああ」
リアナは少しだけ横目でロイを見た。
「合理的ね。ただ、その言い方だと反感を買うわ」
「そうか」
「自覚はなさそうね」
「覚えておく」
「覚えるだけでは足りないこともあるわ」
「必要なら直す」
リアナはそれ以上言わなかった。
◇
二年第一班の教室に入ると、空気が少し変わった。
好奇心。値踏み。わずかな警戒。
ロイに向けられた視線の多くは、腰の刀で一度止まった。
教壇に立っていた壮年の教師が、名簿を閉じる。
「ロイ・オルディス。本日より第一班に編入する。属性は雷。実技特例での編入だ」
教室がざわめいた。
実技特例。
経歴ではなく、戦闘能力で認められた者に与えられる扱い。
「オルディス。挨拶を」
ロイは一歩前に出た。
「ロイ・オルディスだ。必要なことは覚える。よろしく頼む」
短い沈黙。
後方で誰かが小さく笑った。
「必要なこと、ね」
ロイは反応しなかった。
教師は窓際の席を示す。
「席はあそこだ。セレスト、補助してやれ」
「はい」
ロイが席に着くと、前の席の少女が振り返った。茶色の髪を短くまとめた、表情のよく動く少女だった。
「私はミナ・ロウ。水属性。よろしくね、ロイ」
「よろしく」
「雷属性なんだよね? 雷撃型? それとも雷装型?」
「どちらとも言い切れない」
「何それ」
「必要な場所に使う」
「場所?」
ミナが首を傾げる。
隣のリアナは黙っていた。ただ、ロイの言葉を聞き流してはいない。
その時、教室の入口から金髪の男子生徒が入ってきた。
背が高く、制服の着方も整っている。彼が入ると、何人かの生徒が自然と道を空けた。
「君が編入生か」
男子生徒はロイの前で立ち止まった。
「ヴァルター・グレイン。第一班の副班長を務めている」
「ロイ・オルディスだ」
「属性は雷だったな。学院の雷属性は、速度だけでは評価されない。術式精度、制御、連携。それらを含めて実力と呼ぶ」
「そうか」
ヴァルターの眉がわずかに動く。
「理解しているのか?」
「言っていることは分かる」
「……ならいい」
ヴァルターは短く言い、自分の席へ向かった。
ミナが小声で言う。
「今の、ちょっと危なかったよ」
「何がだ」
「ヴァルターって、結構負けず嫌いだから」
「負ける話はしていない」
「そういうところ」
リアナが静かに口を挟んだ。
「ロイ。あなた、相手の感情が分からないわけではないでしょう」
「怒らせたのは分かる」
「なら、なぜああ返すの?」
「まだ互いの実力を知らない。言葉だけで積む評価は薄い」
リアナは数秒、ロイを見た。
「……分かったわ。少なくとも、鈍いわけではないのね」
「たぶん」
「そこは断言してほしかったわ」
◇
午後の属性実技は、屋外訓練場で行われた。
広い石床の中央に、魔導式の訓練人形が三体並んでいる。周囲には防護結界。奥には移動標的も待機していた。
担当教官は、片目に薄い傷のある女性だった。
「エルナだ。今日は属性運用を見る。派手さはいらない。実戦で使えるものを見せろ」
生徒たちが順に前へ出る。
ミナは水を糸のように伸ばし、訓練人形の関節を絡め取った。派手ではないが、止める位置が的確だった。
リアナは風で人形の姿勢を崩し、足元から氷を走らせて動きを封じた。最後に細剣の切っ先を喉元へ置く。
速い。だが、速さよりも手順が良い。
ヴァルターは土属性だった。石床から三本の槍を立ち上げ、三体の人形をまとめて貫く。威力も制御も高い。
周囲から感嘆が漏れた。
「さすがグレイン」
「やっぱり副班長だな」
「実戦向きだ」
ヴァルターは表情を変えず、ロイを見る。
「次は君だ」
ロイは前へ出た。
エルナ教官が腕を組む。
「ロイ・オルディス。標的は正面の三体。好きに処理しろ」
「分かった」
ロイは《黒鳴》を抜かなかった。
左手を鞘に添える。右手は柄へ。
周囲がざわつく。
「抜かないのか?」
「雷撃じゃないの?」
「刀を使うんじゃなかったのか?」
ロイは息を整えた。
雷を広げない。
体外に散らさない。
必要な量を、必要な場所へ通す。
《黒鳴》の鞘内で、低い雷鳴が鳴った。
青白い光ではない。
黒い火花が、鞘の縁を這った。
空気が一瞬、重くなる。
ロイは鞘に添えた指をわずかに滑らせ、三体の位置を同時に捉えた。
「天穿」
三つの黒雷が、同時に落ちた。
轟音は一つだった。
正面、左、右。
三体の訓練人形の頭上から、細く黒い雷が垂直に突き刺さる。
雷は周囲へ散らなかった。石床を焼き広げることも、防護結界を揺らすこともない。ただ三体の中心だけを、上から正確に撃ち抜いた。
訓練人形は同時に膝を折り、崩れ落ちた。
訓練場が静まり返る。
魔法陣は展開されていない。長い詠唱もない。刀も抜いていない。
ただ鞘に手を添え、黒い雷を三点へ同時に落とした。
「……黒い?」
誰かが呟いた。
「今の、雷なのか?」
「三体同時……?」
「いや、落雷の位置が正確すぎる」
エルナ教官の目が細くなる。
「刀を触媒にしたな」
「ああ」
「三点同時指定か」
「標的が三つだった」
「簡単に言う」
「簡単ではない」
ロイは短く答えた。
簡単ではない。ただ、難しさを説明する必要もない。
エルナ教官は、ほんの少しだけ口元を動かした。
「次。移動標的だ」
訓練人形が三体、起動する。
一体目は正面。二体目は側面。三体目は背後へ回り込む。
ロイは一歩だけ前に出た。
足首に雷。膝に雷。腰に一瞬。肩と手首にはまだ入れない。
一体目の腕を半身でかわし、鞘尻で胸部を打つ。内部の魔石が揺れ、人形の動きが止まる。
二体目が横から迫る。
ロイは刀を抜かず、柄で手首を打った。人形の腕が跳ねる。そこへ膝を入れ、姿勢を崩す。
三体目が背後。
ロイは振り返らない。
鞘を軽く床へ触れさせる。
黒い火花が石床を走った。
人形の足元で弾け、膝関節の魔導回路を焼く。三体目が倒れかけたところで、ロイは振り返り、柄頭を額に触れさせた。
「終わりだ」
誰もすぐには声を出さなかった。
ミナが小さく息を呑む。
「……雷属性って、あんな使い方できるの?」
リアナは答えなかった。
彼女はロイの足元と手首を見ていた。たぶん、全身雷装ではないと気づいたのだろう。必要な部位だけに、必要な瞬間だけ雷を通している。
ただ、それを戦闘中に続けられる者は少ない。
エルナ教官が手を叩く。
「十分だ。次――」
「待ってください」
声を上げたのはヴァルターだった。
「移動標的の規格が低すぎます。彼の戦力を測るなら、対人形式の方が早い」
エルナ教官が目を向ける。
「理由は」
「同じ班で動く以上、互いの実力を把握する必要があります」
筋は通っている。
だが、感情も混ざっている。
ロイはヴァルターを見た。
怒り。警戒。自分の積み上げてきたものを、得体の知れない編入生に乱されたくないという反発。
分からないわけではない。
ただ、それをどう扱うかは別の話だった。
エルナ教官は短く言った。
「一分。寸止め。致命部位への直撃は禁止」
「ありがとうございます」
ヴァルターが土の槍を構える。
「ロイ・オルディス。君の雷は確かに珍しい。だが、実戦は奇術では測れない」
「そうだな」
「余裕か?」
「確認しただけだ」
開始の合図が鳴った。
ヴァルターは即座に地面を割った。
石壁が三枚、ロイの進路を塞ぐ。左右から石槍。本人はその後ろから踏み込む。
対高速型への封鎖。
回避先を削り、本命を通す形。
悪くない。
ロイは前へ出た。
石槍の隙間を抜ける。
足首。膝。腰。必要な部位だけに雷を入れる。黒い火花が靴底で弾け、踏み込みが加速する。
ヴァルターの表情が変わった。
ロイは刀を抜かず、鞘で石槍を弾く。次の瞬間、厚い土壁が正面に立ち上がった。
硬い。
だが、視界が切れている。
ロイは壁を壊さない。端を踏み、身体を横へ流す。肩と肘に一瞬だけ雷を通し、鞘で槍の柄を打つ。
槍先がずれた。
その一瞬で、ロイは懐に入る。
柄頭がヴァルターの胸元に触れた。
「終わりだ」
合図から十秒ほどだった。
ヴァルターは息を呑む。
「まだ、魔法は――」
「次を撃つ前に届く」
ロイは柄を引いた。
「土壁は悪くない。ただ、正面を塞ぐなら自分の視界を残した方がいい。厚くするより、薄く複数にした方が止めやすい」
ヴァルターの顔が強張る。
「助言のつもりか」
「そうだ」
「勝った直後に?」
「今言わないと、次も同じになる」
訓練場の空気が冷えた。
ロイは数秒考えた。
「言い方が悪かったか」
「悪いわね」
答えたのはリアナだった。
ロイがそちらを見ると、リアナは冷静な顔で腕を組んでいた。
「内容は間違っていない。でも、その順番で言えば反感を買うわ」
「順番か」
「最初に評価するべき点を言いなさい。その後で改善点」
「分かった」
ミナが横で小さく笑いをこらえた。
ヴァルターは悔しそうに槍を下ろした。
反論はなかった。
彼自身も理解しているのだろう。今の一手は、完全に取られていた。
◇
放課後の訓練場には、まだ焦げた匂いが残っていた。
ロイは隅に座り、《黒鳴》の鞘を点検していた。
天穿を一度。三点同時指定。地走雷を一度。抜刀はなし。
鞘内の導雷軌条に乱れはない。
「隣、いいかしら」
リアナだった。
「ああ」
彼女は少し距離を取って座る。
「あなたの雷、黒かったわ」
「そうだな」
「普通の雷属性では、ああはならない」
「普通ではない使い方をしている」
「説明する気は?」
「今はない」
「そう」
リアナは特に不満そうではなかった。ただ、観察するようにロイを見る。
「秘密が多いのね」
「話す必要がないだけだ」
「必要になれば話す?」
「必要なら」
「なら、今は聞かないわ」
それで会話は切れた。
静かな時間が落ちる。
訓練場の向こうでは、ミナがヴァルターに話しかけている。ヴァルターは不機嫌そうだったが、完全に拒んではいない。
ロイは《黒鳴》を腰に戻した。
「ロイ」
「何だ」
「明日から、あなたを見る目は変わるわ」
「だろうな」
「面倒だとは思わないの?」
「必要なら対処する」
「必要でなければ?」
「放っておく」
リアナは小さく息を吐いた。
「あなた、他人に関心が薄いのね」
「薄いかもしれない」
「自覚があるなら、少しは補えるわ」
「覚えておく」
「またそれね」
リアナは立ち上がった。
「今日は戻るわ。明日の実技、遅れないように」
「ああ」
彼女が去った後、ロイは訓練場の中央を見た。
三体の標的が運び出されていく。
焦げ跡は三つ。
どれも中心だけを正確に焼き抜かれている。
黒く、細く、垂直に。
エルナ教官はその跡を見下ろし、誰にも聞こえない声で呟いた。
「黒い雷を、三点同時に落とすか」
風が吹いた。
「……厄介な編入生が来たものだ」




