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第45話 出立命令

 翌朝。


 学院の空気は、どこか落ち着かなかった。


 昨日、空から落ちてきた真紅の流星。


 境界名簿第十一席《炎帝剣》レオナ・ヴァーミリオン。


 その存在は、一晩経っても生徒たちの間から消えなかった。


 廊下でも、食堂でも、演習場でも、話題になる。


「本当に空から来たんだよな」


「炎の剣、見た?」


「あれが第十一席……」


「ロイ先輩、あの人とも普通に話してたよね」


「普通……だったか?」


「背中叩かれてた」


「あれで倒れないのがまずおかしい」


 そんな声があちこちにあった。


 だが、浮ついた空気ばかりではない。


 第十一席が来た。


 それは、北西境界の件が軽くないことを意味している。


 そう理解している生徒も多かった。



 第二演習場。


 レオナは朝からいた。


 学院長の許可を取ったのか、取っていないのかは分からない。


 ただ、彼女は堂々と演習場の中央に立ち、ガレスを相手にしていた。


「違う! 燃やす前に立て!」


「はい!」


「足が先! 火は後! 火で誤魔化すな!」


「はい!」


 ガレスは炎剣を抜いていない。


 足運びだけ。


 前へ出る。

 止まる。

 横へずれる。

 止まる。

 後ろへ引く。

 止まる。


 境界軍の兵士にやらされていた訓練と似ている。


 だが、レオナはさらに容赦がなかった。


「お前、怒ると肩が上がるな!」


「っ……!」


「肩が上がると剣が遅れる! 剣が遅れると火が逃げる! 火が逃げると味方が焼ける!」


「はい!」


「よし、もう一回!」


 ガレスは汗だくになりながら、それでも食らいついていた。


 その様子を、ミナが少し離れた場所で見ている。


「ガレス先輩、昨日から先生増えすぎじゃない?」


 フィオナが微笑む。


「でも、良い顔をしているわ」


「確かに」


 ガレスの顔には疲労がある。


 悔しさもある。


 だが、以前のような荒れた苛立ちは少ない。


 強くなりたい。


 その気持ちが、ようやく正しい方向へ向き始めていた。


 レオナはガレスの前に立ち、右手に小さな炎を灯す。


「炎はな、力任せに出せば大きくなる。だが、強くはならん」


 炎が揺れる。


 赤い。


 明るい。


 だが、まったく暴れない。


「本当に強い火は、ここに置くと決めた場所で燃える。敵を焼く。道を塞ぐ。味方を温める。合図にもなる。怒りだけで燃やすと、それができない」


 ガレスは真剣に見つめていた。


「どうすれば」


「まず、自分が火より先に熱くなるな!」


 レオナは笑った。


「火を連れていけ。火に連れていかれるな」


 ガレスは深く息を吸う。


「……はい」


 その横で、境界軍の兵士が腕を組んで頷いた。


「同じことを言っているのに、圧が違うな」


 レオナが笑う。


「私は声がでかいからな!」



 演習場の反対側では、ミナが水糸の練習をしていた。


 フィオナが見守る。


 水糸二本はかなり安定している。


 三本目は短く、まだ不安定。


 だが、昨日よりも確かに形になっていた。


「三本目を出す時、呼吸を止めているわ」


 フィオナが言う。


「え、そうですか?」


「ええ。力を入れる瞬間に呼吸が止まる。そうすると、二本目が固くなる」


 ミナは試しにもう一度やる。


 二本の水糸。


 そこへ、三本目。


 今度は息を止めない。


 細く吐きながら、短く伸ばす。


 三本目が、訓練球の下をかすめた。


 落ちない。


「できた!」


「今の感覚よ」


「はい!」


 ミナはぱっと笑った。


 フィオナも柔らかく笑う。


「焦らなくていいわ。あなたは守るために伸ばす方が向いている」


「守るため……」


「ええ。相手を縛るためだけではなく、誰かを引くため。倒れそうな人を支えるため。そう考えると、水糸の動きが少し優しくなる」


 ミナは水糸を見る。


 細い水の線。


 攻撃力は低い。


 だが、守れる。


 引ける。


 繋げる。


「それ、いいですね」


「でしょう?」


 フィオナの声は穏やかだった。


 だが、その言葉はミナの中に深く残った。



 リアナは、カイルとシオンとともに別区画で指揮訓練をしていた。


 配置図の上に、小さな駒が置かれている。


 味方。

 敵。

 護衛対象。

 負傷者。

 封鎖地点。

 不明領域。


 シオンが淡々と駒を動かす。


「ここで情報が途切れる」


 リアナは即答する。


「ミナを護衛対象から離さない。ヴァルターを前に出しすぎない。ロイがいない前提なら、左を捨てて右に退く」


 カイルが頷く。


「いい判断だ」


 シオンがさらに駒を動かす。


「だが、右が罠なら?」


 リアナは少しだけ黙る。


 配置図を見る。


 全てを守ろうとすれば遅れる。


 見えない場所を、無理に見ようとすれば判断が止まる。


「斥候を出す余裕はない。なら、右に退く前に風で音を流す。反応が返らなければ進む。返れば中央で一時停止」


「停止すると背後が追いつく」


「その場合、ヴァルターの土で背後を切る。ミナは護衛対象を保持。私は前方確認」


 シオンは少しだけ目を細めた。


「悪くない」


 カイルも笑う。


「かなり早くなったね」


「まだ迷います」


「迷っていい。大事なのは、迷ったまま動けなくならないことだ」


 リアナは頷く。


「はい」


 その時、演習場の入口からロイが入ってきた。


 黒いスーツ型戦闘服。


 黒いロングコート。


 腰には《黒鳴》。


 昨日より、少し見慣れたはずなのに、やはり周囲の目を引いた。


 リアナは一瞬だけ見たあと、すぐ配置図に視線を戻した。


 ミナなら何か言ったかもしれない。


 だが、今は訓練中だ。


 それでも、カイルが小さく笑った。


「気になる?」


「訓練中です」


「そうだね」


 シオンがぼそりと言う。


「少し気にしていた」


「シオン先輩」


「観察」


 リアナはわずかに頬を赤くしながら、配置図の駒を一つ動かした。



 ロイは演習場を見渡した。


 ミナは水糸。


 リアナは指揮訓練。


 ヴァルターはダリウスのもとで土を沈めている。


 ガレスはレオナにしごかれている。


 学院は止まっていない。


 そこへ、セレスが歩いてきた。


「正式命令が出た」


 ロイは振り返る。


「いつだ」


「明朝。北西第三境界線へ向かう。先行調査隊は、君、リオネル、私、境界軍六名、管理局術師二名」


「レオナは」


「後続待機。反応規模が上がれば即時合流」


 ロイは頷いた。


「分かった」


 セレスは少しだけ声を落とす。


「第十四席イリス・ノクスフィリアにも連絡が入った。まだ動かないが、災禍指定の兆候が出れば招集される」


「そうか」


「今回の初動で、反応源の正体を見誤るな」


「ああ」


 セレスの表情はいつも通り冷静だった。


 だが、声にはわずかな重さがある。


 北西境界。


 ただの調査では終わらない可能性がある。


 それを、二人とも理解していた。



 昼前。


 学院長から正式通達が出された。


 北西境界外縁調査任務のため、ロイ・オルディスは一時的に学院を離れる。


 同行者は境界軍および管理局職員。


 生徒の同行は禁止。


 学院内では、緊急時の受け入れ体制と待機訓練を継続。


 掲示板の前に、生徒たちが集まる。


 大きな騒ぎにはならなかった。


 予想していたからだ。


 それでも、文字で見ると重い。


 ミナは掲示を見上げ、小さく息を吐いた。


「明日か……」


 ヴァルターが言う。


「早いな」


 リアナは静かに頷く。


「でも、境界任務なら当然なのでしょうね」


 フィオナが三人の横に立った。


「待つ側が乱れないことも大切よ」


「はい」


 ミナは頷く。


「ロイが戻ってきた時に、三本目もっと見せられるようにします」


 ヴァルターも言う。


「僕は仮封鎖を形にする」


 リアナは掲示から目を離さない。


「私は、班を崩さない」


 それぞれの言葉は短い。


 だが、確かだった。



 午後。


 出立前の最終装備確認が行われた。


 整備棟前には、調査隊の装備が並んでいる。


 封鎖杭。

 測定具。

 簡易結界布。

 外域用携帯食。

 負傷者固定具。

 魔力反応記録板。


 リオネルは自分の装備を確認しながら、次々に工具を動かしていた。


「封鎖杭よし。反応板よし。簡易炉よし。爆破具よし」


 セレスが冷たく言う。


「爆破具は最小限に」


「分かってる」


「前回もそう言って多かった」


「今回は前回より少ない」


「数を言え」


「……少し」


「数を言え」


 リオネルは目を逸らした。


 ロイが横で言う。


「多いな」


「備えだ」


 セレスは深く息を吐いた。


「半分置いていけ」


「横暴だ!」


「爆破で反応源を起こしたいのか」


「置いていく」


 ミナがそのやり取りを見て、小声で笑った。


「リオネルさん、自由だけどセレス隊長には弱いね」


 フィオナが微笑む。


「セレス隊長が正しいからでしょう」


 リオネルは聞こえていたのか、振り返って言った。


「俺は正論に弱い」


「自覚あるんですね」


「あるぞ」



 ロイの装備確認は最後だった。


 黒い戦闘服。


 黒いロングコート。


 《黒鳴》。


 腰部固定具と鞘の接続。


 蓄雷炉の出力制限。


 導雷刻印の反応。


 すべてをリオネルが確認する。


「よし。北西仕様にしてある。黒雷を広げるなよ。相手が《翠門》系なら、散らす雷に反応する可能性がある」


「分かっている」


「必要なら通す。広げず、刺す。お前の得意なやつだ」


「ああ」


 リオネルは最後にコートの襟を整えた。


「見た目もよし」


「そこも確認するのか」


「当然だ」


 レオナが横から笑った。


「いいぞ、ロイ! 黒雷らしい!」


 ロイは少しだけ首を傾げる。


「黒雷らしいとは」


「黒くて強そうってことだ!」


「説明が雑だな」


「分かればいい!」


 その声に、周囲の生徒たちは少し笑った。


 レオナがいると、場の空気が重くなりすぎない。


 だが、彼女の背後にある炎帝剣の気配は、決して軽くない。


 明るいからこそ、強い。


 そんな存在だった。



 夕方。


 出立前の小さな見送りが、中庭で自然に行われた。


 正式な式ではない。


 だが、第一班、総合上位者たち、教師陣、境界軍関係者が集まっていた。


 ミナが最初にロイへ近づく。


「明日、行くんだよね」


「ああ」


「気をつけて、って言うのも変かな。ロイに言うの」


「変ではない」


「そっか」


 ミナは少し笑った。


「じゃあ、気をつけて。戻ってきたら三本目見てね」


「見る」


「絶対だからね」


「ああ」


 次にヴァルターが来た。


「僕たちは待機だ。悔しいが、今はそれが正しい」


「ああ」


「戻った時、仮封鎖を見せる。浅いとは言わせない」


「見る」


 ヴァルターは頷いた。


「それでいい」


 リアナは少し遅れて前に出た。


「言える範囲で伝えてくれて、ありがとう」


「ああ」


「戻ってくるまで、班は私が見ておくわ」


「頼む」


 リアナはその言葉を静かに受け取った。


「任されたわ」


 フィオナは穏やかに言った。


「負傷者受け入れ体制はこちらで整えておきます。何もないのが一番ですが」


「助かる」


 レオナが横から声を上げる。


「何かあったら燃やしに行くからな!」


 セレスが即座に言う。


「必要がある場合だけです」


「分かってる!」


「本当に?」


「たぶん!」


「不安しかない」


 少しだけ笑いが起きた。



 夜。


 ロイは一人、第二演習場に立っていた。


 出立前の最後の調整。


 黒雷は使わない。


 身体補助だけ。


 壁内の床を傷つけず、外へ戻るための動きを思い出す。


 踏み込み。


 停止。


 反転。


 抜刀寸前で止める。


 黒いコートが静かに揺れる。


 その動きを、入口からセレスが見ていた。


「まだやるのか」


「ずれるからな」


「明日から外だ」


「だから戻す」


 セレスは少しだけ頷いた。


「壁内に寄った分を戻しているのか」


「ああ」


「学院に長くいたわけではないが、影響はあったか」


 ロイは少し考えた。


「少し」


「悪い影響か」


「分からない」


「そうか」


 セレスはそれ以上聞かなかった。


 しばらく、ロイの調整音だけが続く。


 やがて、彼は刀から手を離した。


「悪くはないと思う」


 セレスが目を向ける。


「学院のことか」


「ああ」


「なら、持っていけ」


「何を」


「ここで得たものだ。外では、そういうものが最後に足を動かすこともある」


 ロイは黙った。


 中庭の灯り。

 水糸を伸ばすミナ。

 配置図を見るリアナ。

 土を沈めるヴァルター。

 炎を抑えるガレス。

 上位者たち。

 教師たち。


 壁内の日常。


 境界とは違うもの。


 だが、無意味ではない。


「分かった」


 ロイは短く答えた。


 セレスはそれで十分というように頷いた。


 夜の演習場に、黒いコートの裾が静かに揺れていた。


 明朝。


 ロイ・オルディスは、境界へ向かう。


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