第45話 出立命令
翌朝。
学院の空気は、どこか落ち着かなかった。
昨日、空から落ちてきた真紅の流星。
境界名簿第十一席《炎帝剣》レオナ・ヴァーミリオン。
その存在は、一晩経っても生徒たちの間から消えなかった。
廊下でも、食堂でも、演習場でも、話題になる。
「本当に空から来たんだよな」
「炎の剣、見た?」
「あれが第十一席……」
「ロイ先輩、あの人とも普通に話してたよね」
「普通……だったか?」
「背中叩かれてた」
「あれで倒れないのがまずおかしい」
そんな声があちこちにあった。
だが、浮ついた空気ばかりではない。
第十一席が来た。
それは、北西境界の件が軽くないことを意味している。
そう理解している生徒も多かった。
◇
第二演習場。
レオナは朝からいた。
学院長の許可を取ったのか、取っていないのかは分からない。
ただ、彼女は堂々と演習場の中央に立ち、ガレスを相手にしていた。
「違う! 燃やす前に立て!」
「はい!」
「足が先! 火は後! 火で誤魔化すな!」
「はい!」
ガレスは炎剣を抜いていない。
足運びだけ。
前へ出る。
止まる。
横へずれる。
止まる。
後ろへ引く。
止まる。
境界軍の兵士にやらされていた訓練と似ている。
だが、レオナはさらに容赦がなかった。
「お前、怒ると肩が上がるな!」
「っ……!」
「肩が上がると剣が遅れる! 剣が遅れると火が逃げる! 火が逃げると味方が焼ける!」
「はい!」
「よし、もう一回!」
ガレスは汗だくになりながら、それでも食らいついていた。
その様子を、ミナが少し離れた場所で見ている。
「ガレス先輩、昨日から先生増えすぎじゃない?」
フィオナが微笑む。
「でも、良い顔をしているわ」
「確かに」
ガレスの顔には疲労がある。
悔しさもある。
だが、以前のような荒れた苛立ちは少ない。
強くなりたい。
その気持ちが、ようやく正しい方向へ向き始めていた。
レオナはガレスの前に立ち、右手に小さな炎を灯す。
「炎はな、力任せに出せば大きくなる。だが、強くはならん」
炎が揺れる。
赤い。
明るい。
だが、まったく暴れない。
「本当に強い火は、ここに置くと決めた場所で燃える。敵を焼く。道を塞ぐ。味方を温める。合図にもなる。怒りだけで燃やすと、それができない」
ガレスは真剣に見つめていた。
「どうすれば」
「まず、自分が火より先に熱くなるな!」
レオナは笑った。
「火を連れていけ。火に連れていかれるな」
ガレスは深く息を吸う。
「……はい」
その横で、境界軍の兵士が腕を組んで頷いた。
「同じことを言っているのに、圧が違うな」
レオナが笑う。
「私は声がでかいからな!」
◇
演習場の反対側では、ミナが水糸の練習をしていた。
フィオナが見守る。
水糸二本はかなり安定している。
三本目は短く、まだ不安定。
だが、昨日よりも確かに形になっていた。
「三本目を出す時、呼吸を止めているわ」
フィオナが言う。
「え、そうですか?」
「ええ。力を入れる瞬間に呼吸が止まる。そうすると、二本目が固くなる」
ミナは試しにもう一度やる。
二本の水糸。
そこへ、三本目。
今度は息を止めない。
細く吐きながら、短く伸ばす。
三本目が、訓練球の下をかすめた。
落ちない。
「できた!」
「今の感覚よ」
「はい!」
ミナはぱっと笑った。
フィオナも柔らかく笑う。
「焦らなくていいわ。あなたは守るために伸ばす方が向いている」
「守るため……」
「ええ。相手を縛るためだけではなく、誰かを引くため。倒れそうな人を支えるため。そう考えると、水糸の動きが少し優しくなる」
ミナは水糸を見る。
細い水の線。
攻撃力は低い。
だが、守れる。
引ける。
繋げる。
「それ、いいですね」
「でしょう?」
フィオナの声は穏やかだった。
だが、その言葉はミナの中に深く残った。
◇
リアナは、カイルとシオンとともに別区画で指揮訓練をしていた。
配置図の上に、小さな駒が置かれている。
味方。
敵。
護衛対象。
負傷者。
封鎖地点。
不明領域。
シオンが淡々と駒を動かす。
「ここで情報が途切れる」
リアナは即答する。
「ミナを護衛対象から離さない。ヴァルターを前に出しすぎない。ロイがいない前提なら、左を捨てて右に退く」
カイルが頷く。
「いい判断だ」
シオンがさらに駒を動かす。
「だが、右が罠なら?」
リアナは少しだけ黙る。
配置図を見る。
全てを守ろうとすれば遅れる。
見えない場所を、無理に見ようとすれば判断が止まる。
「斥候を出す余裕はない。なら、右に退く前に風で音を流す。反応が返らなければ進む。返れば中央で一時停止」
「停止すると背後が追いつく」
「その場合、ヴァルターの土で背後を切る。ミナは護衛対象を保持。私は前方確認」
シオンは少しだけ目を細めた。
「悪くない」
カイルも笑う。
「かなり早くなったね」
「まだ迷います」
「迷っていい。大事なのは、迷ったまま動けなくならないことだ」
リアナは頷く。
「はい」
その時、演習場の入口からロイが入ってきた。
黒いスーツ型戦闘服。
黒いロングコート。
腰には《黒鳴》。
昨日より、少し見慣れたはずなのに、やはり周囲の目を引いた。
リアナは一瞬だけ見たあと、すぐ配置図に視線を戻した。
ミナなら何か言ったかもしれない。
だが、今は訓練中だ。
それでも、カイルが小さく笑った。
「気になる?」
「訓練中です」
「そうだね」
シオンがぼそりと言う。
「少し気にしていた」
「シオン先輩」
「観察」
リアナはわずかに頬を赤くしながら、配置図の駒を一つ動かした。
◇
ロイは演習場を見渡した。
ミナは水糸。
リアナは指揮訓練。
ヴァルターはダリウスのもとで土を沈めている。
ガレスはレオナにしごかれている。
学院は止まっていない。
そこへ、セレスが歩いてきた。
「正式命令が出た」
ロイは振り返る。
「いつだ」
「明朝。北西第三境界線へ向かう。先行調査隊は、君、リオネル、私、境界軍六名、管理局術師二名」
「レオナは」
「後続待機。反応規模が上がれば即時合流」
ロイは頷いた。
「分かった」
セレスは少しだけ声を落とす。
「第十四席イリス・ノクスフィリアにも連絡が入った。まだ動かないが、災禍指定の兆候が出れば招集される」
「そうか」
「今回の初動で、反応源の正体を見誤るな」
「ああ」
セレスの表情はいつも通り冷静だった。
だが、声にはわずかな重さがある。
北西境界。
ただの調査では終わらない可能性がある。
それを、二人とも理解していた。
◇
昼前。
学院長から正式通達が出された。
北西境界外縁調査任務のため、ロイ・オルディスは一時的に学院を離れる。
同行者は境界軍および管理局職員。
生徒の同行は禁止。
学院内では、緊急時の受け入れ体制と待機訓練を継続。
掲示板の前に、生徒たちが集まる。
大きな騒ぎにはならなかった。
予想していたからだ。
それでも、文字で見ると重い。
ミナは掲示を見上げ、小さく息を吐いた。
「明日か……」
ヴァルターが言う。
「早いな」
リアナは静かに頷く。
「でも、境界任務なら当然なのでしょうね」
フィオナが三人の横に立った。
「待つ側が乱れないことも大切よ」
「はい」
ミナは頷く。
「ロイが戻ってきた時に、三本目もっと見せられるようにします」
ヴァルターも言う。
「僕は仮封鎖を形にする」
リアナは掲示から目を離さない。
「私は、班を崩さない」
それぞれの言葉は短い。
だが、確かだった。
◇
午後。
出立前の最終装備確認が行われた。
整備棟前には、調査隊の装備が並んでいる。
封鎖杭。
測定具。
簡易結界布。
外域用携帯食。
負傷者固定具。
魔力反応記録板。
リオネルは自分の装備を確認しながら、次々に工具を動かしていた。
「封鎖杭よし。反応板よし。簡易炉よし。爆破具よし」
セレスが冷たく言う。
「爆破具は最小限に」
「分かってる」
「前回もそう言って多かった」
「今回は前回より少ない」
「数を言え」
「……少し」
「数を言え」
リオネルは目を逸らした。
ロイが横で言う。
「多いな」
「備えだ」
セレスは深く息を吐いた。
「半分置いていけ」
「横暴だ!」
「爆破で反応源を起こしたいのか」
「置いていく」
ミナがそのやり取りを見て、小声で笑った。
「リオネルさん、自由だけどセレス隊長には弱いね」
フィオナが微笑む。
「セレス隊長が正しいからでしょう」
リオネルは聞こえていたのか、振り返って言った。
「俺は正論に弱い」
「自覚あるんですね」
「あるぞ」
◇
ロイの装備確認は最後だった。
黒い戦闘服。
黒いロングコート。
《黒鳴》。
腰部固定具と鞘の接続。
蓄雷炉の出力制限。
導雷刻印の反応。
すべてをリオネルが確認する。
「よし。北西仕様にしてある。黒雷を広げるなよ。相手が《翠門》系なら、散らす雷に反応する可能性がある」
「分かっている」
「必要なら通す。広げず、刺す。お前の得意なやつだ」
「ああ」
リオネルは最後にコートの襟を整えた。
「見た目もよし」
「そこも確認するのか」
「当然だ」
レオナが横から笑った。
「いいぞ、ロイ! 黒雷らしい!」
ロイは少しだけ首を傾げる。
「黒雷らしいとは」
「黒くて強そうってことだ!」
「説明が雑だな」
「分かればいい!」
その声に、周囲の生徒たちは少し笑った。
レオナがいると、場の空気が重くなりすぎない。
だが、彼女の背後にある炎帝剣の気配は、決して軽くない。
明るいからこそ、強い。
そんな存在だった。
◇
夕方。
出立前の小さな見送りが、中庭で自然に行われた。
正式な式ではない。
だが、第一班、総合上位者たち、教師陣、境界軍関係者が集まっていた。
ミナが最初にロイへ近づく。
「明日、行くんだよね」
「ああ」
「気をつけて、って言うのも変かな。ロイに言うの」
「変ではない」
「そっか」
ミナは少し笑った。
「じゃあ、気をつけて。戻ってきたら三本目見てね」
「見る」
「絶対だからね」
「ああ」
次にヴァルターが来た。
「僕たちは待機だ。悔しいが、今はそれが正しい」
「ああ」
「戻った時、仮封鎖を見せる。浅いとは言わせない」
「見る」
ヴァルターは頷いた。
「それでいい」
リアナは少し遅れて前に出た。
「言える範囲で伝えてくれて、ありがとう」
「ああ」
「戻ってくるまで、班は私が見ておくわ」
「頼む」
リアナはその言葉を静かに受け取った。
「任されたわ」
フィオナは穏やかに言った。
「負傷者受け入れ体制はこちらで整えておきます。何もないのが一番ですが」
「助かる」
レオナが横から声を上げる。
「何かあったら燃やしに行くからな!」
セレスが即座に言う。
「必要がある場合だけです」
「分かってる!」
「本当に?」
「たぶん!」
「不安しかない」
少しだけ笑いが起きた。
◇
夜。
ロイは一人、第二演習場に立っていた。
出立前の最後の調整。
黒雷は使わない。
身体補助だけ。
壁内の床を傷つけず、外へ戻るための動きを思い出す。
踏み込み。
停止。
反転。
抜刀寸前で止める。
黒いコートが静かに揺れる。
その動きを、入口からセレスが見ていた。
「まだやるのか」
「ずれるからな」
「明日から外だ」
「だから戻す」
セレスは少しだけ頷いた。
「壁内に寄った分を戻しているのか」
「ああ」
「学院に長くいたわけではないが、影響はあったか」
ロイは少し考えた。
「少し」
「悪い影響か」
「分からない」
「そうか」
セレスはそれ以上聞かなかった。
しばらく、ロイの調整音だけが続く。
やがて、彼は刀から手を離した。
「悪くはないと思う」
セレスが目を向ける。
「学院のことか」
「ああ」
「なら、持っていけ」
「何を」
「ここで得たものだ。外では、そういうものが最後に足を動かすこともある」
ロイは黙った。
中庭の灯り。
水糸を伸ばすミナ。
配置図を見るリアナ。
土を沈めるヴァルター。
炎を抑えるガレス。
上位者たち。
教師たち。
壁内の日常。
境界とは違うもの。
だが、無意味ではない。
「分かった」
ロイは短く答えた。
セレスはそれで十分というように頷いた。
夜の演習場に、黒いコートの裾が静かに揺れていた。
明朝。
ロイ・オルディスは、境界へ向かう。




