第46話 壁の外へ
夜明け前の学院は、まだ薄い青に沈んでいた。
校舎の窓には明かりが少なく、石畳には朝露が残っている。
だが、正門前だけはすでに人がいた。
境界軍の兵士。
管理局の術師。
学院の教師陣。
そして、第一班と総合上位者たち。
正式な見送りではない。
そう言われていた。
それでも、誰も来るなとは言われていない。
だから、彼らはそこにいた。
ロイ・オルディスは黒い戦闘服を身につけていた。
身体に沿う黒のスーツ型戦闘服。
その上に、膝下まで届く黒いロングコート。
腰には《黒鳴》。
朝の薄明かりの中で、黒い外套は風を受けて静かに揺れている。
学院に来た時の制服姿とは違う。
そこに立っているのは、学院生でありながら、境界名簿第二十七席《黒雷》だった。
ミナが小さく息を吐いた。
「本当に行くんだね」
「ああ」
ロイは短く答える。
ミナはいつものように明るく笑おうとして、少しだけ失敗した。
「戻ってきたら、三本目見せるから」
「見る」
「あと、ちゃんと戻ってきてね」
「任務が終われば戻る」
「うん。それでいい」
ミナは水糸用の魔導具を握った。
リオネルが調整した小さな支援具。
その感触を確かめるように。
リアナは少し離れていた。
手には配置図ではなく、小さな記録板を持っている。
「学院側の待機班は、今日から再編します」
「ああ」
「負傷者受け入れ、避難誘導、封鎖補助。できる範囲で整えておくわ」
「頼む」
その一言に、リアナは静かに頷いた。
「任されたわ」
ヴァルターは槍を持っていた。
いつもの訓練用ではない。
リオネルに重心を調整された槍だ。
「僕はここで待つ。今の僕が外へ行っても、足を引っ張るだけだ」
「ああ」
「だが、次に君が戻った時には、少しは違う壁を見せる」
「見る」
「必ずだ」
ガレスは少し遅れて前に出た。
彼の肩には、まだ昨日の訓練の疲労が残っている。
それでも、目の熱は落ちていなかった。
「俺は火を連れていけるようにする」
ロイはガレスを見た。
「そうか」
「あんたが戻るまでに、味方を焼かない炎を覚える」
横でレオナが豪快に笑った。
「いいぞ! その意気だ!」
ガレスは一瞬、背筋を伸ばした。
「はい!」
レオナは満足げに頷く。
「ロイ、こいつは見込みがあるぞ」
「そうか」
「反応が薄い!」
リオネルが横で呟く。
「いつものことだ」
◇
総合上位者たちも前に出た。
ユリウスは白鞘の長剣を腰に下げ、穏やかな声で言った。
「学院側は任せてほしい」
「頼む」
「君がいない間に、こちらが乱れたら意味がないからね」
フィオナはミナの肩に軽く手を置く。
「支援班はこちらで見ます。負傷者が来た場合も、受け入れ態勢は整えます」
「助かる」
ダリウスは短く言った。
「戻れ」
「ああ」
シオンは影のように少し離れた場所から言う。
「噂は抑える」
「任せる」
カイルは苦笑した。
「君の周りは噂になりやすいからね」
「そうなのか」
「自覚がないのが一番厄介だ」
ミナが小さく笑った。
重かった空気が、少しだけ柔らかくなる。
だが、それも長くは続かなかった。
正門の向こうで、境界軍の輸送車列が動き始める。
馬車ではない。
魔導駆動の装甲車。
車輪の周囲に刻印が浮かび、低い音を立てている。
外域近くで使われる軍用輸送具だった。
学院生たちの何人かが、初めて見るそれに息を呑む。
セレスがロイの横に立った。
「時間だ」
「ああ」
ロイは一度だけ、学院を見た。
朝の光を受ける校舎。
訓練場。
中庭。
短い間だった。
だが、確かに何かが残っている。
ロイは黒いロングコートの裾を揺らし、輸送車へ向かった。
◇
正門が開く。
装甲車列が学院を出る。
その後ろ姿を、生徒たちは黙って見送った。
ミナは拳を握る。
「よし」
リアナが横を見る。
「訓練?」
「うん。待ってるだけは嫌だから」
「ええ」
ヴァルターが頷く。
「僕も行く」
ガレスも言った。
「俺もだ」
フィオナが穏やかに笑う。
「では、支援班も動きましょう」
ユリウスは上級生たちへ向き直った。
「学院内待機体制を確認する。各班長は講堂へ」
正門の向こうにロイたちの姿はもうない。
だが、学院の動きは止まらなかった。
◇
北西境界へ向かう道は、王都街道から徐々に外れていく。
舗装された道が細くなり、やがて軍用路に変わった。
両側に広がる森は、壁内の森とは少し違う。
木々の間隔が不自然に空き、枝の向きが同じ方へ傾いている。
風の音も、どこか遅れて聞こえた。
装甲車の中で、管理局の術師が記録板を確認している。
「魔力濃度、上昇。まだ壁内許容範囲ですが、北西特有の揺れが出ています」
セレスが頷く。
「境界線に近づいている」
リオネルは自分の装備を点検していた。
手甲。
腰帯。
靴。
封鎖杭。
小型炉。
そして、隠していた爆破具をセレスに没収されている。
「まだ根に持ってるか?」
セレスが視線だけ向ける。
「余計な爆破具を持ち込むなと言っただけです」
「余計じゃない。便利だ」
「便利かどうかではなく、必要かどうかです」
「正論は嫌いだ」
「弱いと言っていたでしょう」
「嫌いだが弱い」
境界軍の兵士が低く笑った。
ロイは窓の外を見ていた。
黒いコートの内側で、戦闘服の導雷刻印がわずかに反応している。
壁内より、魔力が荒い。
空気が重い。
音の返りが違う。
ロイは指先に微弱な雷を流した。
黒雷ではない。
ただの調整。
身体が、少しずつ外へ戻っていく。
セレスがそれに気づく。
「戻しているのか」
「ああ」
「壁内の癖は抜けそうか」
「問題ない」
リオネルが横から言う。
「その戦闘着、外域側の魔力を拾いすぎるなよ。導雷線が勝手に反応する時は、襟元の刻印を絞れ」
「分かった」
「あと、コートを裂くな」
「必要なら裂ける」
「必要でもなるべく裂くな。かっこいいんだから」
ロイは少しだけ黙った。
「努力する」
「よし」
セレスが小さく息を吐く。
「任務前に何の会話をしているのですか」
◇
昼前。
装甲車列は北西第三境界線前哨基地へ到着した。
そこには、学院とはまったく違う光景が広がっていた。
高い外壁。
黒鉄の監視塔。
幾重にも張られた結界柱。
地面には古い戦闘痕が残り、石材の一部は焼け、別の場所は凍りついたまま補修されている。
兵士たちの動きに無駄はない。
学院の実習とは違う。
ここは、日常的に外と向き合う場所だった。
車列が止まると、基地の兵士たちが並んだ。
その先頭にいたのは、三十代後半ほどの男だった。
背は高く、がっしりしている。
短く整えた黒髪。
手には長槍。
背には折り畳み式の防壁具。
目つきは鋭いが、荒さはない。
彼が一歩前へ出る。
「第三境界線防衛隊、臨時指揮官グレン・バルドハイム」
セレスが応じる。
「境界名簿第三十二席、セレス・アーヴェイン」
ロイも短く言う。
「第二十七席、ロイ・オルディス」
リオネルが片手を上げた。
「第七十二席、リオネル・バスク。装備と封鎖担当だ」
グレンは三人を見て、最後にロイへ視線を止めた。
「《黒雷》か」
「ああ」
「噂より若い」
「よく言われる」
「だが、記録は若くない」
グレンはそれだけ言うと、すぐに地図を広げた。
無駄な挨拶はない。
現場の空気だった。
「反応源は旧街道跡のさらに外側。昨夜から微速で南東へ移動している。壁へ向かっているわけではないが、地下水脈に沿っている可能性がある」
セレスの表情が硬くなる。
「水脈か」
「そうだ。迷宮核と繋がった理由もそこにあるかもしれん」
リオネルが地図を覗き込む。
「嫌な場所だな。封鎖杭が効きにくい」
「だから呼ばれた」
グレンは淡々と言った。
「現時点で禍等級は?」
セレスが問う。
グレンは少し間を置いた。
「観測上は中禍下限。ただし、波形の奥に大禍相当の揺れがある」
兵士たちの空気が一段重くなった。
中禍。
学院で聞いた言葉が、ここでは現実の数字として置かれている。
ロイは地図を見たまま言う。
「見に行く」
「そのための先行隊だ」
グレンは頷く。
「ただし、今回は撃破ではない。確認、記録、必要なら切除。無理に追うな」
ロイは短く答えた。
「了解」
◇
前哨基地の奥には、境界門があった。
巨大な黒鉄の門。
物理的な門であり、同時に境界装置でもある。
門の表面には無数の刻印が走り、低く唸るような音を立てている。
門の向こうは、壁の外。
外域。
学院で何度も語られた場所。
だが、言葉で聞くのと、実際に前に立つのとでは違う。
境界軍の兵士たちでさえ、門の前では表情が引き締まる。
グレンが言う。
「開門は三分。外へ出た後、門は閉じる。帰還信号がなければ、再開門はしない」
管理局の術師が唾を飲んだ。
リオネルは手甲を鳴らす。
「いつ聞いても嫌な説明だ」
セレスは蒼刃を腰に下げ、静かに言う。
「それが境界です」
ロイは門を見上げていた。
黒いコートの裾が、壁の内側とは違う風に揺れる。
門の刻印が光る。
低い音が響く。
やがて、黒鉄の門がゆっくりと開いた。
隙間から、外の空気が流れ込む。
冷たい。
だが、ただ冷たいのではない。
湿った土の匂い。
鉄錆の匂い。
遠くで何かが腐ったような気配。
そして、魔力の濁流。
学院の魔力とは違う。
迷宮の魔力とも違う。
薄められていない、本物の外域。
術師の一人が膝を揺らしかけ、隣の兵士に支えられた。
グレンが短く言う。
「呼吸を浅くしろ。飲まれるな」
ロイは一歩、門の外へ出た。
黒い靴底が、外域の土を踏む。
瞬間、戦闘服の導雷刻印が細く光った。
黒いコートの縁を、青白い線が一瞬だけ走る。
リオネルが満足げに笑う。
「いい反応だ」
セレスが隣に並ぶ。
「ここからは学院ではない」
「ああ」
ロイの声は変わらない。
だが、空気が変わった。
壁内にいた時よりも、ずっと静かに。
そして、鋭く。
◇
外域の地形は、歪んでいた。
旧街道跡と呼ばれている場所は、石畳の一部だけが残り、他は赤黒い草に覆われている。
木はねじれ、枝は風と逆向きに伸びていた。
遠くの丘は、近く見える。
近くの岩は、妙に遠く感じる。
音の距離が信用できない。
セレスが蒼刃を抜いた。
「隊列維持。音ではなく、視認距離を優先」
グレンが槍を持ち直す。
「前衛、盾を低く。足元を見ろ。外域では、地面が先に殺しに来る」
兵士たちが即座に動く。
リオネルは封鎖杭を肩の補助腕で固定しながら進む。
ロイは先頭より少し右にいた。
黒雷はまだ出していない。
ただ、足裏から地面へ微弱な雷を流す。
反応を見るため。
地中には水脈がある。
その水脈の奥に、黒い何かが細く走っていた。
ロイが足を止める。
「下だ」
全員が止まった。
セレスが視線を鋭くする。
「距離は」
「近い」
次の瞬間、旧街道の石畳が割れた。
赤黒い根が、槍のように地中から突き上がる。
狙いは管理局の術師。
だが、根が届く前に黒い線が走った。
ロイの雷ではない。
グレンの槍だった。
槍先が地面を叩き、防壁術が低く展開する。
根が壁にぶつかり、軌道を逸らされる。
そこへセレスの蒼刃が入った。
「蒼刃・氷界線」
蒼い線が地面を走り、根の動きを止める。
リオネルが封鎖杭を撃ち込んだ。
「一本目!」
杭が根の中心へ刺さり、魔導刻印が赤黒い脈動を押さえ込む。
ロイは最後に一歩踏み込み、《黒鳴》を抜いた。
雷鳴はない。
黒い刀身が、根の奥にある魔力の芯だけを切る。
赤黒い根が崩れ落ちた。
兵士の一人が低く言う。
「初接触、根型一体、封鎖完了」
管理局術師が記録板を震える手で操作する。
「反応……中禍下限相当。ですが、これは本体ではありません。枝です」
グレンが地面を見る。
「枝で中禍下限か」
セレスの声が低くなる。
「本体は、もっと奥です」
ロイは黒鳴を鞘へ戻した。
コートの裾が、外域の風に揺れる。
その時、遠くの丘の向こうで、何かが動いた。
木々が倒れる。
地面が盛り上がる。
赤黒い根が、何十本も空へ伸びる。
そして、その奥で。
巨大な影が、ゆっくりと頭をもたげた。
管理局術師の記録板が甲高い警告音を発する。
「反応上昇……中禍上限を突破」
兵士たちが一斉に武器を構える。
グレンが槍を低く構えた。
「全員、隊列を崩すな」
記録板の警告音がさらに高くなる。
「大禍級反応、検出」
リオネルの笑みが消えた。
セレスが蒼刃を構え直す。
ロイは、遠くの影を見た。
外域の空の下、黒い雷がまだ静かに眠っている。
戦いは、始まったばかりだった。




