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第41話 境界からの使者

 序列戦が終わった翌朝。


 学院は、少しだけ静かだった。


 闘技場の熱も、講堂の緊張も、夜の中庭のざわめきも、まだ空気の中に残っている。


 だが、授業は戻る。


 廊下には教本を抱えた生徒が行き交い、訓練場には早朝から魔導灯と訓練球が並べられていた。


 序列戦が終わったからといって、鍛える理由がなくなったわけではない。


 むしろ、多くの生徒は知ってしまった。


 自分たちは、まだ足りない。


 だからこそ、続ける。



 第二演習場では、ミナが水糸を二本伸ばしていた。


 一本は訓練球。


 もう一本は、少し離れた木製人形。


 その二つを同時に動かしながら、足元に薄い水膜を作ろうとしている。


 水膜が広がった瞬間、訓練球が落ちた。


「あーっ!」


 ミナは頭を抱える。


 近くでフィオナが微笑んだ。


「今のは惜しいわ。三つ目を作る瞬間、二本目への意識が抜けていた」


「分かってるんですけど、三つになると頭がぎゅってなるんです」


「最初はそれでいいの。常に三つを維持しようとせず、必要な瞬間だけ三つ目を出す。昨日の評価戦でもできていたでしょう?」


「はい……!」


 ミナは深く息を吸い、もう一度水糸を伸ばした。


 フィオナはそれを見守る。


 総合第二位の柔らかい指導に、周囲の下級生たちも自然と集まっていた。


 支援役が注目される。


 それは、今年の序列戦が残した変化の一つだった。



 少し離れた場所では、リアナがカイル、シオンと訓練配置図を見ていた。


「指揮役が最初に考えるべきことは、敵の撃破ではない」


 カイルが言う。


「まず、班の崩れ方を予測する。誰が乱れた時、どこへ穴が空くか」


 シオンも淡々と続ける。


「見えない場所は必ずできる。そこを自分で見ようとすると遅れる。誰に任せるか、先に決める方がいい」


 リアナは真剣に頷く。


「昨日の最終評価戦では、最後にロイを待機させすぎた気もします」


「悪くない判断だよ」


 カイルは首を振った。


「彼を主制圧に使えば早かった。でも、君たちは班で達成する必要があった。だから、彼を最後の保険にした。あれは正しい」


「保険……」


 リアナは演習場の入口を見る。


 ロイはいない。


 朝の点呼後、学院長室へ呼ばれていた。


 何となく、理由は分かる。


 境界からの連絡。


 昨日セレスが言っていたこと。


 学院での日々が、ずっと続くわけではない。


 リアナはその考えを振り払うように、配置図へ視線を戻した。


「続けてください」


 シオンが少しだけ目を細める。


「切り替えは早いね」


「今、考えても仕方のないことですから」


「悪くない」


 その言葉に、リアナは小さく息を吐いた。



 別の区画では、ヴァルターがダリウスの前で土壁を出していた。


 以前より、壁の出方が違う。


 地表に盛り上げるのではなく、床下から押し上げる。


 厚さより、根の深さ。


 土壁の下にさらに薄い土層を重ね、衝撃を受け流す。


 ダリウスは無言で見ていた。


 ヴァルターが汗を拭う。


「どうでしょうか」


「浅い」


「……はい」


「だが、昨日より深い」


 その一言に、ヴァルターの表情がわずかに明るくなった。


「ありがとうございます」


「喜ぶな。まだ浅い」


「はい」


 だが、声には力がある。


 ダリウスは盾を床へ置き、低く言った。


「土は守るだけではない。運ぶ。沈める。支える。道を作る。お前は壁ばかり見ている」


「道を作る……」


「護衛対象を押した時、少し見えていた。伸ばせ」


「はい」


 ヴァルターは槍を握り直した。


 以前なら、総合第三位にここまで言われれば、悔しさだけが先に立ったかもしれない。


 今は違う。


 悔しい。


 だが、それ以上に学びたい。


 そう思えるようになっていた。



 ガレスは演習場の外側で、境界軍の兵士と向き合っていた。


 炎は出していない。


 剣も抜いていない。


 ただ、歩いている。


 前へ一歩。

 止まる。

 横へ半歩。

 止まる。

 後ろへ引く。

 止まる。


 地味な訓練だった。


 だが、兵士の目は厳しい。


「遅い」


「はい」


「火に頼る前に足を作れ」


「はい」


「炎で逃げるな。逃げる足があって、炎で道を塞ぐ」


「はい」


 ガレスは何度も同じ動きを繰り返した。


 炎を出せば、もっと速く動ける。


 だが、それでは同じだ。


 燃やす前に、立つ。


 火を置く前に、足を置く。


 それを身体に叩き込む必要があった。


 近くを通ったミナが小さく言う。


「ガレス先輩、めちゃくちゃ地味なことしてる」


 フィオナが微笑む。


「地味な訓練ほど、あとで差が出るのよ」


「うっ……私も頑張ります」



 その頃、学院長室では、境界軍から届いた正式書簡が開かれていた。


 学院長。


 セレス。


 エルナ教官。


 管理局の術師長。


 そして、ロイ。


 机の上には、北西境界の地図が広げられている。


 赤黒い線が、いくつか引かれていた。


 セレスが書簡を読み上げる。


「北西第三境界線外縁にて、《翠門》深部核片と同系統の波形を観測。現時点で襲来兆候なし。ただし、外域側反応源の移動可能性あり」


 エルナ教官が腕を組む。


「つまり、学院で出た枝の根元が、外にあるかもしれないってことか」


「そう見ています」


 術師長が地図上の一点を指す。


「ここは旧街道跡に近い。外域化が進んでからは封鎖されていますが、地下水脈が残っている。迷宮核と反応が繋がった可能性も否定できません」


 学院長がロイを見る。


「ロイ君」


「はい」


「君に正式な帰還命令は出ているのかね」


 セレスが答える。


「現段階では、調査隊への同行要請です。ただし、境界軍側はロイの参加を強く求めています」


 エルナ教官がロイに向く。


「どうする」


「行く」


 迷いはない。


 学院長は少しだけ息を吐いた。


「学内序列戦は終了した。学院として君を引き止める理由はない。だが、君は在籍生でもある。出発前に必要な手続きはこちらで整える」


「ありがとうございます」


 セレスは書簡の続きを見る。


「それと、調査隊には追加人員が合流します」


 ロイが目を向けた。


「誰だ」


「装備技師が一名。境界名簿第七十二席、リオネル・バスク」


 エルナ教官が眉を上げる。


「第七十二席……名簿持ちの鍛冶師か」


「鍛冶師であり、戦闘員です」


 セレスは淡々と言う。


「自身の装備全てを自作し、それぞれに特殊機能を持たせて戦う変則型。前線で武器の応急修復や封鎖具の作成もできる」


 ロイは少しだけ目を細めた。


「リオネルか」


「知っているのか」


 学院長が問う。


 ロイは頷いた。


「《黒鳴》の調整に関わっている」


 室内の空気が少し変わった。


 エルナ教官が興味深そうに見る。


「お前の刀か」


「ああ」


「なるほどな。あの化け物みたいな鞘と刀を見れば、普通の鍛冶師ではないとは思っていた」


 セレスは地図を畳む。


「リオネルは学院へ立ち寄る予定です。調査隊出発前に《黒鳴》の状態確認を行うとのこと」


 ロイは短く答える。


「分かった」



 会議が終わった後、ロイとセレスは廊下を歩いていた。


 窓の外には、第二演習場が見える。


 生徒たちが訓練している。


 ロイは少しだけ足を止めた。


 セレスが横で言う。


「言っておくが、まだ即出発ではない。リオネル到着、装備確認、調査隊編成。その後だ」


「分かっている」


「学院側への説明も必要になる」


「ああ」


「君の班には、自分で伝えた方がいい」


 ロイはセレスを見る。


「班に?」


「そうだ。彼らはもう、ただの同級生ではない。君が突然消えれば、余計な不安が出る」


 ロイは少し黙った。


 境界軍では、命令があれば動く。


 説明できないことも多い。


 それが普通だった。


 だが、学院では少し違う。


 言える範囲で伝える。


 それが必要になることもある。


「分かった」


 セレスは頷いた。


「それでいい」



 昼前。


 ロイが第二演習場へ戻ると、最初に気づいたのはミナだった。


「あ、ロイ戻ってきた」


 水糸が一瞬ぶれ、訓練球が落ちかける。


 フィオナがすかさず言う。


「集中」


「はい!」


 ミナは慌てて水糸を戻す。


 ロイはその様子を見て言った。


「二本は安定してきた」


 ミナの顔が明るくなる。


「本当?」


「ああ」


「よし!」


 フィオナも頷いた。


「確かに良くなっているわ。あとは三本目を焦らないことね」


「はい!」


 リアナとヴァルターも近づいてくる。


 ガレスも少し離れた場所から視線を向けた。


 ロイは短く言った。


「境界から要請が来た」


 空気が変わった。


 ミナの水糸が止まる。


 リアナは表情を引き締める。


 ヴァルターは静かに息を吸った。


「行くのか」


「ああ」


 ミナが一歩近づく。


「すぐ?」


「まだ。装備確認と調査隊編成がある」


 リアナが問う。


「《翠門》と関係があるの?」


「言える範囲では、外域側に近い波形が出た」


 それだけで、三人は理解した。


 完全には分からない。


 だが、学院で起きたことと無関係ではない。


 ヴァルターが拳を握る。


「僕たちは?」


「学院待機だ」


 即答だった。


 ヴァルターは何か言いかけて、飲み込む。


 分かっている。


 今の自分たちが外へ出れば、足手まといになる可能性が高い。


 だが、悔しさはある。


 リアナが静かに言った。


「戻ってくるの?」


 ロイは答える。


「任務が終われば」


「そう」


 ミナが無理に明るい声を出す。


「じゃあ、それまでに三本目、もう少し上手くなっておく」


「そうか」


「帰ってきたら見てよ」


「ああ」


 フィオナがそのやり取りを見て、柔らかく微笑んだ。


「目標があるのはいいことね」


 ヴァルターも言う。


「僕も、土をもっと深くする。次に君が見る時、浅いとは言わせない」


「俺は言っていない」


「ダリウス先輩に言われた」


「そうか」


「だが、君にも分かるように変える」


 ロイは頷いた。


「見る」


 リアナは少し遅れて言った。


「私は、指揮を詰めるわ。あなたがいなくても班が崩れないように」


「それがいい」


 短い返事。


 だが、リアナはそれを受け取った。



 その日の午後、学院内に新たな通達が出た。


 境界軍調査隊準備のため、数日以内に境界名簿保持者一名が来校。


 目的は装備確認および外域反応調査の事前協議。


 生徒の詮索は禁止。


 不要な接触も禁止。


 掲示板の前で、生徒たちがざわつく。


「また名簿持ち?」


「《黒雷》と《蒼刃》だけでもすごいのに」


「今度は誰だ?」


「装備技師って噂だけど」


「名簿持ちの鍛冶師って何だよ」


 カイルが掲示板を見ながら言った。


「境界は本当に人材の幅が広いな」


 ユリウスも頷く。


「戦うだけが強さではない、ということか」


 シオンがぼそりと言う。


「でも、名簿入りしているなら戦えるはずだ」


 ダリウスが短く答える。


「当然だ」


 ミナは目を輝かせていた。


「装備全部自作って、ちょっと気になる」


 リアナも興味を隠しきれない。


「《黒鳴》に関わった人なら、ロイの武器のことも分かるかもしれないわね」


 ヴァルターがロイを見る。


「君の刀は、ただの魔導兵装ではないのだろう」


「普通ではない」


「だろうな」


 ミナが身を乗り出す。


「どうやって作ったの?」


 ロイは少し黙った。


 すぐには答えない。


 やがて、短く言う。


「素材が特殊だった」


「素材?」


「角だ」


「角?」


 ミナが首を傾げる。


 ロイはそれ以上言わなかった。


 代わりに、セレスが横から言う。


「その話は、本人が来てからの方がいい」


 ミナが振り返る。


「セレス隊長」


「リオネルは、自分の仕事を語るのが好きだ。聞かなくても話す」


「そういう人なんですか?」


「かなり癖が強い」


 セレスがそう言うと、周囲の生徒たちは少しだけ緊張を解いた。


 名簿持ち。


 鍛冶師。


 癖が強い。


 それだけで、妙な想像が広がっていく。



 夕方。


 第二演習場に、また小さな灯りが並んだ。


 ミナは水糸。


 リアナは風と氷。


 ヴァルターは土。


 ガレスは足運びと炎。


 上位者たちも、短時間ずつ助言を残していく。


 ロイはそれを見ていた。


 もうすぐ境界へ向かう。


 まだ正式な出発日は決まっていない。


 だが、空気は動いている。


 学院の日常の中に、外の気配が混ざり始めていた。


 セレスが隣に立つ。


「リオネルが来れば、騒がしくなる」


「そうだな」


「あいつは遠慮がない」


「知っている」


「《黒鳴》を見れば、学院生たちもまた騒ぐだろう。あれの由来は、軽い話ではない」


 ロイは腰の《黒鳴》に手を置いた。


 黒い鞘。


 静かに眠る刀。


 かつて、境界で折った角。


 国を揺らすほどの災厄の一部。


 その記憶は、今も刃の奥に残っている。


「必要なら話す」


 セレスは少しだけ目を細めた。


「全部ではなくていい」


「ああ」


 夜風が演習場を抜ける。


 魔導灯が揺れる。


 その光の向こうに、境界から来る次の影が近づいていた。


 学内序列戦は終わった。


 だが、ロイ・オルディスの本来の任務は、まだ終わっていない。


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