第41話 境界からの使者
序列戦が終わった翌朝。
学院は、少しだけ静かだった。
闘技場の熱も、講堂の緊張も、夜の中庭のざわめきも、まだ空気の中に残っている。
だが、授業は戻る。
廊下には教本を抱えた生徒が行き交い、訓練場には早朝から魔導灯と訓練球が並べられていた。
序列戦が終わったからといって、鍛える理由がなくなったわけではない。
むしろ、多くの生徒は知ってしまった。
自分たちは、まだ足りない。
だからこそ、続ける。
◇
第二演習場では、ミナが水糸を二本伸ばしていた。
一本は訓練球。
もう一本は、少し離れた木製人形。
その二つを同時に動かしながら、足元に薄い水膜を作ろうとしている。
水膜が広がった瞬間、訓練球が落ちた。
「あーっ!」
ミナは頭を抱える。
近くでフィオナが微笑んだ。
「今のは惜しいわ。三つ目を作る瞬間、二本目への意識が抜けていた」
「分かってるんですけど、三つになると頭がぎゅってなるんです」
「最初はそれでいいの。常に三つを維持しようとせず、必要な瞬間だけ三つ目を出す。昨日の評価戦でもできていたでしょう?」
「はい……!」
ミナは深く息を吸い、もう一度水糸を伸ばした。
フィオナはそれを見守る。
総合第二位の柔らかい指導に、周囲の下級生たちも自然と集まっていた。
支援役が注目される。
それは、今年の序列戦が残した変化の一つだった。
◇
少し離れた場所では、リアナがカイル、シオンと訓練配置図を見ていた。
「指揮役が最初に考えるべきことは、敵の撃破ではない」
カイルが言う。
「まず、班の崩れ方を予測する。誰が乱れた時、どこへ穴が空くか」
シオンも淡々と続ける。
「見えない場所は必ずできる。そこを自分で見ようとすると遅れる。誰に任せるか、先に決める方がいい」
リアナは真剣に頷く。
「昨日の最終評価戦では、最後にロイを待機させすぎた気もします」
「悪くない判断だよ」
カイルは首を振った。
「彼を主制圧に使えば早かった。でも、君たちは班で達成する必要があった。だから、彼を最後の保険にした。あれは正しい」
「保険……」
リアナは演習場の入口を見る。
ロイはいない。
朝の点呼後、学院長室へ呼ばれていた。
何となく、理由は分かる。
境界からの連絡。
昨日セレスが言っていたこと。
学院での日々が、ずっと続くわけではない。
リアナはその考えを振り払うように、配置図へ視線を戻した。
「続けてください」
シオンが少しだけ目を細める。
「切り替えは早いね」
「今、考えても仕方のないことですから」
「悪くない」
その言葉に、リアナは小さく息を吐いた。
◇
別の区画では、ヴァルターがダリウスの前で土壁を出していた。
以前より、壁の出方が違う。
地表に盛り上げるのではなく、床下から押し上げる。
厚さより、根の深さ。
土壁の下にさらに薄い土層を重ね、衝撃を受け流す。
ダリウスは無言で見ていた。
ヴァルターが汗を拭う。
「どうでしょうか」
「浅い」
「……はい」
「だが、昨日より深い」
その一言に、ヴァルターの表情がわずかに明るくなった。
「ありがとうございます」
「喜ぶな。まだ浅い」
「はい」
だが、声には力がある。
ダリウスは盾を床へ置き、低く言った。
「土は守るだけではない。運ぶ。沈める。支える。道を作る。お前は壁ばかり見ている」
「道を作る……」
「護衛対象を押した時、少し見えていた。伸ばせ」
「はい」
ヴァルターは槍を握り直した。
以前なら、総合第三位にここまで言われれば、悔しさだけが先に立ったかもしれない。
今は違う。
悔しい。
だが、それ以上に学びたい。
そう思えるようになっていた。
◇
ガレスは演習場の外側で、境界軍の兵士と向き合っていた。
炎は出していない。
剣も抜いていない。
ただ、歩いている。
前へ一歩。
止まる。
横へ半歩。
止まる。
後ろへ引く。
止まる。
地味な訓練だった。
だが、兵士の目は厳しい。
「遅い」
「はい」
「火に頼る前に足を作れ」
「はい」
「炎で逃げるな。逃げる足があって、炎で道を塞ぐ」
「はい」
ガレスは何度も同じ動きを繰り返した。
炎を出せば、もっと速く動ける。
だが、それでは同じだ。
燃やす前に、立つ。
火を置く前に、足を置く。
それを身体に叩き込む必要があった。
近くを通ったミナが小さく言う。
「ガレス先輩、めちゃくちゃ地味なことしてる」
フィオナが微笑む。
「地味な訓練ほど、あとで差が出るのよ」
「うっ……私も頑張ります」
◇
その頃、学院長室では、境界軍から届いた正式書簡が開かれていた。
学院長。
セレス。
エルナ教官。
管理局の術師長。
そして、ロイ。
机の上には、北西境界の地図が広げられている。
赤黒い線が、いくつか引かれていた。
セレスが書簡を読み上げる。
「北西第三境界線外縁にて、《翠門》深部核片と同系統の波形を観測。現時点で襲来兆候なし。ただし、外域側反応源の移動可能性あり」
エルナ教官が腕を組む。
「つまり、学院で出た枝の根元が、外にあるかもしれないってことか」
「そう見ています」
術師長が地図上の一点を指す。
「ここは旧街道跡に近い。外域化が進んでからは封鎖されていますが、地下水脈が残っている。迷宮核と反応が繋がった可能性も否定できません」
学院長がロイを見る。
「ロイ君」
「はい」
「君に正式な帰還命令は出ているのかね」
セレスが答える。
「現段階では、調査隊への同行要請です。ただし、境界軍側はロイの参加を強く求めています」
エルナ教官がロイに向く。
「どうする」
「行く」
迷いはない。
学院長は少しだけ息を吐いた。
「学内序列戦は終了した。学院として君を引き止める理由はない。だが、君は在籍生でもある。出発前に必要な手続きはこちらで整える」
「ありがとうございます」
セレスは書簡の続きを見る。
「それと、調査隊には追加人員が合流します」
ロイが目を向けた。
「誰だ」
「装備技師が一名。境界名簿第七十二席、リオネル・バスク」
エルナ教官が眉を上げる。
「第七十二席……名簿持ちの鍛冶師か」
「鍛冶師であり、戦闘員です」
セレスは淡々と言う。
「自身の装備全てを自作し、それぞれに特殊機能を持たせて戦う変則型。前線で武器の応急修復や封鎖具の作成もできる」
ロイは少しだけ目を細めた。
「リオネルか」
「知っているのか」
学院長が問う。
ロイは頷いた。
「《黒鳴》の調整に関わっている」
室内の空気が少し変わった。
エルナ教官が興味深そうに見る。
「お前の刀か」
「ああ」
「なるほどな。あの化け物みたいな鞘と刀を見れば、普通の鍛冶師ではないとは思っていた」
セレスは地図を畳む。
「リオネルは学院へ立ち寄る予定です。調査隊出発前に《黒鳴》の状態確認を行うとのこと」
ロイは短く答える。
「分かった」
◇
会議が終わった後、ロイとセレスは廊下を歩いていた。
窓の外には、第二演習場が見える。
生徒たちが訓練している。
ロイは少しだけ足を止めた。
セレスが横で言う。
「言っておくが、まだ即出発ではない。リオネル到着、装備確認、調査隊編成。その後だ」
「分かっている」
「学院側への説明も必要になる」
「ああ」
「君の班には、自分で伝えた方がいい」
ロイはセレスを見る。
「班に?」
「そうだ。彼らはもう、ただの同級生ではない。君が突然消えれば、余計な不安が出る」
ロイは少し黙った。
境界軍では、命令があれば動く。
説明できないことも多い。
それが普通だった。
だが、学院では少し違う。
言える範囲で伝える。
それが必要になることもある。
「分かった」
セレスは頷いた。
「それでいい」
◇
昼前。
ロイが第二演習場へ戻ると、最初に気づいたのはミナだった。
「あ、ロイ戻ってきた」
水糸が一瞬ぶれ、訓練球が落ちかける。
フィオナがすかさず言う。
「集中」
「はい!」
ミナは慌てて水糸を戻す。
ロイはその様子を見て言った。
「二本は安定してきた」
ミナの顔が明るくなる。
「本当?」
「ああ」
「よし!」
フィオナも頷いた。
「確かに良くなっているわ。あとは三本目を焦らないことね」
「はい!」
リアナとヴァルターも近づいてくる。
ガレスも少し離れた場所から視線を向けた。
ロイは短く言った。
「境界から要請が来た」
空気が変わった。
ミナの水糸が止まる。
リアナは表情を引き締める。
ヴァルターは静かに息を吸った。
「行くのか」
「ああ」
ミナが一歩近づく。
「すぐ?」
「まだ。装備確認と調査隊編成がある」
リアナが問う。
「《翠門》と関係があるの?」
「言える範囲では、外域側に近い波形が出た」
それだけで、三人は理解した。
完全には分からない。
だが、学院で起きたことと無関係ではない。
ヴァルターが拳を握る。
「僕たちは?」
「学院待機だ」
即答だった。
ヴァルターは何か言いかけて、飲み込む。
分かっている。
今の自分たちが外へ出れば、足手まといになる可能性が高い。
だが、悔しさはある。
リアナが静かに言った。
「戻ってくるの?」
ロイは答える。
「任務が終われば」
「そう」
ミナが無理に明るい声を出す。
「じゃあ、それまでに三本目、もう少し上手くなっておく」
「そうか」
「帰ってきたら見てよ」
「ああ」
フィオナがそのやり取りを見て、柔らかく微笑んだ。
「目標があるのはいいことね」
ヴァルターも言う。
「僕も、土をもっと深くする。次に君が見る時、浅いとは言わせない」
「俺は言っていない」
「ダリウス先輩に言われた」
「そうか」
「だが、君にも分かるように変える」
ロイは頷いた。
「見る」
リアナは少し遅れて言った。
「私は、指揮を詰めるわ。あなたがいなくても班が崩れないように」
「それがいい」
短い返事。
だが、リアナはそれを受け取った。
◇
その日の午後、学院内に新たな通達が出た。
境界軍調査隊準備のため、数日以内に境界名簿保持者一名が来校。
目的は装備確認および外域反応調査の事前協議。
生徒の詮索は禁止。
不要な接触も禁止。
掲示板の前で、生徒たちがざわつく。
「また名簿持ち?」
「《黒雷》と《蒼刃》だけでもすごいのに」
「今度は誰だ?」
「装備技師って噂だけど」
「名簿持ちの鍛冶師って何だよ」
カイルが掲示板を見ながら言った。
「境界は本当に人材の幅が広いな」
ユリウスも頷く。
「戦うだけが強さではない、ということか」
シオンがぼそりと言う。
「でも、名簿入りしているなら戦えるはずだ」
ダリウスが短く答える。
「当然だ」
ミナは目を輝かせていた。
「装備全部自作って、ちょっと気になる」
リアナも興味を隠しきれない。
「《黒鳴》に関わった人なら、ロイの武器のことも分かるかもしれないわね」
ヴァルターがロイを見る。
「君の刀は、ただの魔導兵装ではないのだろう」
「普通ではない」
「だろうな」
ミナが身を乗り出す。
「どうやって作ったの?」
ロイは少し黙った。
すぐには答えない。
やがて、短く言う。
「素材が特殊だった」
「素材?」
「角だ」
「角?」
ミナが首を傾げる。
ロイはそれ以上言わなかった。
代わりに、セレスが横から言う。
「その話は、本人が来てからの方がいい」
ミナが振り返る。
「セレス隊長」
「リオネルは、自分の仕事を語るのが好きだ。聞かなくても話す」
「そういう人なんですか?」
「かなり癖が強い」
セレスがそう言うと、周囲の生徒たちは少しだけ緊張を解いた。
名簿持ち。
鍛冶師。
癖が強い。
それだけで、妙な想像が広がっていく。
◇
夕方。
第二演習場に、また小さな灯りが並んだ。
ミナは水糸。
リアナは風と氷。
ヴァルターは土。
ガレスは足運びと炎。
上位者たちも、短時間ずつ助言を残していく。
ロイはそれを見ていた。
もうすぐ境界へ向かう。
まだ正式な出発日は決まっていない。
だが、空気は動いている。
学院の日常の中に、外の気配が混ざり始めていた。
セレスが隣に立つ。
「リオネルが来れば、騒がしくなる」
「そうだな」
「あいつは遠慮がない」
「知っている」
「《黒鳴》を見れば、学院生たちもまた騒ぐだろう。あれの由来は、軽い話ではない」
ロイは腰の《黒鳴》に手を置いた。
黒い鞘。
静かに眠る刀。
かつて、境界で折った角。
国を揺らすほどの災厄の一部。
その記憶は、今も刃の奥に残っている。
「必要なら話す」
セレスは少しだけ目を細めた。
「全部ではなくていい」
「ああ」
夜風が演習場を抜ける。
魔導灯が揺れる。
その光の向こうに、境界から来る次の影が近づいていた。
学内序列戦は終わった。
だが、ロイ・オルディスの本来の任務は、まだ終わっていない。




