第37話 壁内調整
その夜、第二演習場の灯りはほとんど落ちていた。
昼間は生徒たちで埋まっていた場所も、今は静かだ。
魔導灯が数本だけ残り、床に淡い光を落としている。
その中央に、ロイ・オルディスは一人で立っていた。
腰には《黒鳴》。
右手には、リアナが選んだ手袋。
ロイは深く息を吸い、ゆっくり吐いた。
足元に、青白い雷が一筋走る。
黒雷ではない。
通常の雷属性魔力。
それを足首、膝、腰、肩、肘、手首へ順に通す。
踏み込み。
停止。
反転。
抜刀。
納刀。
同じ動きを、何度も繰り返す。
派手な雷鳴はない。
闘技場で見せた技も使わない。
ただ、身体の動きと魔力の流れを、細かく合わせている。
足元の石材を傷つけないよう、出力を絞る。
雷を散らさず、音も抑える。
壁内の床。
壁内の空気。
壁内の魔力濃度。
外とは違う。
だから、合わせ直す必要がある。
ロイは鞘に手を添えた。
抜かない。
抜く寸前で止める。
鞘の内側に雷を流し、寸前で切る。
抜くためではない。
抜かないための訓練。
速度を上げるより、止める方が難しい。
ロイはそれを何度も繰り返した。
◇
「……ロイ?」
声がした。
入口に、リアナが立っていた。
その後ろにはミナとヴァルターもいる。
三人とも、演習場の灯りを見て様子を見に来たらしい。
ミナが目を丸くする。
「え、訓練してたの?」
「ああ」
「一人で?」
「ああ」
ヴァルターが演習場の床を見る。
焦げ跡はほとんどない。
だが、細かい雷の痕跡だけが、薄く残っていた。
「君ほどの者でも、夜に基礎訓練をするのか」
ロイは首を傾げた。
「しない理由があるのか」
「いや……」
ヴァルターは言葉に詰まった。
境界名簿第二十七席《黒雷》。
あれほどの実力者なら、普段の訓練など必要ない。
どこかで、そう思っていた。
だが、目の前のロイは違う。
何も特別なことをしていない。
足を動かし、雷を流し、止め、また繰り返している。
ミナが小さく言った。
「なんか、意外」
「何が」
「ロイって、もう完成してる人みたいに見えてたから」
「完成していない」
ロイは即答した。
その声があまりに自然で、三人は少し黙った。
ロイは《黒鳴》の柄から手を離す。
「境界任務を離れたからと言って、訓練を怠る理由にはならない」
静かな声だった。
だが、重かった。
「むしろ、離れている時の方がずれる」
リアナが一歩近づく。
「ずれる?」
「外と壁内は違う。魔力の濃さも、音の返りも、地面の硬さも、敵の動きも、人の距離も」
ロイは足元を見る。
「外では避ける動きが、ここでは誰かに当たることがある。外では必要な出力が、ここでは大きすぎることがある。逆に、壁内の静かさに慣れすぎると、外で反応が遅れる」
ミナの顔から笑みが消える。
「壁の中にいるだけでも、危ないの?」
「戻った時に危ない」
ロイは淡々と言う。
「壁内での癖がついたまま外へ出ると、死ぬことがある。外の癖を残したまま壁内で動くと、味方を巻き込むことがある」
リアナは息を呑んだ。
ロイが学院で大きく撃たない理由。
必要な時まで技を絞る理由。
ただ強いから抑えているのではない。
壁内での戦い方へ、合わせていたのだ。
ヴァルターが低く言う。
「だから、調整していたのか」
「ああ」
「訓練というより、適応を戻している」
「近い」
ミナはぽつりと呟いた。
「ロイでも、ずれるんだ」
「ずれる」
「そっか……」
その事実は、不思議と安心にも似ていた。
遠すぎる存在に見えていた《黒雷》も、何もしなくて強いわけではない。
積み上げている。
今も。
ロイは床に置いていた訓練用の短い杭を拾う。
「見るなら、離れていろ」
リアナが問う。
「続けるの?」
「ああ」
「見てもいい?」
「邪魔をしないなら」
ミナが小さく笑う。
「じゃあ、邪魔しないで見る」
◇
ロイは再び構えた。
今度は少しだけ速度が上がる。
踏み込み。
反転。
鞘打ち。
抜刀寸前で停止。
青白い雷が関節を走り、身体の動きを支える。
それは派手ではない。
だが、異様に精密だった。
雷の量が、毎回違う。
踏み込む時は足首と膝。
止まる時は腰と背中。
鞘を動かす時は肩と手首。
視線を切る時は首筋へほんの一瞬。
全てが短い。
全てが必要な分だけ。
リアナは真剣に見ていた。
「……あれが、並列制御の基礎なのね」
ヴァルターが頷く。
「派手な技ではなく、動作一つ一つに雷を割り振っている」
ミナは小さく震えた。
「私たち、魔導灯と球であんなに大変なのに」
「だから異常なのだろう」
ヴァルターの声には、以前のような刺はない。
ただ、遠さを認める響きがあった。
ロイは止まった。
右手の手袋を確認する。
留め具は焼けていない。
リアナがそれに気づいて、少しだけ満足そうにする。
ロイが言う。
「焼けていない」
「約束したものね」
「ああ」
ミナがにやりとする。
「約束、守ってるんだ」
「守る」
「へえ」
リアナが咳払いした。
「ミナ」
「何も言ってないよ?」
「顔が言っているわ」
◇
その時、入口に別の気配が現れた。
灰色の軍装。
蒼い長剣。
セレス・アーヴェインだった。
「夜の演習場に人が集まっていると思えば」
「セレス」
ロイは振り返る。
セレスは床の痕跡を見た。
「壁内調整か」
「ああ」
「怠っていないようで何よりだ」
ミナが小声で言う。
「セレス隊長、すぐ分かるんだ……」
セレスはロイへ歩み寄る。
「少し合わせるか」
リアナが目を上げた。
「合わせる?」
セレスは蒼刃の柄に手を置く。
「手合わせだ。本気ではない」
ロイは少し考えた。
「構わない」
ミナが一気に目を輝かせた。
「え、見ていいんですか?」
セレスは横目で見る。
「離れていろ。結界内に入るな」
「はい!」
ヴァルターも表情を引き締めた。
「《黒雷》と《蒼刃》の手合わせ……」
リアナは黙って、一歩下がった。
見逃してはいけない。
そう思った。
◇
演習場の中央。
ロイとセレスが向かい合う。
ロイは《黒鳴》に手を置く。
セレスは蒼刃を抜いた。
刃が淡く青く光る。
空気の温度が少し下がった。
ロイの足元には、青白い雷。
黒くはない。
セレスが言う。
「黒雷は?」
「一系統だけ」
「十分だ」
「蒼刃は」
「領域は使わない」
「分かった」
二人の会話は短い。
だが、それだけで条件が決まった。
ミナが息を呑む。
「なんか、会話が戦闘用すぎる」
ヴァルターが頷く。
「互いに、どこまで出すか分かっているのだろう」
リアナは二人を見ていた。
学院生同士の模擬戦とは違う。
構えた瞬間から、空気が変わっている。
エルナ教官も、いつの間にか入口に立っていた。
「お前たち、施設を壊すなよ」
セレスが答える。
「軽くです」
「その軽くが信用できない」
ロイも言う。
「壊さない」
「お前の壊さないも信用しきれない」
エルナ教官は結界を厚く張った。
それを合図に、二人が動いた。
◇
最初に踏み込んだのはセレスだった。
速い。
だが、音が少ない。
蒼刃が低く走る。
ロイは鞘で受けた。
金属音ではなく、薄い氷が割れるような音がした。
蒼い魔力が鞘に絡む。
ロイは黒雷を一筋だけ流し、それを焼き切る。
セレスはすぐに剣を引く。
引きながら、足元へ蒼い線を置いた。
氷界線。
ロイの踏み込みを止める境界。
ロイはその線を越えない。
手前で止まり、鞘の先を床へ当てる。
黒雷が床下を走る。
セレスの足元へ向かわない。
氷界線の端へ。
境界の弱い場所だけを焼く。
蒼い線が一瞬だけ揺らいだ。
セレスが微かに笑う。
「相変わらず嫌なところを通す」
「そこが薄い」
「知っている」
セレスの剣が上へ跳ねた。
蒼い斬撃が三本。
正面、右、左。
ロイは刀を抜く。
黒雷は使わない。
青白い雷を刀身に沿わせ、二本を弾く。
残り一本は避ける。
避けた先へ、セレスがいる。
蒼刃が喉元へ来る。
ロイの左手が鞘を押す。
抜雷ではない。
鞘で蒼刃の腹を叩き、角度をずらす。
同時に、刀の峰がセレスの肩口へ向かう。
セレスは肩を引かない。
蒼刃の柄で受ける。
衝撃が小さく広がる。
遅れて、演習場の床に薄い霜が走った。
ミナが口を押さえる。
「これで軽く……?」
ヴァルターは声を低くした。
「互いに、技を潰し合っている」
リアナも頷く。
「大きな力を出していないのに、判断が速すぎる」
◇
セレスが一歩下がる。
ロイも追わない。
互いに距離を取り直す。
次に動いたのはロイだった。
低い踏み込み。
黒雷一系統が足元を走る。
セレスはそれを見て、蒼刃を床へ滑らせた。
黒雷の進路に、蒼い境界が置かれる。
黒雷が境界へ触れた瞬間、火花が凍った。
いや、止まった。
ロイは即座に雷を切り、別の経路へ通す。
だが、セレスはその先へもう一本の線を置いている。
「読んでいたか」
「君ならそうする」
セレスの剣が迫る。
ロイは刀で受ける。
今度は真正面。
黒雷と蒼刃が触れた。
黒い火花と蒼い氷片が、同時に散る。
一瞬だけ、演習場の灯りが揺れた。
音は小さい。
だが、圧が重い。
ミナは思わず後ずさる。
リアナがその腕を軽く支えた。
「大丈夫?」
「うん……すごいね」
「ええ」
ミナは二人を見つめたまま言った。
「ロイが、誰かとちゃんと並んで戦ってるみたい」
リアナは少しだけ目を細める。
「そうね」
ロイは強すぎる。
いつも一人で処理してしまう。
だが、セレス相手では違う。
任せる。
読まれる。
潰される。
返す。
対等に近い速度で、やり取りが成立している。
それが、少し新鮮だった。
◇
十数合。
時間にすれば、短い。
だが、見ている者には長く感じられた。
セレスの蒼刃が、ロイの進路を切る。
ロイの黒雷が、その境界を細く焼く。
ロイの刀が入る。
セレスの剣が受ける。
蒼い霜が床に走り、黒い火花がそれを砕く。
最後、二人は同時に止まった。
ロイの刀の峰が、セレスの肩の手前。
セレスの蒼刃が、ロイの首筋の手前。
相打ち。
セレスが剣を下ろした。
「ここまでだな」
「ああ」
ロイも刀を納める。
演習場に、ようやく空気が戻った。
エルナ教官が結界を解く。
「軽くと言ったな?」
「軽くです」
セレスは平然と答える。
エルナ教官は床を見る。
霜と焦げ跡が、薄く交互に残っている。
「掃除して帰れ」
ロイが頷く。
「分かった」
セレスも言う。
「了解しました」
ミナが小声で笑った。
「序列者でも掃除はするんだ」
「当然だ」
ロイが答える。
「壊したら直す」
「そういうところは普通なんだね」
「普通だ」
ヴァルターが床を見ながら呟く。
「普通の痕跡ではないがな」
◇
掃除をしながら、セレスはロイに言った。
「動きが少し壁内に寄っている」
「分かるか」
「ああ。踏み込みが浅い。周囲を巻き込まない意識が強すぎる」
「直す必要があるか」
「壁内では正しい。だが、外へ戻る前に戻せ」
「ああ」
リアナはその会話を聞いていた。
壁内に寄っている。
外へ戻る前に戻す。
ロイは学院に馴染み始めている。
けれど、それは危険にもなる。
彼には、戻る場所がある。
境界。
外域。
自分たちの知らない場所。
リアナは胸の奥に、少しだけ重いものを感じた。
ミナがそっと横に来る。
「リアナ?」
「何でもないわ」
「そう?」
「ええ」
リアナはロイを見る。
床の焦げ跡を拭いている《黒雷》。
少し前なら、想像もしなかった光景だった。
遠い人。
けれど、今は同じ演習場で掃除をしている。
その距離が、近いのか遠いのか。
まだ、うまく分からなかった。
◇
掃除が終わる頃、セレスは蒼刃を鞘に収めた。
「明日、本選の続きだ」
「ああ」
「今日の調整は悪くなかった。だが、油断するな」
「していない」
「ならいい」
セレスはリアナたちへ向く。
「君たちも、見たものを軽く扱うな。今のは遊びではない。互いの状態確認だ」
リアナが姿勢を正す。
「はい」
ヴァルターも頷く。
「勉強になりました」
ミナは少し緊張しながら言う。
「すごすぎて、半分くらい分からなかったです」
「それでいい。分からないものを、分からないまま覚えておけ。後で意味が分かることもある」
「はい」
セレスはそのまま演習場を出ていった。
ロイも《黒鳴》を軽く確認し、出口へ向かう。
リアナが声をかけた。
「ロイ」
「何だ」
「明日も、手袋を焦がさないで」
ロイは右手を見る。
「気をつける」
「約束?」
「ああ」
リアナは小さく頷いた。
「なら、いいわ」
ミナがまたにやにやしている。
ヴァルターはやはり分かっていない。
夜の第二演習場に、薄い霜と焦げた雷の匂いが残っていた。
明日、学内序列戦はさらに進む。
だが、その前に。
ロイ・オルディスもまた、変わらず訓練を続けている。
その事実は、三人の胸に静かに残った。




