第36話 禍等級
午後。
王立学院の大講堂には、序列戦参加者だけでなく、実技上位者、各学年代表、教師陣、管理局職員まで集められていた。
壇上には学院長。
その横に、セレス・アーヴェイン。
少し離れて、エルナ教官と属性魔力論の教師。
さらに、総合序列上位者たちも前列に座っている。
ユリウス。
フィオナ。
ダリウス。
シオン。
カイル。
講堂の空気は重かった。
これから話されるのは、ただの授業ではない。
中央広場で見た黒い根。
《翠門》深部にいた本体核。
外域という言葉。
境界名簿という制度。
それらを、ようやく学院側へ説明するための場だった。
学院長が口を開いた。
「諸君。今日の説明は、興味を満たすためのものではない。君たちが今後、王国軍、騎士団、魔術院、冒険者組合、あるいは境界軍に関わる可能性を持つ者として、最低限知っておくべき内容だ」
講堂が静まる。
「以後の説明は、境界軍第三外郭隊、セレス・アーヴェイン隊長に任せる」
セレスが一歩前に出た。
灰色の軍装。
腰には蒼い長剣。
その姿だけで、講堂の空気が引き締まる。
「まず、君たちが普段使っている評価から話す」
セレスは魔導板へ文字を映した。
E、D、C、B、A、S。
「これは主にダンジョン内の危険度、攻略難度、推奨戦力を示すための評価だ。王立学院で扱う管理迷宮も、この基準に近い」
生徒たちは見慣れた文字に少しだけ息を緩める。
だが、セレスの次の言葉で、その空気はすぐに消えた。
「だが、外域はこの物差しでは測れない」
魔導板の文字が切り替わる。
禍等級。
その下に、段階が並ぶ。
小禍。
中禍。
大禍。
災禍。
国禍。
滅禍。
ミナが小さく息を呑んだ。
「禍……」
セレスは続ける。
「外域で用いる評価は、魔獣単体の強さだけでは決まらない。出現環境、拡散性、再生性、周辺被害、部隊への影響、封鎖難度、撤退不能化の危険。それらを含めて判断する」
ガレスが前列近くで眉を寄せた。
セレスはそれを見たわけではないだろうが、続けた。
「ダンジョンならA級相当の魔獣が、外域では小禍にも届かないことがある。逆に、単体戦闘力だけならB級程度でも、環境次第で中禍に近い扱いを受けるものもいる」
ざわめきが起きる。
ユリウスが静かに手を挙げた。
「質問をよろしいでしょうか」
「許可する」
「つまり、ダンジョン評価は敵の強さを中心に見ているが、禍等級は現場全体の危険を見ている、という理解でよろしいですか」
「概ね正しい」
セレスは頷いた。
「ダンジョンは攻略対象だ。外域は防衛対象だ。そこが違う」
その言葉は、講堂に重く落ちた。
攻略対象。
防衛対象。
似ているようで、まるで違う。
◇
魔導板に、《翠門》の図面が映された。
北東封鎖区画。
中央広場。
東棟。
深部広間。
生徒たちの表情が変わる。
自分たちが実際に見た場所だ。
セレスが言う。
「今回の《翠門》異常について、暫定評価を伝える」
講堂が静まり返った。
「まず、第一層に出現した黒い根。あれは完全な外域魔獣ではない。外域反応を帯びた迷宮内発生個体、あるいは外域反応の枝と見るのが近い」
ミナがロイを見る。
ロイは黙って聞いている。
「ダンジョン基準で無理に換算すれば、部分的にはA級以上。特に再生性、拡散性、封鎖対象としての厄介さは高い」
セレスはそこで一度区切った。
「だが、禍等級としては小禍未満だ」
講堂がざわめいた。
「小禍未満……?」
「あれで?」
「中央広場を覆ったのに……?」
ミナの顔も青くなる。
「あれで、小禍未満……」
ガレスは拳を握っていた。
自分が炎を叩きつけても、増えかけた根。
ロイとセレスが出てようやく封じた異常。
それが、小禍にも届かない。
認めたくない。
だが、今の彼は否定しなかった。
セレスは続ける。
「理由は単純だ。本体ではないからだ。今回学院内へ出たものは、枝、核片、漏出反応に近い。外域側にある本体や環境全体と接続していたなら、評価は上がった」
魔導板に、新しい比較が出る。
管理迷宮A級相当。
壁内発生異常としては極めて危険。
外域基準では小禍未満。
ただし、学院内発生のため特殊記録。
リアナが静かに呟いた。
「同じ危険でも、場所で意味が変わる……」
ロイが短く答える。
「ああ」
リアナは彼を見る。
「あなたが最初から討伐しなかった理由も、それ?」
「撤退補助が命令だった。それと、あの時点で倒すと散る可能性があった」
「散る……」
「根は本体じゃない。下手に壊すと、別の枝が出る」
リアナは黙った。
あの時、ロイはただ強いから余裕があったのではない。
倒せる相手を、倒さなかった。
理由があった。
任務。
撤退。
拡散防止。
その全てが、今になって繋がっていく。
◇
フィオナが手を挙げた。
「では、中央広場で発生した個体も同じ扱いですか?」
「中央広場のものは、枝としては成長していた。魔力を多く食っていたため、ダンジョン基準ならA級上位からS級下位相当の局所危険と見る者もいる」
講堂がまた揺れる。
「ただし、これも禍等級では小禍未満から小禍下限未満。外域本体ではない」
「小禍に届く条件は?」
今度はカイルが問う。
セレスは答える。
「単独で集落規模に被害を出す。通常部隊での封鎖に危険を伴う。環境汚染が残る。あるいは、討伐後も再発リスクが高い。そのいずれかが明確になれば、小禍指定が検討される」
カイルは頷いた。
「今回のものは、学院内では危険だったが、外域基準では枝だった」
「そうだ」
セレスの声は冷静だった。
「君たちが見たのは、外域の端だ。外域そのものではない」
その一言に、多くの生徒が黙った。
端。
あれで、端。
黒い根が広場を覆い、東棟を狙い、《黒雷》と《蒼刃》が出る必要があった。
それでも、外域の全体ではない。
◇
ダリウスが低い声で問う。
「外域では、A級相当の力があっても足りないのか」
「足りない場合が多い」
セレスは即答した。
「なぜなら、外域では敵だけを見ていればいいわけではない。足場が沈む。音が遅れる。魔力が逆流する。治癒が効きにくい。火を使えば毒を撒く。水を使えば寄ってくる。雷を散らせば巣全体が目覚める」
生徒たちの顔が強張る。
「だから、外域では倒せる者より、崩れない者が重視される。撤退判断、封鎖、継戦、味方の保持。それらを含めて初めて戦力になる」
ロイの言葉が、何人もの頭に蘇る。
役割がある場所にいれば戦力。
命令が撤退補助だった。
倒せるが、倒さなかった。
それは、学院生が思う強さとは別のものだった。
ガレスが手を挙げた。
講堂が少しざわつく。
以前の彼なら、挑むような質問をしたかもしれない。
だが、今の声は違った。
「質問です」
「許可する」
「炎属性は、外域では不利なのですか」
セレスは少しだけ目を細めた。
「不利な場所もある。有利な場所もある」
ガレスは黙って聞く。
「火でしか焼けないものもいる。火を嫌うものもいる。逆に、火で増えるものもいる。つまり、属性が悪いのではない。判断が悪ければ死ぬ」
ガレスは深く息を吸った。
「分かりました」
「君は最近、火を置く練習をしているな」
講堂の何人かがガレスを見る。
セレスは続ける。
「悪くない。外域では、燃やす炎より、進路を制限する火が役立つ場面も多い」
ガレスの目がわずかに見開かれる。
「ありがとうございます」
彼は頭を下げた。
以前なら考えられない光景だった。
◇
続いて、属性魔力論の教師が補足に立った。
「ダンジョン等級と禍等級の差は、単純な上下ではありません。A級だから小禍、S級だから中禍、という換算はできない」
魔導板に、二つの円が描かれる。
片方はダンジョン評価。
攻略難度。
推奨人数。
魔獣戦闘力。
階層環境。
記録再現性。
もう片方は禍等級。
拡散性。
環境汚染。
部隊損耗率。
封鎖難度。
再発性。
民間被害予測。
「今回の《翠門》異常をダンジョン評価で見るなら、局所的にはA級からS級下位に触れる場面があった。ですが、禍等級では小禍未満。これは矛盾ではありません。見ているものが違うのです」
ミナが小声で言う。
「物差しが違うって、こういうことか……」
リアナが頷く。
「ええ。強さだけではないのね」
「うん」
ミナは少し顔を曇らせた。
「私たち、あれを見て外を分かった気になってたかも」
ロイが言った。
「入口は見た」
「入口……」
「知ったならいい」
ミナはロイを見る。
「知らないより?」
「ああ」
「そっか」
彼女は少しだけ笑った。
「じゃあ、怖いけど、知れてよかったのかな」
「たぶん」
「そこは断言してよ」
◇
講義の終盤。
セレスは最後に、境界名簿について触れた。
「境界名簿は、強い者を並べただけの表ではない。対応できる禍等級、任務達成率、被害抑制、撤退判断、継戦能力、部隊との相性。それらを総合して名が載る」
生徒たちは、ロイを見る。
今度はただの好奇心ではない。
彼がなぜ名簿に載るのか。
少しだけ分かったからだ。
黒雷の火力だけではない。
倒せるのに倒さない判断。
必要な場所だけ焼く制御。
味方を巻き込まない精度。
撤退補助を優先する姿勢。
それらが、名簿持ちとしての強さなのだ。
セレスは言った。
「君たちが境界名簿に憧れるのは自由だ。だが、名簿の名は栄誉だけではない。記録であり、責任であり、時に命令権の根拠になる」
蒼い目が、講堂を見渡す。
「《黒雷》の名が中央広場で必要だったのは、生徒を動かし、教師を動かし、境界軍が彼へ主制圧を委任する理由を示すためだ」
ロイは黙っている。
名に興味はない。
だが、あの時、名が人を動かしたことは事実だった。
「強さには意味がある。名にも意味がある。それを忘れるな」
◇
説明が終わった後、講堂はすぐには騒がしくならなかった。
多くの生徒が、考え込んでいた。
ユリウスがロイの近くへ来る。
「今日の説明で、少し分かった気がする」
「何が」
「君がなぜ、あれほど淡々としているのか」
「そうか」
「外では、感情より判断が先に来るんだな」
「感情があってもいい。先に出すと死ぬ」
ユリウスは静かに頷いた。
「覚えておく」
フィオナはミナに声をかけていた。
「支援役は、禍等級の考え方と相性がいいわ。敵を倒すだけではなく、味方を残す役だから」
ミナは真剣に頷く。
「はい。もっと練習します」
ダリウスはヴァルターに短く言った。
「土は封鎖に向く。攻撃だけ見るな」
「はい」
シオンはリアナへ言う。
「指揮役は、退く判断を嫌われても出せるように」
「……はい」
学内序列上位者たちは、それぞれに下級生へ言葉を渡していた。
上にいる者が、下へ伝える。
それは、学院らしい光景だった。
◇
講堂を出る頃、ガレスがロイに近づいた。
「ロイ」
「何だ」
「俺は、外を知らなかった」
「ああ」
「知った気になっていた」
「今知った」
ガレスは苦笑した。
「またそれか」
「事実だ」
「そうだな」
ガレスは拳を握る。
「小禍未満であれなら、今の俺が外で通用しないのは分かった」
「そうか」
「だが、諦める理由にはならない」
「ならない」
ロイは即答した。
ガレスは少しだけ目を見開き、それから笑った。
「そこは否定しないんだな」
「諦めるかどうかは、お前が決めることだ」
「なら、諦めない」
「ああ」
短い会話だった。
だが、ガレスにとっては十分だった。
◇
夕方。
第二演習場には、また魔導灯が並んでいた。
並列行使の練習。
炎を置く練習。
土を深く沈める練習。
水糸で味方を引く練習。
風で撤退路を作る練習。
以前より、訓練の内容が変わっている。
敵を倒すためだけではない。
味方を残すため。
封鎖するため。
退くため。
ミナが水糸を二本伸ばしながら言う。
「今日の話、怖かったけど……やることは見えた気がする」
リアナも頷く。
「ええ。私たちは、まず学院でできることを増やすしかない」
ヴァルターは地面へ手を置いていた。
「表面だけではなく、下を見る……」
ガレスも少し離れた場所で、低い炎を足元へ置いている。
カイルは四年生たちと撤退誘導の訓練を組み直していた。
ユリウスやフィオナたちも、短時間だけだが指導に加わっている。
学院全体が、少しずつ変わっていた。
ロイは演習場の入口でそれを見ていた。
セレスが横に立つ。
「今日の説明で、折れた者もいるだろう」
「ああ」
「だが、立った者もいる」
「いるな」
セレスは少しだけ目を細めた。
「学院としては、それでいい」
ロイは演習場の灯りを見る。
小さく、不安定な光。
けれど、昨日より少しだけ増えている。
そして、その灯りの向こう。
《翠門》の方角には、まだ完全には消えない赤黒い気配が残っていた。
外域の端。
小禍未満。
それだけで、学院は大きく揺れた。
なら、本当の外はどれほどなのか。
生徒たちはまだ知らない。
だが、知らないままではなくなった。
それが、最初の一歩だった。




