第34話 風と炎
翌朝。
第一闘技場は、昨日以上に人が集まっていた。
本選第二日。
注目試合は一つ。
四年総合序列第五位、カイル・レインフォード。
三年序列二十一位、ガレス・ロウガン。
学年も、序列も、経験も違う。
普通に考えれば、カイルが有利。
だが、今のガレスは以前とは違う。
炎を大きくするのではなく、必要な場所へ置くことを覚え始めている。
だからこそ、生徒たちは見たかった。
今のガレスが、どこまで四年上位に迫れるのか。
◇
観覧席の一角で、ミナが身を乗り出していた。
「ガレス先輩、勝てるかな」
ヴァルターが腕を組む。
「難しい。だが、以前よりはずっといい試合になるはずだ」
リアナも頷く。
「カイル先輩は風の扱いが上手いわ。炎を広げすぎれば、逆に流される」
「じゃあガレス先輩、炎を抑えないとだね」
「ええ」
ロイは闘技場を見ていた。
カイルはすでに入場している。
剣を下げ、自然体で立っている。
一方、ガレスは硬い顔で闘技場へ上がった。
炎剣はまだ抜いていない。
以前なら、入場の時点で炎をまとわせていたかもしれない。
今は違う。
使う時まで、燃やさない。
それだけでも、変化だった。
境界軍の兵士が観覧席下から声をかける。
「ガレス」
ガレスが振り返る。
「はい」
「燃やすな」
「分かっています」
「怒るな」
「……分かっています」
「なら行け」
ガレスは深く息を吐いた。
「行ってきます」
その返事に、周囲の三年生たちが少し驚く。
ガレスが、境界軍の兵士に素直に返事をした。
それだけで、彼がどれだけ変わったか分かる。
◇
闘技場中央。
カイルは穏やかに言った。
「よろしく、ガレス」
「よろしくお願いします」
「硬いな」
「相手が相手なので」
「それは光栄だ」
カイルは剣を抜いた。
薄い風が、刃の周囲を流れる。
ガレスも炎剣を抜く。
炎は小さい。
赤い線が、刃の表面に沿っているだけ。
観覧席の一部がざわつく。
「炎、小さくないか?」
「前みたいに燃やさないんだ」
「本当に変えたんだな」
ガレスはその声を聞いていない。
目の前のカイルだけを見ている。
勝てるとは思っていない。
だが、勝つ気で行く。
届かないと分かっていても、最初から退くつもりはなかった。
エルナ教官が手を上げる。
「始め!」
鐘が鳴った。
◇
先に動いたのはガレスだった。
ただし、突進ではない。
低い炎を床へ置く。
直線ではなく、曲線。
カイルの足元へ向かうのではなく、進路を二つに分けるように。
カイルはその炎を見て、わずかに笑った。
「いい置き方だ」
風で消すことはできる。
だが、消せばその瞬間、風の流れが読まれる。
カイルはあえて消さず、炎の切れ目へ足を運んだ。
その瞬間。
ガレスが踏み込む。
炎で進路を作り、相手を誘導し、そこへ剣を合わせる。
以前のような力任せの剣ではない。
狙っていた。
カイルは剣で受ける。
風が散る。
ガレスは押さない。
剣を引き、炎を横へ置く。
カイルの後退方向を塞ぐ。
さらに、低い炎を足元へ二本。
逃げ道を絞る。
観覧席でヴァルターが呟いた。
「上手い」
ロイも頷く。
「前よりかなりいい」
ミナが小さく笑う。
「ロイ、最近ちゃんと褒めるよね」
「良ければ言う」
「うん。いいと思う」
◇
ガレスの炎は、カイルの足を止めた。
ほんの一瞬。
だが、四年総合序列第五位には、その一瞬で十分だった。
カイルの足元に風が生まれる。
前ではない。
上。
身体を軽く浮かせ、炎の線を越えた。
そのまま空中で剣を返す。
風をまとった斬撃が、ガレスの肩口へ落ちる。
ガレスは受ける。
炎剣で正面から。
だが、風の斬撃は重くない。
当たった瞬間に横へ流れ、ガレスの防御を滑る。
剣の角度がずれた。
カイルの二撃目が迫る。
ガレスは炎を広げかけた。
反射的に。
だが、歯を食いしばって抑える。
広げるな。
燃やすな。
目的で置け。
彼は自分の足元へ炎を置いた。
爆発させるのではない。
床を熱で弾く。
身体を横へ逃がす。
カイルの二撃目が制服の袖をかすめた。
ガレスは体勢を崩しながらも、倒れない。
「今の判断はいい」
カイルが言う。
「余裕ですね」
「余裕はないさ」
「嘘だ」
「少しはある」
ガレスは舌打ちした。
だが、その目は死んでいない。
◇
試合は、予想より長く続いた。
ガレスは何度も崩された。
カイルの風は、炎の隙間を抜ける。
炎を置いても、風で流される。
剣を振っても、角度をずらされる。
それでも、ガレスは炎を暴走させなかった。
怒りで燃やさない。
焦りで広げない。
目的を失わない。
それだけで、以前とはまったく違う。
カイルが距離を取る。
「ガレス」
「何ですか」
「そろそろ決めに行く」
「親切ですね」
「君なら受けるだろう?」
「当然」
カイルの周囲で風がまとまる。
昨日、ロイに使ったものよりは出力を抑えている。
だが、十分に鋭い。
一本の風。
剣に沿う、緑がかった刃。
「風牙一閃」
カイルが踏み込む。
正面。
速い。
ガレスは逃げなかった。
炎剣を構える。
ただし、受けるためではない。
足元へ炎を置く。
左右へ二本。
さらに、剣の腹へ薄い炎を重ねる。
風牙が来る。
ガレスは剣をぶつけた。
炎と風が噛み合う。
押し負ける。
その瞬間、ガレスは足元の炎を爆ぜさせた。
大きくではない。
一瞬だけ。
身体を斜めへずらすために。
風牙の中心を外す。
剣は弾かれる。
だが、直撃ではない。
ガレスは肩から床へ転がった。
すぐに立ち上がろうとする。
カイルはすでに前にいた。
剣先が、ガレスの喉元で止まる。
鐘が鳴る。
勝者、カイル・レインフォード。
◇
ガレスは膝をついたまま、荒く息を吐いた。
負けた。
当然の結果だ。
それでも、観覧席から拍手が起きた。
昨日よりも大きい。
同情ではない。
今の試合を見た者なら分かる。
ガレスは、変わった。
炎で押し切るだけの前衛ではなくなりつつある。
カイルは剣を下ろした。
「最後、中心を外したな」
「外しきれませんでした」
「だが、直撃は避けた」
「負けは負けです」
「それでも、いい試合だった」
ガレスは顔をしかめた。
「褒められるのは慣れません」
「慣れた方がいい。君は伸びている」
カイルは手を差し出した。
ガレスは一瞬迷い、その手を取って立ち上がる。
観覧席の拍手がさらに強くなった。
ガレスは居心地悪そうに顔を背ける。
だが、その口元はわずかに緩んでいた。
◇
闘技場を降りたガレスの前に、境界軍の兵士が立っていた。
「負けたな」
「はい」
「だが、燃やさなかった」
「……はい」
「次は、炎を置く前に足を作れ。火で逃げる癖が残っている」
「分かりました」
兵士は少しだけ頷いた。
「悪くなかった」
ガレスの目がわずかに開く。
「ありがとうございます」
その一言を、近くの三年生たちは聞いていた。
ガレスが頭を下げる。
境界軍の兵士が、短く評価する。
その光景は、三年生たちにとって大きかった。
強い者が、さらに強い者から学ぶ。
それは恥ではない。
むしろ、進むために必要なことだった。
◇
昼前。
カイルは次の試合に備えて休憩に入った。
その横へ、ロイが来る。
「良かった」
カイルが笑う。
「僕か? ガレスか?」
「両方」
「それは珍しく豪華な評価だ」
「風牙は昨日より絞れていた」
「君に割られたからな。中心を作りすぎるなと言われただろう」
「使ったのか」
「すぐには直らないが、意識はした」
カイルは闘技場を見る。
「ガレスも良かった。彼はまだ荒いが、火を置く感覚を掴み始めている」
「ああ」
「君と戦った者は、何かしら変わるな」
「俺のせいか」
「いい意味でだ」
カイルは水を飲み、少し声を落とした。
「午後、僕は君ともう一度やるらしい」
「そう聞いた」
「条件は?」
「黒雷一系統。抜刀あり。広域技なし」
「昨日と同じか」
「少し変えるかもしれない」
「怖いな」
そう言いながら、カイルは楽しそうだった。
◇
昼休憩。
第一班は中庭へ移動した。
ミナは朝からずっと上機嫌だった。
「ガレス先輩、負けたけどかっこよかったね」
ヴァルターが頷く。
「ああ。認めざるを得ない」
「ヴァルターが素直!」
「僕はいつも正当に評価している」
「その台詞、最近よく聞く」
リアナは手元の飲み物を持ちながら、ロイの右手を見た。
「手袋、傷んでいない?」
ロイは右手を見る。
「少し焦げた」
リアナの目が細くなる。
「黒雷は流さないと言っていたわ」
「黒雷は流していない」
「では、なぜ焦げたの?」
「雷属性の魔力は流した」
「……次からはそれも含めて注意するわ」
ロイは少し考えた。
「悪かった」
リアナは一瞬だけ驚く。
それから、柔らかく息を吐いた。
「謝るほどではないわ。予備の留め具もあるし」
「使うか」
「ええ。今、直す」
リアナは布袋を取り出し、ロイの手袋の留め具を確認する。
指先が触れる。
昨日より、少し自然だった。
ミナは黙ってそれを見ている。
にやにやしている。
ヴァルターはパンを食べながら首を傾げた。
「なぜ笑っている」
「ヴァルターは分からなくていいよ」
「またそれか」
リアナは聞こえないふりをして、留め具を締め直した。
「これで大丈夫」
「助かる」
「次は焦がさないで」
「努力する」
「約束」
ロイはリアナを見る。
「分かった。約束する」
リアナの手が一瞬止まった。
ミナが口元を押さえる。
リアナは何事もなかったように手を離したが、耳の先が赤い。
「……なら、いいわ」
◇
午後。
特別評価戦。
カイル・レインフォード対ロイ・オルディス。
観覧席の空気は、朝とは違う緊張に包まれていた。
昨日の試合では、カイルは黒雷一系統まで許可されたロイと戦い、敗れた。
だが、今日のカイルは、ガレス戦を挟んでさらに調整している。
ロイもまた、昨日と同じではない。
闘技場中央で、二人が向かい合う。
エルナ教官が条件を読み上げる。
「ロイ・オルディスは黒雷一系統まで許可。広域技禁止。天穿・抜雷禁止。カイル・レインフォードは通常制限なし」
カイルが苦笑する。
「僕だけ制限なしと言われても、差が大きいな」
「そのための評価戦だ」
ロイが答える。
「そうだな」
カイルは剣を構えた。
「今日は、昨日より一歩だけ詰める」
「分かった」
ロイの指先に、黒い火花が灯る。
小さい。
だが、闘技場の空気が沈む。
黒雷一系統。
それだけで、場の意味が変わる。
開始の鐘が鳴った。
◇
カイルは最初から仕掛けた。
風を三つ。
足元、剣、背後。
昨日と同じ三重制御。
だが、切り替えが速い。
足元の風で踏み込み、剣の風で斬撃を伸ばし、背後の風で反動を殺す。
ロイの黒雷が床を走る。
カイルは避ける。
昨日より早い。
黒雷の予兆に反応するのではなく、ロイの鞘の角度と指先の動きから読む。
黒雷が空を切る。
観覧席が沸く。
ロイは一歩踏み込む。
カイルは下がらない。
風の刃を二つに分ける。
一つは見せる刃。
もう一つは、ロイの足元へ流す圧。
並列行使の応用。
ロイの足が一瞬止まった。
カイルの剣が迫る。
ロイは刀で受ける。
黒雷が刀身へ移る。
カイルは即座に剣を離すように引き、風で軌道を変えた。
黒雷に触れない。
昨日の失敗を、すぐに修正している。
ロイが言う。
「速くなった」
「昨日の今日だからな」
「いい」
カイルは笑う余裕なく、さらに踏み込む。
◇
試合は短く、濃かった。
カイルは昨日より確かに近づいている。
ロイの黒雷一系統に対して、読みと風の切り替えで対応している。
だが、ロイはさらに一段、細かい。
黒雷を攻撃に使わない。
相手の風を切る。
足元の圧を乱す。
剣の角度を半寸ずらす。
それだけで、カイルの組み立てが崩れる。
カイルが大きく踏み込んだ。
風牙一閃ではない。
もっと細い。
剣筋を隠すための無音の風。
ロイの目が細くなる。
「それはいい」
カイルの剣が、ロイの左肩へ届きかけた。
だが、届く直前。
黒雷が消えた。
床にも、刀身にも、指先にもない。
カイルは一瞬だけ見失う。
次の瞬間、黒雷は鞘の縁にいた。
ロイの左手が鞘を押す。
抜雷ではない。
ただ、鞘の角度を変えるだけ。
黒い火花がカイルの剣の腹を叩いた。
剣筋が一寸ずれる。
ロイの刀の峰が、カイルの胸元で止まった。
鐘。
勝者、ロイ・オルディス。
カイルはその場で息を吐いた。
「一歩詰めたつもりだったが」
「詰めていた」
「でも届かない」
「ああ」
「分かっているさ」
カイルは笑った。
「だが、昨日より見えた。黒雷がどこに置かれるか。君がどこで相手を崩すか」
「なら次はもっと良くなる」
「君は本当にそればかりだな」
「他にない」
カイルは剣を下ろした。
「その通りだ」
◇
観覧席の拍手は大きかった。
カイルは負けた。
だが、確かに一歩詰めた。
それを多くの生徒が見た。
強者との差は、一日で埋まらない。
だが、一日で変わることはできる。
それを、カイルが示した。
ガレスも観覧席で黙って見ていた。
拳を握っている。
悔しい。
だが、前とは違う。
その悔しさは、誰かを否定するためではなく、自分を進めるために燃えていた。
◇
夕方。
本選二日目が終了した。
学院長から、翌日の予定が告げられる。
午前は本選準決勝。
午後は、境界軍と学院による合同説明。
内容は、外域、禍等級、ダンジョン等級との差について。
その発表に、生徒たちは静かにざわついた。
ついに、説明される。
自分たちが見た黒い根が何だったのか。
外域とは何なのか。
ダンジョンで強いことと、外で生き残ることがどう違うのか。
セレスが壇上に立つ。
「明日の説明は、興味本位で聞くものではない」
講堂の空気が締まる。
「知った上で、どう進むかを考えろ」
ロイは観覧席の端から、それを聞いていた。
外域。
禍等級。
境界名簿。
学院の生徒たちは、ようやくその入口に立つ。
その先にあるものを、まだ彼らは知らない。
だが、知る準備は少しずつできていた。
夜の学院に、訓練用の魔導灯がまた一つ灯った。




