第24話 再開前夜
《翠門》深部調査から二日が経った。
学院側への異常侵食は止まっている。
中央広場も、東棟も、第一闘技場も、封鎖は段階的に解除された。
ただし、《翠門》北区画だけは今も閉ざされている。
そこに残る本体は、まだ完全には消えていない。
だが、学院は止まっていられなかった。
学内序列戦、再開。
掲示板にその通達が貼り出された時、生徒たちの反応は以前とは違っていた。
ただの歓声ではない。
ただの不満でもない。
黒雷を見た。
境界軍を見た。
《翠門》の深部から帰ってきた者たちを見た。
それでも、序列戦は戻ってくる。
自分たちがどこに立っているのか。
それを測る場として。
◇
第二演習場では、朝から自主訓練が続いていた。
ヴァルターは土壁を並べている。
以前のように厚く固める壁ではない。
薄く、角度をつけ、相手の進路を変える壁。
一枚で止めるのではなく、三枚、四枚で流れを削る。
「そこ、もう少し低い」
ロイが言う。
ヴァルターは眉を寄せる。
「低くすれば飛び越えられる」
「飛ばせればいい。着地を狙える」
「……なるほど」
ヴァルターは土壁を低く作り直した。
模擬魔獣が跳ぶ。
着地地点に、次の壁。
体勢が崩れる。
ヴァルターはそこへ槍の石突きを入れ、動きを止めた。
「今のは?」
「前よりいい」
「そうか」
短い返事。
だが、ヴァルターの口元にはわずかに笑みがあった。
ミナは少し離れた場所で、水糸を複数に分けていた。
「三本、四本、五本……うわ、これ難しい!」
リアナが横から助言する。
「全部を同じ強さで扱おうとしない方がいいわ。主糸と補助糸に分けて」
「なるほど……ロイの並列制御って、こういうことをもっと変な数でやってるんだよね?」
「変な数どころではないと思うけれど」
ミナは遠い目をした。
「参考にはなるけど、真似はできないやつだ」
ロイは聞こえていたが、何も言わなかった。
真似をする必要はない。
それぞれに合った形で使えばいい。
◇
演習場の端では、ガレス・ロウガンが境界軍の兵士と向き合っていた。
炎剣は抜いていない。
ただの木剣。
だが、息は荒い。
何度も転がされている。
「立て」
兵士が言う。
「はい!」
ガレスは歯を食いしばり、立ち上がった。
「炎を使わないと、何も残らないか?」
「残します」
「なら見せろ」
ガレスは踏み込む。
木剣を振る。
兵士は半歩でかわし、肩を押した。
それだけでガレスの体勢が崩れる。
だが、今度は倒れなかった。
足を滑らせながらも、左手で地面を叩き、膝で踏ん張る。
兵士の眉が少し動いた。
「今のは悪くない」
「……ありがとうございます」
「だが、遅い」
「もう一度お願いします」
「いいだろう」
周囲で見ていた三年生たちは、黙っていた。
以前なら、ガレスがここまで転がされれば空気は荒れたかもしれない。
今は違う。
誰も笑わない。
強くなるために必要なら、頭を下げる。
それをガレスが見せたことで、三年生たちも変わり始めていた。
◇
昼前、セレスが第二演習場に現れた。
灰色の軍装。
腰の蒼い長剣。
彼女が入ってくるだけで、訓練の音が少しだけ静まった。
セレスは周囲を一瞥し、短く言う。
「続けろ」
その一言で、生徒たちは慌てて訓練へ戻った。
ロイが近づく。
「何かあったか」
「序列戦再開時の警戒配置が決まった」
「そうか」
「君は参加者扱いのままだ。ただし、異常時は私の指揮下で動く」
「分かった」
セレスは少し間を置き、続けた。
「それと、深部の核解析が進んだ」
「何が分かった」
「あれは本体ではない。だが、本体への道標になる」
「つまり」
「序列戦再開後、もう一度《翠門》へ入る」
「いつ」
「班単位試験が終わった後だ」
ロイは眉を動かした。
「序列戦を挟むのか」
「挟む。学院を完全に止めるわけにはいかない。それに、今の生徒たちには必要だ」
セレスは演習場を見る。
ヴァルターが壁を作り、ミナが水糸を操り、リアナが班の動きを整えている。
ガレスも、木剣を握って立ち上がっている。
「恐怖だけで終わらせると、折れる者が増える。だが、目標として再構成できれば、伸びる者が出る」
「境界軍らしくない考えだな」
「私も学院出身に近い教育を受けている」
「そうだったな」
セレスはロイを見る。
「それに、君の正体が明かされた今、序列戦の意味も変わる。彼らは自分たちと君の差を知る必要がある」
「折れないか」
「折れる者もいる」
セレスは淡々と言った。
「だが、折れずに前を見る者もいる。そちらを拾うのが学院の仕事だ」
ロイは少し黙る。
「セレス」
「何だ」
「お前も、見せた方がいい」
「何を」
「序列者の力」
セレスの目が少し細くなった。
「君が言うのか」
「俺だけだと、黒雷だけが目立つ」
「それは事実だな」
「境界名簿は俺だけじゃない」
セレスはしばらく黙った。
それから、微かに笑った。
「必要になれば見せる」
「大きくか」
「君ほど施設を壊すつもりはない」
「俺も壊すつもりはない」
「結果を見ろ」
ロイは答えなかった。
◇
午後、班単位試験の説明が講堂で行われた。
全学年の代表班が集められている。
壇上にはエルナ教官とカイル。
そして、セレス。
生徒たちの緊張は強い。
ロイが《黒雷》だと明かされてから、初めての公式説明だった。
エルナ教官が話す。
「班単位試験は、予定通り救助・制圧・撤退判断を含む形式で行う。ただし、異常発生時は即時中止。境界軍の指示に従え」
続いて、カイルが前へ出る。
「上級生は下級生の誘導補助も評価対象に入る。勝つことだけ考えるな。自分の班だけ助かっても評価にはならない」
その言葉に、何人かの上級生が頷いた。
以前なら、序列戦で他班の退避まで考える者は少なかったかもしれない。
だが今は違う。
中央広場の事件を経験したことで、退避命令の重みを誰もが知っていた。
最後に、セレスが口を開く。
「境界軍から一つだけ言う」
講堂が静まる。
「強さとは、敵を倒す力だけではない。必要な場所に立ち、必要な時に動き、必要なら退く力だ」
蒼い目が、生徒たちを見渡す。
「憧れるのは自由だ。妬むのも勝手だ。だが、現場で感情を優先する者は、味方を殺す」
誰も言い返せなかった。
「序列戦でそれを学べ。学べない者は、外へ出る資格はない」
短い言葉。
それだけで、講堂の空気は締まった。
◇
説明後、廊下でガレスがロイを待っていた。
以前のように睨みつけるだけではない。
だが、穏やかでもない。
「ロイ」
「何だ」
「お前が《黒雷》だと知っても、俺はまだ納得していない」
「そうか」
「だが、否定はしない」
ガレスは拳を握る。
「俺はお前に勝てない。今はな」
「今は?」
「いつかだ」
ロイは少し考えた。
「なら鍛えればいい」
「簡単に言うな」
「他にない」
ガレスは歯を見せるように笑った。
「本当に腹が立つな、お前は」
「よく言われる」
「だろうな」
少し離れた場所で、ヴァルターがそのやり取りを見ていた。
彼は小さく息を吐く。
「僕も負けていられないな」
リアナが隣で頷く。
「ええ」
ミナは苦笑する。
「みんな急に熱血になってない?」
「悪いことではない」
リアナはそう言った。
◇
夜。
ロイは寮の屋上にいた。
中央広場も東棟も、静かだった。
《翠門》の方角には、まだわずかな赤黒い気配がある。
だが、今夜は動かない。
隣に、セレスが立つ。
「明日、班単位試験だ」
「ああ」
「君はどこまで見せる」
「必要な分だけ」
「それでは答えになっていない」
「なら、壊さない範囲」
「余計に不安だ」
セレスは夜風に青い髪を揺らした。
「生徒たちは、君を見て変わり始めた。だが、まだ危うい。憧れは力になるが、距離を見誤れば毒になる」
「分かっている」
「本当か」
「たぶん」
「そこは断言しろ」
ロイは黙った。
セレスは小さく息を吐く。
「明日、もし異常が出れば、私も前に出る」
「大きくか」
「必要なら」
「見てみたいな」
セレスはロイを横目で見る。
「君にそう言われると、妙な気分だ」
「そうか」
「《蒼刃》の名も、飾りではない」
「知っている」
セレスは少しだけ口元を緩めた。
「なら、いずれ見せる」
遠くで鐘が鳴った。
序列戦再開前夜。
学院は静かに眠っている。
だが、その静けさの下には、熱がある。
黒雷を見た者たちの熱。
折れずに立とうとする者たちの熱。
そして、まだ《翠門》の奥で息を潜めるものの気配。
ロイは空を見上げた。
雲の向こうで、遠い雷が一度だけ光った。
明日、序列戦は再び動き出す。




