第23話 雷域の底
黒雷領域。
その名が落ちた瞬間、広間の空気は別物になった。
床を這う黒雷の輪が、脈打つ根を縫い止めている。
雷は味方を焼かない。
セレスの足元も、カイルの足元も、境界軍の兵士たちの足元も、ただ淡く黒い火花を散らすだけだった。
だが、敵の根がその領域に触れた瞬間。
黒雷は牙を剥く。
根の内部へ潜り、魔力の流れだけを焼き、動きを鈍らせる。
攻撃ではない。
この場の支配。
この広間で、何を通し、何を止め、何を殺すか。
それを決める権限を、ロイが握っていた。
「動け!」
セレスの声が響く。
境界軍の兵士たちが一斉に走った。
杭が放たれる。
封印符が張られる。
短剣が根の関節を裂く。
根は反撃しようとするが、そのたびに足元の黒雷が走り、動きを一瞬だけ奪う。
その一瞬で、兵士たちは距離を詰める。
名簿持ちではない。
だが、彼らは学院の上位生とは比べ物にならない速度で、危険な場所へ入っていった。
カイルも遅れない。
風を薄く足元に敷き、負傷しそうな術師の退路を確保する。
前に出すぎない。
だが、下がりすぎない。
自分の役割を守っている。
ロイはそれを見て、短く言った。
「悪くない」
カイルは苦笑する余裕もなかった。
「光栄だな」
次の瞬間、繭から伸びた黒い腕が、広間の床を叩いた。
衝撃で石が跳ねる。
黒雷領域が一瞬揺らいだ。
ただの根ではない。
中にいるものが、こちらへ出ようとしている。
セレスが蒼刃を振るう。
青い斬撃が腕の表面を凍らせる。
だが、すぐに内側から赤黒い光が走り、氷が割れた。
「硬いな」
セレスが呟く。
「外殻じゃない。魔力で押している」
ロイは刀を構え直した。
「止める」
「頼む」
セレスが一歩退く。
それは信頼だった。
自分で斬れないから任せるのではない。
今、この瞬間に最も適した手段を、ロイが持っていると判断しただけだ。
ロイは刀を床へ向けた。
黒雷領域の輪が、さらに深く沈む。
広間の床下で、黒い雷が集まり始めた。
一本ではない。
四本。
八本。
十二本。
根の動きに合わせて、雷の位置が変わる。
カイルが目を見開いた。
「また数が……」
十一ではない。
明らかに、それ以上。
だが、数える余裕はなかった。
ロイが低く告げる。
「天穿・雷杭」
床から、黒い雷の杭が立ち上がった。
一本目が、黒い腕を貫く。
遅れて、雷鳴。
轟きが広間の壁を叩き、天井の根を震わせる。
二本目、三本目、四本目。
黒い杭が次々と伸び、腕を床へ縫い止めていく。
雷なのに、まるで鉄杭のようだった。
光なのに、質量があるように見えた。
腕が暴れる。
だが、動かない。
杭に貫かれた場所から黒雷が内側へ潜り込み、赤黒い魔力の流れを断っていく。
遅れて来る衝撃が、広間を何度も揺らした。
術師長が叫ぶ。
「壁面補強、限界近い!」
エルナ教官が結界を重ねる。
「持たせろ! ここで崩れたら学院側へ抜ける!」
セレスが蒼刃を構えた。
「ロイ、中心は」
「まだ奥」
「引きずり出すか」
「ああ」
ロイは刀を逆手に持ち替えた。
黒い腕を縫い止めた雷杭が、さらに強く光る。
いや、黒いまま輝いた。
広間の影が、逆向きに伸びる。
繭の中のものが震えた。
恐怖。
あるいは怒り。
どちらでもいい。
動いたなら、捕まえられる。
ロイは一歩踏み込んだ。
黒雷領域が、その踏み込みに合わせて狭まる。
広間全体へ広げていた雷が、一点へ集まっていく。
床。
壁。
天井。
黒い根。
繭。
そして、中心。
全ての雷が、ロイの刀身へ帰ってくる。
セレスが叫んだ。
「全員、後退! 中心線から離れろ!」
境界軍の兵士たちは即座に動いた。
カイルも術師長の腕を掴み、後方へ飛ぶ。
その一拍後。
ロイの刀身に、黒い雷が凝縮した。
音が消える。
空気が止まる。
雷鳴の前の、世界が息を詰める一瞬。
「天穿・黒穿」
ロイが突いた。
斬撃ではない。
突き。
黒い雷が、刀身の先から一点へ伸びた。
細い。
あまりにも細い。
だが、その線が繭へ触れた瞬間、赤黒い外殻が内側から裂けた。
雷は広がらない。
爆発しない。
ただ、最短距離で中心へ届く。
繭の奥で、何かが叫んだ。
声ではない。
魔力の断末魔。
次の瞬間、遅れて衝撃が来た。
広間の空気が前後に弾ける。
床の砂が一方向へ吹き飛び、壁に張り付いた根がまとめて剥がれた。
カイルは腕で顔を庇いながら、思わず息を呑む。
「……一点突破か」
セレスの蒼刃が閃いた。
黒穿で空いた穴へ、蒼い斬撃が滑り込む。
中から凍る。
繭の脈動が止まった。
「今だ!」
セレスの声に、境界軍の兵士たちが封印杭を打ち込む。
一本、二本、三本。
術師長が封鎖陣を展開する。
赤黒い光が薄れていく。
繭の表面が崩れ始めた。
だが。
中心から、小さな影が抜け出した。
黒い獣の頭。
腕も脚も曖昧な、影だけの魔獣。
大きさは人間の子供ほど。
だが、その密度は繭よりも濃い。
エルナ教官が声を荒げた。
「核が逃げるぞ!」
影は天井へ走った。
速い。
黒雷領域の残りを避けるように、壁から天井へ跳ねる。
セレスが蒼刃を振るうが、届かない。
兵士の杭もかわされる。
カイルが風で進路をずらそうとしたが、影は空気の流れすらすり抜けた。
ロイだけが、動かなかった。
鞘へ刀を戻す。
かちり、と小さな音。
セレスが気づく。
「また抜雷か?」
「違う」
ロイは腰を落とした。
右手は柄。
左手は鞘。
だが、狙いは前方ではない。
上。
天井へ向かう影。
ロイの足元に黒雷が集まる。
鞘ではなく、脚へ。
足首。
膝。
腰。
背骨。
肩。
肘。
手首。
身体そのものを雷で繋ぐ。
ロイの姿が、一瞬ぶれた。
「黒雷纏歩》」
床が弾けた。
ロイが消える。
次に見えた時には、彼は壁を蹴っていた。
黒い雷が足跡のように壁へ残る。
さらに、天井へ。
影が逃げる先に、ロイが先回りしていた。
刀が抜かれる。
派手な雷鳴はない。
ただ、黒い線が影を斬った。
影は二つに割れた。
だが、まだ死なない。
二つに分かれた影が、左右へ逃げようとする。
ロイは空中で鞘を回した。
黒雷が鞘の先から円を描く。
「逃がさない」
円が閉じた瞬間、二つの影が空中で止まった。
黒い輪に捕まっている。
セレスが下から叫ぶ。
「押さえたまま落とせ!」
「ああ」
ロイは天井を蹴り、影ごと落下した。
床へ落ちる直前、黒雷が衝撃を横へ逃がす。
遅れて、広間の床に円形の風圧が広がった。
砂塵が跳ねる。
ロイは片膝をついた姿勢で着地していた。
黒い輪の中に、核の影が閉じ込められている。
セレスが蒼刃を突き立てた。
青い氷が、黒い輪ごと影を封じる。
術師長が封印符を重ねる。
「核封鎖、完了!」
広間に、ようやく静寂が戻った。
◇
カイルは剣を下ろし、長く息を吐いた。
「生きてるな」
エルナ教官が言う。
「全員、生きてる。上出来だ」
境界軍の兵士たちも、わずかに肩の力を抜く。
だが、完全には油断しない。
ロイは封印された核を見下ろしていた。
黒い影は、氷の中でまだ微かに動いている。
「本体ではない」
セレスが隣に立つ。
「やはりか」
「核の一部だ。深部から切り離されている」
「なら、これを解析すれば奥へ届く」
「ああ」
セレスは封印氷を見た。
「今日の目的は達成だ。撤収する」
カイルが驚いたように言う。
「奥へは行かないのか」
「行かない」
セレスは即答した。
「こちらは消耗している。ロイも大技を連続で使った。今進めば、深部側の思う壺だ」
ロイは否定しなかった。
まだ戦える。
だが、学院を背負った作戦で無理に進む理由はない。
任務は、反応源の一部切除と核の確保。
達成している。
なら、戻る。
「撤収だ」
セレスの命令で、一行は動き出した。
封印された核は、境界軍の兵士二人が専用箱へ収める。
術師長は何度も観測石を確認していた。
反応は低下している。
学院側への波も、今は消えていた。
◇
《翠門》を出た時、外は夜だった。
北区画の灯りが眩しく見える。
入口前には、待機班の生徒たちがいた。
リアナ、ミナ、ヴァルター。
そして何人かの上級生。
彼らはロイたちが戻ってきたのを見て、表情を変えた。
カイルは服に砂を被り、肩で息をしている。
エルナ教官も疲労を隠していない。
境界軍の兵士たちでさえ、無傷ではない。
だが、誰も倒れていない。
ミナが駆け寄りかけて、途中で止まった。
役割を守る。
それを思い出したのだろう。
「……おかえり」
ロイは頷いた。
「ああ」
ヴァルターが封印箱を見る。
「それが、原因か」
「一部だ」
セレスが答える。
「完全な本体ではない。だが、学院側への侵食はしばらく止まる」
リアナが安堵したように息を吐く。
「負傷者は?」
「なし」
その答えに、待機班の空気が少しだけ緩んだ。
カイルが笑う。
「君たちの待機も助かった。入口側が乱れなかったから、撤収が早かった」
リアナは姿勢を正す。
「役割でしたから」
「いい返事だ」
ロイはそれを聞き、少しだけ頷いた。
役割を守る者は、戦場で邪魔にならない。
それは確かだった。
◇
その夜。
学院には新たな通達が出された。
《翠門》深部調査により、学院側への異常侵食は一時的に停止。
学内序列戦は、安全確認を挟み、数日後に再開予定。
ただし、境界軍の警戒態勢は継続。
生徒たちは安堵した。
だが同時に、別の話題で持ちきりになった。
《黒雷》が深部で新しい技を使ったらしい。
黒い雷の領域。
床から立ち上がる雷の杭。
一点を貫く黒い突き。
壁と天井を駆ける黒雷の歩法。
見ていない者は、半信半疑だった。
だが、帰還したカイルが言った。
「全部、本当だ」
その一言で、噂は熱を持った。
ロイ・オルディス。
境界名簿第二十七席《黒雷》。
その力は、中央広場で見た一撃だけではない。
まだ、いくつもある。
そう知った生徒たちは、恐れ、憧れ、そして胸の奥を熱くした。
学院の序列戦は、もうただの順位争いではなくなっていた。
黒雷を見た者たちが、自分の位置を知る場所。
そして、それでも前へ進むかどうかを問われる場所へと、変わり始めていた。




