第21話 抜雷
中央広場の空気は、まだ焦げた匂いを残していた。
黒い根は灰のように崩れ、境界軍と管理局の術師たちが封鎖符を重ねていく。
だが、生徒たちの間に落ちた衝撃は、封じられなかった。
境界名簿第二十七席。
《黒雷》。
ロイ・オルディス。
その名が、学院長の口から告げられた。
もう、噂ではない。
誰かが誇張した話でもない。
目の前で黒い雷が空を貫き、境界軍がその名を呼び、《蒼刃》セレス・アーヴェインが序列を明かした。
否定する余地は、なかった。
「……本当に、名簿持ち……」
ミナは呆然と呟いた。
ヴァルターは唇を噛み、拳を握っている。
悔しさ。
羨望。
そして、どうしようもない納得。
ずっと隣にいた相手が、自分たちの目指す塔のさらに向こうにいた。
リアナは黙っていた。
ただ、ロイを見る目が変わっている。
遠ざかったわけではない。
むしろ、今まで分からなかった輪郭が、ようやく見えたような目だった。
ロイは広場の中心で、刀を納めたまま立っていた。
周囲の動揺に答える気配はない。
まだ終わっていないからだ。
足元の奥に、嫌な震えが残っている。
「ロイ」
セレスが横に立つ。
「広場側の反応は落ちた。だが、東棟下に逃げた枝がある」
「ああ」
「速い」
「逃げているというより、誘導されている」
セレスの目が細くなる。
「どこへ」
ロイは顔を上げた。
中央広場の先。
東棟。
そのさらに奥には、避難中の一年生たちが集められている講堂がある。
「まずいな」
セレスが即座に振り返る。
「東棟方面、封鎖! 講堂の生徒を西側へ移せ!」
境界軍の兵士が動く。
カイルもすぐに走った。
「四年は誘導補助! 三年は通路確保! 下級生を止めるな!」
広場が再び慌ただしくなる。
ロイは《黒鳴》の鞘に手を置いた。
だが、すぐには抜かない。
東棟の下を走る反応は、細いが速い。
普通に追えば遅れる。
広場から撃つには、建物が邪魔になる。
なら、必要なのは斬撃ではない。
射出だ。
セレスがロイを見る。
「使う気か」
「ああ」
「学院で使うなと言ったはずだ」
「制限する」
「制限しても壊れる」
「壊す場所は選ぶ」
セレスは一瞬だけ黙り、すぐに判断した。
「射線を開ける。東棟外壁、第三支柱の下だ」
「分かった」
ロイは広場の端へ歩いた。
その動きに、近くの生徒たちが自然と道を空ける。
恐怖だけではない。
今、目の前にいるのは、学院の編入生であり、境界名簿の名持ちだった。
境界軍の兵士が叫ぶ。
「東側通路から離れろ! 《黒雷》の射線上に立つな!」
その言葉だけで、生徒たちは動いた。
数分前なら、意味が分からず固まっていたかもしれない。
だが今は違う。
《黒雷》。
その名が、命令に重みを与えていた。
◇
東棟の外壁が、低く軋んだ。
地面の下から、赤黒い根が押し上げている。
まだ表には出ていない。
だが、あと数秒で床を破る。
その先には、避難中の一年生たち。
ロイは左手で鞘を押さえた。
右手は柄へ。
まだ抜かない。
《黒鳴》の鞘内部に、黒雷が流れ込む。
細く。
深く。
鞘の内側に刻まれた雷導軌条が、低く鳴った。
それは雷鳴ではない。
金属の奥で、何かが圧縮されていく音だった。
黒雷が鞘の内側を走り、刀身に絡み、さらに柄の奥へ戻る。
抜くためではない。
《《撃ち出す》》ために。
ロイの足元に黒い雷紋が広がった。
石畳の隙間を、黒い光が一瞬だけ這う。
周囲の空気が重くなる。
生徒たちの耳に、遠い嵐のような低音が届いた。
ヴァルターが息を呑む。
「抜刀……なのか?」
ミナは首を横に振った。
「違う気がする……」
リアナはロイの左手を見ていた。
鞘を押さえる手。
右手は柄。
構えは抜刀術。
だが、魔力の流れはまるで砲撃の準備だった。
セレスが短く命じる。
「全員、伏せるな。壁際へ寄れ。衝撃が遅れて来る」
境界軍の兵士たちは、その意味を知っているように動いた。
カイルもすぐに上級生へ伝える。
「壁際! 頭を下げろ! 耳を塞げ!」
ガレスは広場の端で、動けずにいた。
悔しさも疑いも、今はない。
ただ、見ていた。
自分が突っかかっていた相手が、何をするのか。
ロイの右手が、柄に触れた。
「天穿・抜雷」
抜いた、ようには見えなかった。
黒い線が一本、広場から東棟へ走った。
次の瞬間、東棟外壁の下で赤黒い根が弾ける。
斬撃が届いたのではない。
刀が、鞘の中から亜音速で撃ち出され、その一閃が空間を裂いた。
ロイの刀は、すでに振り抜かれていた。
誰も、その途中を見ていない。
遅れて、音が来た。
――轟ッ!!
広場の空気が横へ爆ぜた。
石畳の表面が薄くめくれ、砂塵が輪のように広がる。
遅れて届いた衝撃が、生徒たちの制服を叩き、髪を吹き上げた。
東棟の窓が一斉に震える。
結界が軋み、教師たちが顔を伏せた。
雷鳴は一拍遅れて腹の底へ沈む。
黒い雷の残光が、ロイの刀身から鞘へ戻っていく。
東棟下で暴れかけていた根は、根元から断たれていた。
断面に黒雷が走り、再生しようとした赤黒い肉を内側から焼き潰していく。
爆発はない。
炎もない。
ただ、黒い稲妻が静かに根を殺していく。
「……抜いたのか?」
誰かが呟いた。
「違う」
カイルが低く言った。
「あれは抜刀じゃない。鞘を砲身にしたんだ」
ヴァルターの喉が動く。
「亜音速の、抜刀……」
セレスはロイの横へ歩いてきた。
「制限したと言ったな」
「ああ」
「東棟の外壁が割れている」
「支柱は残した」
「そういう問題ではない」
「根は止めた」
セレスは小さく息を吐いた。
「それは認める」
◇
東棟から避難していた一年生たちに、負傷者はいなかった。
衝撃で転んだ生徒が数人いたが、ミナや回復班がすぐに対応した。
境界軍の兵士たちは東棟下の断面を確認し、管理局の術師が封印符を重ねていく。
ロイは刀を納めた。
《黒鳴》が鞘に戻る音が、やけに静かに響く。
広場にいた生徒たちは、まだ声を出せない。
今の一撃は、さっきの黒雷とは違った。
広範囲を焼く雷ではない。
一点を貫く抜刀。
だが、遅れて来た衝撃が、その速度と威力を証明していた。
ガレスが、ようやく口を開いた。
「……あんなもの、どうやって勝てっていうんだ」
誰も答えない。
勝つとか、負けるとか。
その言葉が、急に遠くなった。
だが、完全に折れたわけではない。
ガレスの拳は震えている。
恐怖ではない。
悔しさだ。
そして、その悔しさの奥に、初めて明確な羨望が混じっていた。
あそこまで行けるのか。
人は、あんなものに届くのか。
その問いが、胸に残ってしまった。
ロイは東棟の下を見ていた。
「本体はまだ奥だ」
セレスが頷く。
「だが、これで学院側へ逃げた枝はほぼ落ちた」
「次は《翠門》深部」
「そうなる」
カイルが近づいてくる。
「生徒の避難は完了した。負傷者なし」
「助かる」
セレスが言う。
カイルはロイを見る。
「今の技、名前は?」
「天穿・抜雷」
「覚えておく」
「真似はしない方がいい」
「する気はない。参考にするだけだ」
カイルは苦笑した。
「ただ、発想は使える。武器を振るのではなく、武器をどう加速させるか。四年の研究班が喜びそうだ」
「壊れるぞ」
「だから研究だけにする」
◇
学院長が広場に戻り、改めて生徒たちへ退避解除を告げた。
ただし、中央広場と東棟の一部は封鎖。
学内序列戦の再開は、再び延期。
その通達に、不満の声はほとんど出なかった。
今の一撃を見た後で、序列戦を続けろと言える者はいない。
だが、学院の熱は消えなかった。
形を変えた。
ロイを妬む者は、まだいる。
悔しがる者もいる。
けれど、そこに強い憧れが混じった。
恐怖だけではない。
あの黒い雷を見てしまった者は、もう忘れられない。
青白い縁を持つ黒の閃光。
遅れて来る雷鳴。
石畳をめくり上げる衝撃。
そして、何事もなかったように刀を納める黒雷の背中。
それは、学院生たちにとって、序列表の文字ではなかった。
実在する力だった。
遠すぎる。
だが、確かにそこにある。
ミナは小さく息を吐いた。
「ロイって、本当にすごかったんだね」
ロイは少し考える。
「今さらか」
「今さらだよ。分かってたけど、分かってなかった」
ヴァルターが頷いた。
「同感だ」
リアナはロイを見る。
「でも、あなたは変わらないのね」
「何が」
「名が明かされても、技を見せても、やることは同じ」
「必要なことをしただけだ」
リアナは少しだけ笑った。
「そう言うと思った」
その時、遠くで鐘が鳴った。
非常鐘ではない。
境界軍の集合信号。
セレスが顔を上げる。
「作戦会議だ。ロイ、来い」
「ああ」
ロイは歩き出す。
生徒たちは道を空けた。
今度は、恐怖だけではない。
敬意が混じっていた。
羨望が混じっていた。
そして、いつかあの背中に近づきたいという、言葉にならない熱も。
ロイは振り返らなかった。
《翠門》の奥に残る本体。
そこを断たない限り、学院は完全には守られない。
天穿・抜雷の余韻が、まだ広場の空気に残っている。
黒い雷の匂いが、朝の風に薄く流れていた。




