第20話 黒雷
学内序列戦、再開当日。
王立学院中央広場には、朝から全学年の生徒が集められていた。
個人予選は一時中断。
今日からは、安全確認を兼ねた再開式と、班単位試験の説明が行われる。
表向きはそういうことになっている。
だが、生徒たちの多くは知っていた。
第一闘技場で黒い根が出たこと。
ロイ・オルディスがそれを止めたこと。
《翠門》の異常処理にも関わっていたこと。
そして、外壁史の授業で出た名前。
――《黒雷》。
誰かが小声で言う。
「まさか、な」
別の生徒がすぐに返す。
「いやいや、そんなわけないだろ」
「黒い雷ってだけだ」
「境界名簿だぞ? ただの編入生が?」
「そんなわけがない」
笑い混じりの否定。
だが、その声は軽くなかった。
誰もが、どこかで逃げていた。
恐ろしいから。
認めたくないから。
自分たちが妬み、疑い、突っかかってきた相手が、本当に境界名簿の名持ちだったなどと考えたくないから。
黒い雷。
刀型魔導兵装。
境界軍の敬意。
《蒼刃》との距離。
十一重制御。
言われてみれば、気づけそうなものはいくつもあった。
だが、気づきたくなかった。
ガレス・ロウガンも、広場の端で腕を組んでいた。
彼は何も言わない。
ただ、歯を食いしばっている。
ロイが《黒雷》だなどと、認めたくない。
だが、完全に否定することも、もうできない。
◇
壇上に学院長が立った。
その横には、エルナ教官。
少し離れて、灰色の軍装をまとったセレス・アーヴェインがいる。
境界名簿第三十二席《蒼刃》。
その名持ちが見ているだけで、広場の空気は張り詰めていた。
学院長が口を開く。
「諸君。学内序列戦の再開にあたり、まず安全確認と今後の方針を――」
その時だった。
広場の魔導灯が、一斉に消えた。
朝だというのに、周囲が一瞬だけ暗くなる。
次に、足元から鈍い音が響いた。
ごん、と。
地面の下で、巨大な何かが脈打つ音。
ロイは顔を上げた。
「来る」
短い一言。
セレスも同時に剣へ手をかけていた。
中央広場の石畳が、内側から膨らんだ。
悲鳴が上がる。
黒い根が石を割って噴き出した。
一本ではない。
十本。
二十本。
さらにその奥から、赤黒い塊が盛り上がる。
闘技場で見たものより大きい。
《翠門》から学院へ伸びていた反応。
切ったはずの本線の奥に残っていたものが、別の経路から噴き上がってきたのだ。
生徒たちが後退する。
教師が結界を張る。
境界軍の兵士が走る。
だが、中央広場には人が多すぎた。
混乱が広がる。
「押すな!」
「下がれ!」
「一年生を先に!」
カイルの声が響いた。
四年生たちがすぐに動き、生徒の流れを分ける。
ガレスも炎剣を抜いた。
だが、セレスが鋭く叫ぶ。
「燃やすな! 魔力を食われる!」
ガレスは歯を食いしばり、炎を絞った。
黒い根は、魔力の濃い場所を狙って動く。
逃げ遅れた一年生の足元へ、根が伸びた。
ロイが動いた。
鞘を地面へ向ける。
黒雷が、石畳の下へ沈んだ。
音は遅れて来た。
ぱきり、と空気が割れるような音。
次の瞬間、一年生の足元で黒い火花が走り、根だけが硬直した。
「走れ」
ロイが言う。
一年生は涙目で頷き、上級生に引かれて下がった。
それで終わりではなかった。
赤黒い塊が、広場の中央で膨らむ。
根が束になり、巨大な獣の頭のような形を作った。
目はない。
だが、見ている。
人の集まった場所を。
強い魔力を。
恐怖を。
憧れを。
嫉妬を。
全部まとめて、食おうとしている。
セレスが蒼刃を抜いた。
「境界軍、封鎖線!」
灰色の外套が一斉に動く。
名簿に載らない兵士たちが、広場の各所に杭を打ち込む。
速い。
迷いがない。
それでも、根の広がりの方がわずかに早い。
結界が軋む。
教師の一人が叫ぶ。
「中央結界、持ちません!」
赤黒い塊が、広場全体へ根を伸ばす。
逃げる生徒たちの頭上を覆うように。
空が黒い枝で塞がれていく。
昼の光が遮られた。
広場が、薄暗い森の底のようになる。
セレスがロイを見る。
「ロイ」
「ああ」
「もう隠すな」
ロイは答えなかった。
ただ、《黒鳴》の柄に手をかけた。
その瞬間。
広場の空気が変わった。
風が止まる。
ざわめきが遠くなる。
ロイの足元から、黒い雷が滲み出した。
青白い雷が、極限まで圧縮されて黒く沈んだような光。
闇ではない。
夜でもない。
雷のまま、黒い。
石畳の隙間を、細い黒雷が走る。
それは地面を焼かない。
人にも触れない。
ただ、黒い根だけを選んで絡みつく。
空気が焦げた。
鉄と雨の匂いが広場に満ちる。
生徒たちの髪が、静電気でふわりと浮いた。
黒雷が、ロイの腕に沿って上る。
肩へ。
首筋へ。
頬の横へ。
黒い雷紋が、一瞬だけ肌の下に浮かぶ。
誰かが呟いた。
「……《黒雷》?」
その声は小さかった。
けれど、不思議なほど広場に届いた。
近くの生徒が、震えた声で否定する。
「いや……いやいや、まさか」
「そんなわけ……」
「でも、あれ……」
「黒い雷……刀……境界軍……」
「まさか……本当に……?」
否定の言葉が、途中で折れていく。
逃げ道が消えていく。
目の前の雷が、あまりにも違いすぎた。
訓練場で見た黒雷ではない。
測定水晶の中を走った細い雷でもない。
これは、戦うための雷だった。
人を守るために、災いを焼く雷だった。
ロイが《黒鳴》を抜いた。
黒い刀身が、昼の光を吸った。
その刃に黒雷が纏わりつく。
雷鳴はまだ来ない。
音より先に、圧が来る。
胸の奥を押されるような重さ。
広場全体が、一つの巨大な雷雲の下に沈んだようだった。
ロイは低く言う。
「射線を開けろ」
境界軍の兵士たちが、一斉に反応した。
迷いはない。
彼らは姿勢を正し、声を張った。
「《黒雷》の射線を開けろ!」
「全員、中央線から退避!」
「伏せるな、動け! ロイ殿の前を塞ぐな!」
その言葉が、決定打だった。
《黒雷》。
境界軍の兵士が、そう呼んだ。
しかも、敬意を込めて。
広場の生徒たちの中で、最後の否定が砕けた。
セレス・アーヴェインが蒼刃を掲げる。
声が、広場の隅まで通った。
「境界軍第三外郭隊、現場指揮より通達!」
蒼い魔力が、彼女の剣から広がる。
「これより本異常の主制圧を、境界名簿第二十七席――」
一瞬、時間が止まった。
ガレスの目が見開かれる。
ヴァルターの息が止まる。
ミナが口元を押さえる。
リアナは、静かにロイを見ていた。
セレスの声が続く。
「《黒雷》ロイ・オルディスに委任する!」
広場が凍りついた。
境界名簿第二十七席。
《黒雷》。
ロイ・オルディス。
全部が繋がった。
黒い雷。
十一重制御。
境界軍の敬意。
《蒼刃》との距離。
常に任務を優先する判断。
倒せたのに倒さなかった《翠門》の未記録個体。
言われてみれば、そこにあった。
最初から、ずっと。
ただ、誰も受け入れたくなかっただけだった。
ロイは名乗らなかった。
驚きに応えることもしなかった。
ただ、刀を構える。
目の前の根が、まだ動いているからだ。
「天穿」
黒雷が広場の地面へ沈んだ。
一本。
二本。
十一本。
そこまでは、見えた。
だが、そこから先は数えられなかった。
黒い雷が、地面の下で枝分かれする。
十四。
十六。
あるいは、それ以上。
広場の石畳の隙間から、黒い光が漏れる。
まるで地面の下に、黒い星座が描かれているようだった。
ロイが一歩踏み込む。
足元で雷が爆ぜる。
だが、音は鋭くない。
低く、重い。
腹の底に響く雷鳴。
空を覆っていた黒い根が、一斉に震えた。
ロイは刀を振る。
派手な斬撃ではない。
ただ一閃。
しかし、その軌跡に黒雷が遅れて走った。
黒い稲妻が、空中の根を縫い、赤黒い塊へと落ちる。
青白い縁を持つ黒の雷。
その光に照らされて、広場の影が逆向きに伸びた。
赤黒い塊が吠える。
声ではない。
魔力の震え。
生徒たちは耳を塞ぐ。
だが、ロイは止まらない。
刀を地面へ突き立てた。
「天穿・雷杭」
黒雷が、天へ昇った。
落ちるのではない。
地面から空へ、黒い雷の柱が立つ。
中央広場の真ん中に、巨大な黒い杭が打ち込まれたようだった。
根がその杭に引き寄せられる。
人へ伸びていた枝が、すべてロイの方へ向きを変える。
セレスが叫ぶ。
「今だ、退避を完了させろ!」
カイルがすぐに動く。
「四年、出口を開け! 三年は一年を運べ! 走れ、ただし押すな!」
ガレスも動いた。
炎は使わない。
剣を鞘に戻し、逃げ遅れた二年生の腕を掴んで引きずる。
「立て! 見てる場合じゃねえ!」
声が震えていた。
恐怖か。
悔しさか。
その両方だった。
ロイが《黒雷》だった。
境界名簿第二十七席。
自分が突っかかり、妬み、倒そうとした相手。
遠すぎる。
悔しい。
怖い。
それでも今、目の前でその黒雷が生徒を守っている。
ガレスは歯を食いしばる。
「くそ……!」
その声は、誰にも届かなかった。
雷鳴が、それを飲み込んだからだ。
赤黒い塊が最後の抵抗を見せる。
根が何十本も束になり、ロイへ叩きつけられる。
セレスの蒼刃が横から入り、半数を凍らせる。
境界軍の兵士たちが杭で残りを縫い止める。
それでも、中心の一撃はロイへ届いた。
ロイは逃げない。
刀を抜き直す。
鞘が腰で低く鳴った。
黒雷が、刀身だけでなくロイの全身へ薄く纏わる。
黒い火花が肩から散る。
足元の石畳が焦げる。
彼の周囲だけ、雨の前の空のように空気が重くなる。
ロイは一歩、前へ出た。
そして、根の束を斬った。
斬撃は黒かった。
光なのに、黒い。
雷なのに、影を生む。
根の束が音もなく断たれ、切断面から黒雷が内側へ潜り込む。
赤黒い塊が、内側から焼けた。
爆発はしない。
炎も上がらない。
ただ、黒い雷が中を走り、脈動を一つずつ潰していく。
ロイが低く言った。
「終わりだ」
刀を引く。
次の瞬間、空へ伸びていた黒雷の杭が、赤黒い塊の中心へ落ちた。
雷鳴。
今度は、空が割れた。
中央広場の上にあった黒い根が、まとめて白い灰のように崩れる。
青黒い火花が舞う。
黒雷の残光が、朝の光の中でしばらく消えなかった。
広場は静まり返った。
誰も動かない。
誰も声を出さない。
ただ、焦げた空気と、雷の匂いだけが残っている。
ロイは刀を納めた。
《黒鳴》が鞘に収まる音が、やけにはっきり響いた。
◇
最初に膝をついたのは、一年生だった。
恐怖で力が抜けたのだろう。
次に、誰かが小さく呟いた。
「本当に……《黒雷》……」
今度は誰も否定しなかった。
いやいや、とは言えなかった。
まさか、とは逃げられなかった。
見てしまったからだ。
黒い雷が、空を貫くところを。
境界軍が、その名を呼ぶところを。
《蒼刃》が、序列と異名を告げるところを。
ロイ・オルディス。
ただの編入生ではない。
境界名簿第二十七席。
《黒雷》。
その事実が、広場に落ちた。
ミナは震える息を吐いた。
「ロイ……本当に……」
ヴァルターは何も言えなかった。
憧れていた境界名簿。
いつか届きたいと思っていた場所。
その名持ちが、ずっと隣にいた。
リアナは静かに目を伏せた。
驚きはある。
だが、それ以上に腑に落ちていた。
彼の普通が、学院の普通ではなかった理由。
目的を優先し続けた理由。
命令と任務を重く見ていた理由。
すべてが繋がった。
ガレスは拳を握りしめたまま、動けなかった。
嫉妬は消えない。
悔しさも消えない。
むしろ、何倍にも膨れ上がっている。
だが、もう否定はできない。
自分が見上げていた境界名簿。
その一人に、自分は噛みついていた。
その事実が、腹の底に重く沈んだ。
セレスがロイの横へ立つ。
「封鎖確認。反応は?」
ロイは地面を見る。
「表は切った。奥は残っている」
「だろうな」
「次は《翠門》深部だ」
「そうなる」
二人の会話は短い。
広場にいる者たちは、それを黙って聞いていた。
今までとは違う意味で。
学院長が壇上へ戻る。
その声は、少しだけ震えていた。
「全生徒に告げます」
広場が静まる。
「本件は、王立学院および境界軍の共同対処案件となりました。以後、境界軍の指示に従うこと。命令違反は、学内序列戦の評価以前に、安全規定違反として処分します」
学院長は一度、ロイを見る。
そして続けた。
「また、先ほどセレス隊長より告げられた通り、ロイ・オルディス君は境界名簿第二十七席《黒雷》です」
もう一度、その名が広場に響いた。
今度は学院長の口から。
完全な確定。
誰も逃げられない。
「ただし、彼は現在、本学院の生徒でもあります。興味本位の接触、詮索、私闘の申し込みを禁じます」
それでも、誰もすぐには動けなかった。
恐怖だけではない。
憧れだけでもない。
嫉妬だけでもない。
全てが混ざった沈黙だった。
ロイはそれを受けても、表情を変えない。
ただ、空を見た。
黒い根が消えた朝の空は、少しだけ青かった。
だが、その奥。
《翠門》の方角には、まだ薄い赤黒い気配が残っている。
ロイは小さく息を吐く。
「まだ終わっていない」
その声は大きくない。
だが、近くにいた者には聞こえた。
《黒雷》の正体は明かされた。
学院の序列戦は、もう以前のものには戻らない。
そして、王立学院の地下で蠢くものは。
黒雷に焼かれながらも、まだ深部で息を潜めていた。




