第19話 黒雷という名
翌朝、王立学院には二つの通達が出された。
一つ。
《翠門》より伸びていた地下術式異常は、境界軍および学院管理局の共同作戦により一時鎮静化。
二つ。
学内序列戦は、安全確認期間を挟んだのち、三日後に再開。
掲示板の前には、多くの生徒が集まっていた。
「再開するのか」
「大丈夫なのかよ」
「でも、昨日の夜に処理したって」
「境界軍と管理局だろ?」
「ロイも行ってたらしいぞ」
その名が出ると、周囲の空気が少し変わる。
以前のような単純な反発だけではない。
闘技場の異常を止めた。
《翠門》の作戦にも関わった。
境界軍の兵士が敬意を払っている。
そこまで重なれば、ただの編入生ではないことくらい、誰でも分かる。
だが、分からない。
では、何なのか。
そこが分からないから、噂は止まらない。
◇
ロイはいつも通り教室にいた。
通達を見ても、特に反応は変わらなかった。
ミナが机に頬杖をつく。
「序列戦、再開するんだね」
「ああ」
「ロイはまた出るの?」
「命令があれば」
「もうそれ、絶対出るやつじゃん」
ヴァルターは黙って槍の手入れをしていた。
リアナは通達の写しを読んでいる。
「個人予選は再編成。中断時点の勝者はそのまま通過扱い。未消化の試合だけ実施。その後、班単位試験へ移行」
「つまり、私たちは一回戦通過?」
ミナが訊く。
「ええ。ただ、班単位試験の比重が上がるわ」
ヴァルターが顔を上げる。
「昨日の異常を踏まえて、制圧と撤退判断を重く見るということか」
「そうでしょうね」
ロイは窓の外を見る。
第一闘技場はまだ一部封鎖されている。
ただ、昨日までのような濁った気配は薄い。
本線を切った効果は出ている。
だが、終わってはいない。
《翠門》の奥には、まだ何かが残っている。
◇
午前の授業は、実技ではなく外壁史に差し替えられた。
教師は黒板に大きく二つの言葉を書いた。
境界軍。
境界名簿。
教室の空気が引き締まる。
「君たちは境界名簿を知っているだろう」
教師が言う。
「王国軍、騎士団、魔術院、冒険者組合。どの道へ進む者であっても、一度はその名を目にするはずだ」
生徒たちは黙って聞いている。
境界名簿。
壁の外に関わる戦果を上げた者だけが名を載せる、王国最高峰の序列。
学院生にとっては、遠い憧れだった。
教師は続ける。
「だが、誤解してはならない。境界名簿は英雄譚ではない。そこに名が載るということは、常にそれ相応の危険と責務を背負うということだ」
黒板に、いくつかの異名が書かれていく。
《蒼刃》。
《白砦》。
《穿翼》。
《黒雷》。
その瞬間、教室のあちこちで小さな反応が起きた。
黒雷。
その字だけが、妙に重く見えた。
教師は淡々と説明する。
「例えば《蒼刃》セレス・アーヴェイン。現在、学院に滞在している境界名簿第三十二席だ。若くして第三外郭隊の小隊指揮を任される序列保持者であり、蒼い斬撃による制圧と凍結に秀でる」
ミナが小声で呟く。
「そのまんまだ……」
「そして《黒雷》」
教師の声に、ロイ以外の何人かが顔を上げた。
「詳細な戦歴は公開されていない。ただし、境界軍の記録では、黒い雷を操る若き名持ちとして知られる。雷属性を極度に圧縮し、通常の雷とは異なる黒い放電を扱うとされる」
黒い雷。
その言葉が、教室に落ちる。
誰かが息を呑んだ。
ロイは黒板を見ている。
表情は変わらない。
教師は続けた。
「異名は見た目だけで決まるものではない。戦果、対応力、生還率、任務達成率。それらが重なって初めて、名は定着する。君たちが軽々しく真似ていいものではない」
授業はそこで次の話題へ移った。
だが、生徒たちの意識はしばらく戻らなかった。
黒い雷。
ロイの雷も、黒い。
もちろん、そんな単純な話ではない。
境界名簿の《黒雷》など、学院生からすれば雲の上の存在だ。
目の前の編入生と結びつけるには、話が大きすぎる。
大きすぎる、はずだった。
◇
授業後、教室のざわめきはすぐには収まらなかった。
「黒雷って、今の話……」
「いやいや、まさか」
「黒い雷なんて珍しいけど、同じとは限らないだろ」
「でも境界軍の兵士が敬語使ってたぞ」
「《蒼刃》もロイのこと知ってる感じだった」
「いや、だからって境界名簿の黒雷はないだろ。あれ、名持ちだぞ?」
「だよな。流石にない」
否定する声が多い。
だが、その否定には揺れがあった。
あり得ない。
そう言いながら、いくつかの断片が頭の中で繋がり始める。
黒い雷。
境界軍の敬意。
十一重制御。
《翠門》での異常対処。
《蒼刃》との距離。
言われてみれば、気づけそうではあった。
だが、信じたくない。
ただの編入生だと思っていた相手が、境界名簿の名持ちかもしれない。
その可能性は、学院生たちの感情を大きく揺らした。
羨望。
嫉妬。
興奮。
不安。
そして、信じたくない悔しさ。
ロイはその会話を聞いていたが、何も言わなかった。
ミナがぎこちなく笑う。
「ロイ……今の授業、聞いた?」
「ああ」
「黒雷って、出てたね」
「ああ」
「その……」
ミナは言葉を探した。
リアナも黙っている。
ヴァルターはロイを見ていた。
ロイは短く言う。
「必要なら話す」
それだけだった。
今は必要ではない。
少なくとも、ロイはそう判断している。
だが、周囲はもう、必要かどうかを考え始めている。
◇
昼休み。
図書棟の境界史資料室には、数人の上級生がいた。
四年生の一人が、境界名簿に関する公開資料を開いている。
カイル・レインフォードもそこにいた。
「やはり、資料は少ないな」
四年生が言う。
「《黒雷》の項目はほとんど非公開だ。異名、属性傾向、いくつかの作戦名だけ」
カイルは資料を覗き込む。
そこには短い記述があった。
――《黒雷》。雷属性。黒色放電。刀型魔導兵装を使用する可能性あり。詳細戦歴非公開。
四年生が苦笑する。
「黒い雷、刀、境界軍の敬意。これだけ並ぶとな」
「断定はできない」
カイルが言う。
「だが、無視もできない」
「本人に聞くか?」
「答えないだろう」
「だろうな」
カイルは資料を閉じた。
彼の顔に嫉妬はない。
むしろ、慎重な理解があった。
「仮にそうだとしても、彼が隠しているなら理由がある。面白半分に暴くべきではない」
「真面目だな」
「必要な時に分かる。そういう類の話だ」
カイルは窓の外を見た。
第一闘技場の補修が進んでいる。
「ただ、その必要な時は近いかもしれない」
◇
同じ頃、三年棟では別の反応が起きていた。
ガレス・ロウガンは、仲間たちと共に境界名簿の写しを見ていた。
「《黒雷》だと?」
一人が言う。
「まさか、あいつが?」
「あり得ないだろ」
「でも条件は合ってる」
「黒い雷を使う奴なんて、他にもいるかもしれない」
「境界軍がロイ殿って呼ぶ他の理由は?」
沈黙が落ちる。
ガレスは資料から目を離さなかった。
黒雷。
境界名簿。
もし、ロイがそれなら。
自分が突っかかっていた相手は、学内序列どころではない。
学院の塔の上ではなく、まったく別の場所に立つ人間だったことになる。
それは認めがたい。
認めたくない。
だが、昨日の闘技場で見た黒雷は、ただの二年生が扱うものではなかった。
ガレスは低く言う。
「まだ決まったわけじゃない」
「だよな」
「ああ。決まってない」
自分に言い聞かせるような声だった。
「確かめるなら、序列戦だ」
ガレスは拳を握る。
「逃げ場のない舞台で、あいつがどれだけ隠せるか見る」
◇
放課後、第二演習場では軽い調整訓練が行われた。
ロイたち第一班に、カイルが加わる。
今日は大きな魔力を使わない。
地下反応は落ち着いているが、完全に消えたわけではないからだ。
ミナが水糸を細く伸ばし、負傷者役の人形を引き寄せる。
ヴァルターは低い土壁で進路を作る。
リアナは風で足元の砂を払う。
ロイは最小限の黒雷だけを床に流し、位置取りを確認していた。
黒雷は、以前よりも多くの者に意識されている。
だからこそ、今日は細く、目立たない。
だが、一度知ってしまうと、細い黒雷ですら意味を持って見える。
カイルがロイの横へ来る。
「噂になっている」
「そうだろうな」
「否定しないのか」
「必要がない」
「肯定は?」
「それも必要がない」
カイルは苦笑した。
「君らしい」
「面倒になる」
「もうなっている」
「そうだな」
その時、演習場の端で小さな歓声が上がった。
一年生数人が、ミナの水糸操作を見て拍手している。
ミナは照れたように手を振った。
「いいな」
カイルが言う。
「何がだ」
「下級生が上級生や強い生徒を見て、素直に憧れる。学院はそういう場所でもある」
ロイは一年生たちを見る。
彼らはミナやリアナ、ヴァルターにも目を向けている。
ロイだけではない。
強い者。
優しい者。
上手い者。
届きたいと思える者。
学院には、そういう光もある。
ロイは短く答えた。
「悪くない」
「だろう?」
◇
訓練が終わる頃、セレスが第二演習場に現れた。
彼女が来ると、場の空気が自然と引き締まる。
セレスはロイへ近づいた。
「話がある」
「何だ」
「学院長から、序列戦再開時の警戒配置が決まった。君は表向き、参加者のままだ」
「実際は」
「異常発生時の即応戦力」
「分かった」
「そして、もう一つ」
セレスは少し声を落とした。
「君の異名について、噂が出ている」
「ああ」
「放置するか」
「必要なら話す」
「その必要は、近いかもしれない」
ロイはセレスを見る。
セレスの表情は変わらない。
だが、声は少しだけ硬い。
「次に大きな異常が出れば、隠す余裕はない。黒雷を使わずに済む保証もない」
「使う必要があれば使う」
「その時は、私が後押しする」
「後押し?」
「君が自分で名乗らないなら、誰かが言う必要がある」
ロイは少し考えた。
「名は任務に必要か」
「時には必要だ」
セレスははっきり言った。
「生徒を下がらせるために。教師を動かすために。境界軍が君に指揮権を一部預ける理由を示すために」
「そうか」
「君が嫌でも、名が人を動かすことはある」
ロイは答えなかった。
名に興味はない。
序列にも、異名にも。
だが、それで人が動くなら。
それが任務に必要なら。
「分かった」
セレスは頷いた。
◇
その夜。
学院の上空には、低い雲が流れていた。
雨は降っていない。
だが、空気は湿り、重い。
第一闘技場の封鎖符が、風もないのにかすかに揺れた。
管理局の術師が異常を確認し、すぐに境界軍へ報告する。
反応は小さい。
だが、深い。
《翠門》の奥からではない。
学院の下を通り、第一闘技場のさらに奥。
中央広場の地下へ向かっている。
そこは、序列戦再開時に開会式が行われる場所だった。
翌朝には、多くの生徒が集まる。
術師は顔を青くした。
「まだ、残っている……?」
黒い波は、地面の下で静かに広がる。
まるで、次の舞台を選ぶように。
そして、その中心には。
闇の奥で、微かに赤黒い光が灯っていた。




