第14話 憧れの向き
訓練場の封鎖は、翌朝になっても解かれなかった。
表向きの理由は、地下術式管の異常。
だが、昨夜あの場にいた生徒たちは知っている。
石床を割って出た黒い根。
境界軍の兵士に一瞬で制圧されたガレス。
そして、ロイ・オルディスが床下へ黒雷を通し、異常を止めたこと。
噂は、朝の鐘が鳴る前から学院中を走っていた。
「ガレス先輩が倒されたって本当?」
「境界軍の兵士にだろ?」
「いや、その後に黒い根が出たらしい」
「ロイが止めたって聞いた」
「十一重制御じゃなかったって話もあるぞ」
廊下は落ち着かない。
食堂も同じだった。
だが、昨日までとは少し違う。
ロイへ向けられる視線には、嫉妬や不満だけではないものが混じり始めていた。
羨望。
憧れ。
そして、怖いものを見た後に残る、強い引力。
「あの人が……」
一年生らしい少女が、遠くからロイを見ていた。
隣の友人が小声で言う。
「見すぎだよ」
「だって、昨日の訓練場にいた人から聞いたの。黒い根が出た時、みんな動けなかったのに、ロイ先輩だけ前に出たって」
「怖くないの?」
「怖いよ」
少女は小さく頷いた。
「でも、怖いのに、目が離せない」
それは恋と呼ぶには、まだ早い。
ただ、英雄譚を初めて自分の目の前に見つけた時のような熱だった。
遠くて、危なくて、近づけない。
けれど、見ていたい。
◇
ロイはその視線に気づいていた。
数が増えた。
昨日までの刺すような視線だけではない。
柔らかいもの。
熱を帯びたもの。
怯えと憧れが混じったもの。
ロイはそれらを区別していたが、どう扱えばいいかは分からなかった。
「また見られてるね」
ミナが言う。
「ああ」
「昨日までとちょっと違う気がする」
「敵意だけではない」
「分かるんだ」
「大体は」
ミナは少し感心したようにロイを見た。
「そういうの、鈍くないんだね」
「向けられる感情の種類は、ある程度分かる」
「じゃあ、今のは?」
「……よく分からないものもある」
ミナは視線の先を見る。
一年生の少女たちが、慌てて顔を背けた。
ミナは少し笑った。
「あれはたぶん、憧れだよ」
「憧れ」
「うん。ちょっと恋っぽいやつも混じってるかも」
ロイは首を傾げた。
「なぜだ」
「なぜって言われても……助けてくれた強い先輩って、そういう対象になりやすいんだよ」
「助けた覚えはない」
「訓練場を止めたでしょ」
「異常を止めただけだ」
「それが助けたってことなの」
ロイは黙った。
ミナはパンをちぎりながら、少しだけ優しい声で言う。
「嫉妬してる人もいるけど、そうじゃない人もいるよ。怖いって思いながら、すごいって思ってる人もいる。目標にしたいって思う人もいる」
「そうか」
「うん。だから、全部敵だと思わなくていいと思う」
「敵とは思っていない」
「ならよかった」
その横で、ヴァルターが静かに言った。
「僕も、嫉妬だけではない」
ミナが驚いたように見る。
「ヴァルターがそれ言うんだ」
「嫉妬はある」
「あるんだ」
「当然だ」
ヴァルターは正面からロイを見た。
「君は気に入らない。だが、君を見ていると、自分がどこまで届いていないか分かる。それは不快だが、同時に必要でもある」
ロイは頷いた。
「なら鍛えればいい」
「簡単に言うな」
「他にない」
「それも分かっている」
ヴァルターは小さく息を吐いた。
「だから腹が立つ」
ミナが笑った。
「結局そこなんだ」
◇
午前の授業は、訓練場が使えないため座学に変更された。
内容は、学内序列戦の形式変更について。
教室には、いつもより緊張があった。
エルナ教官が黒板に大きく書く。
個人予選。
班単位実戦想定試験。
混成対抗試験。
「《翠門》および訓練場地下の異常により、今年の序列戦は一部形式を変更する」
生徒たちがざわめく。
「個人戦だけで評価はしない。班行動、異常時の判断、撤退、制圧、情報共有。これらも評価に含める」
ロイは黒板を見ていた。
つまり、ただ勝つだけでは序列が上がらない。
戦場に近い評価へ寄せる。
おそらく、境界軍の意見が入っている。
エルナ教官は続けた。
「また、今回の学内序列戦には外部視察が入る。王国軍、騎士団、魔術院、貴族家。加えて、境界軍の一部関係者も残る」
教室の空気が変わった。
境界軍。
その名だけで、生徒たちの目が変わる。
憧れの先。
境界名簿へ続くかもしれない細い道。
エルナ教官は、その熱を見て冷静に言った。
「浮かれるな。見られるということは、評価されるということだ。失態も記録される」
ミナが小声で呟く。
「急に胃が痛い……」
ヴァルターは背筋を伸ばしている。
リアナは静かにメモを取っていた。
ロイは何も書かない。
エルナ教官の視線が、少しだけロイへ向いた。
「なお、異常事案に関わる情報を勝手に広めるな。噂と事実を混ぜるな。危険を英雄譚に変えるな」
その言葉で、何人かが目を伏せた。
だが、完全には止まらないだろう。
人は、怖いものほど語りたがる。
そして、強いものほど見上げたがる。
◇
昼休み。
ロイが廊下を歩いていると、前方で小さな混乱が起きていた。
一年生の女子生徒が、資料の束を落としていた。
周りにいた生徒たちは、拾おうとしながらも、ロイが近づいていることに気づいて動きを止める。
ロイは足元に滑ってきた紙を拾った。
女子生徒が慌てて顔を上げる。
「あっ、す、すみません!」
「落ちた」
「は、はい!」
ロイは紙を揃えて渡した。
「持てるか」
「持てます!」
だが、明らかに量が多い。
ロイは半分を取った。
「どこへ運ぶ」
「資料室です。でも、大丈夫です、私が――」
「遠いのか」
「い、いえ、すぐそこです」
「なら持つ」
ロイは歩き出した。
女子生徒は数秒固まり、慌てて後を追う。
廊下にいた生徒たちが、ざわついた。
「今の見た?」
「普通に手伝った……」
「怖い人かと思ってた」
「いや、怖いけど……」
「でも、ちょっとかっこよくない?」
最後の声は小さかったが、周囲には聞こえた。
ロイは気にしなかった。
資料室の前で、女子生徒は何度も頭を下げた。
「あ、ありがとうございました、ロイ先輩」
「重いなら分けて運べ」
「はい!」
ロイはそれだけ言って戻ろうとした。
女子生徒は、思わず声を出す。
「あの!」
ロイが振り返る。
「昨日、訓練場に私の兄がいました」
「そうか」
「黒い根が出た時、兄は動けなかったって。でも、怪我はありませんでした。だから、その……ありがとうございました」
ロイは少し考えた。
「俺だけではない。境界軍の兵士もいた」
「それでもです」
女子生徒は真っ直ぐに言った。
「ありがとうございました」
ロイは短く頷いた。
「無事ならいい」
それだけ言って、歩き出す。
女子生徒はしばらくその背中を見ていた。
怖い。
無愛想。
何を考えているか分からない。
けれど、その背中は不思議と目に残った。
◇
その一件も、すぐに噂になった。
ただし、今度は少し違う。
「一年の子を助けたらしい」
「資料運んだだけだろ」
「でも、あのロイが?」
「普通に優しいのか?」
「いや、無愛想だったらしい」
「それがいいって言ってる子もいるぞ」
嫉妬していた生徒たちは、ますます面白くなかった。
ロイが強いだけなら、まだ敵として見られる。
境界軍に敬意を払われているだけなら、まだ不満で済む。
だが、憧れる者が出始めると話は変わる。
自分たちが妬んでいる相手を、誰かが見上げている。
それは、さらに悔しさを増やした。
ガレス・ロウガンは廊下の隅で、その噂を聞いていた。
「一年にまで人気取りか」
隣の三年生が言う。
ガレスは答えなかった。
人気取り。
そう思えたら楽だった。
だが、あの編入生がそんなことを考えて動くようには見えない。
それが余計に腹立たしい。
強くて、目立って、境界軍に敬意を払われている。
そのうえ、本人は何も欲しがっていない。
だから周りが勝手に熱を持つ。
「……気に入らない」
ガレスは低く呟いた。
◇
放課後。
封鎖された訓練場の代わりに、第二演習場が開放された。
そこでは、学内序列戦に向けた自主練習が行われている。
ロイは端の壁際に立ち、班の訓練を見ていた。
リアナは指示を最小限に抑えている。
ミナは水糸の展開速度を上げる練習。
ヴァルターは薄い土壁を複数枚置く訓練を繰り返していた。
以前より、壁が薄い。
そのぶん、速い。
ロイが言った助言を取り入れている。
「今のは悪くない」
ロイが言う。
ヴァルターは息を整えながら振り返った。
「悪くない、か」
「ああ。真正面の一枚壁より、生存率は上がる」
「君にそう言われると、少し腹が立つが」
「またか」
「だが、参考にはなる」
ヴァルターはもう一度構えた。
「もう一回だ」
ミナが笑う。
「ヴァルター、最近すごく素直じゃない?」
「素直ではない」
「素直だよ」
リアナは二人を見て、少しだけ表情を緩めた。
ロイが来てから、班は乱れた。
だが同時に、変わり始めてもいる。
嫉妬もある。
苛立ちもある。
けれど、それだけではない。
追いつきたい。
認められたい。
隣に立ちたい。
そういう感情も、確かに生まれている。
リアナはロイを見る。
彼は相変わらず、何も求めていない顔をしている。
だからこそ、周りが揺れる。
◇
第二演習場の入口で、数人の女子生徒が立ち止まっていた。
一年と二年が混じっている。
彼女たちは、ロイの班の訓練を見ていた。
「黒雷、出さないのかな」
「出したら危ないでしょ」
「でも見たい」
「分かる」
「怖いけど、見たい」
その中心に、昼間ロイに資料を運んでもらった一年生がいた。
彼女は胸の前で資料帳を抱えたまま、じっとロイを見ている。
友人が肘でつついた。
「完全に見てるじゃん」
「見てるだけ」
「好きなの?」
「そういうのじゃない」
「じゃあ何?」
少女は少し考えた。
「近づいたら焼けそうだけど、遠くにいると綺麗な雷みたい」
友人たちは一瞬黙り、それから小さく笑った。
「それ、だいぶ危ない憧れ方だよ」
「分かってる」
少女は頬を赤くしながらも、視線を逸らさなかった。
◇
訓練が終わる頃、第二演習場の空気は少し明るかった。
嫉妬だけではない。
恐怖だけでもない。
誰かがロイを妬み、誰かがロイを目標にし、誰かがロイを見て胸を高鳴らせる。
学院は、暗い感情だけで動いているわけではない。
それぞれの感情が、学内序列戦へ向かって集まっていく。
その時、第二演習場の魔導灯が一瞬だけ揺れた。
ロイが顔を上げる。
リアナも気づいた。
「今のは?」
「地下だ」
ロイは床を見る。
黒い根の反応ではない。
もっと薄い。
けれど、広い。
演習場の地下を、何かが撫でるように通った。
ミナが不安そうに言う。
「また?」
「まだ出ていない」
ヴァルターが槍を握る。
「なら、出る前に知らせるべきだ」
「ああ」
ロイが動こうとした時、演習場の入口にセレスが現れた。
灰色の軍装。
深い青の髪。
彼女は迷わずロイを見る。
「気づいたか」
「ああ」
「広がっている。根ではなく、反応だけが先に走っている」
「探っているのか」
「おそらく」
セレスは演習場にいる生徒たちを見た。
その目は冷たいが、無関心ではない。
「全員、訓練を中止しろ。速やかに退場。走るな」
生徒たちはすぐには動けなかった。
だが、昨日の訓練場の噂を知っている者たちは、すぐに反応した。
境界軍の命令。
今度は、誰も逆らわない。
ロイは床を見たまま言う。
「近いな」
「近い」
セレスは短く答えた。
「だが、今はまだ噛みついてこない」
「なら誘っている可能性がある」
「同感だ」
周囲の生徒たちは、二人の会話を遠くから聞いていた。
ロイと《蒼刃》が、同じものを見ている。
自分たちには分からない何かを、当然のように共有している。
羨望。
嫉妬。
恐れ。
憧れ。
そのすべてが、またロイへ向かった。
セレスは低く言う。
「ロイ・オルディス。今夜、会議に出ろ」
「命令か」
「要請だ」
「目的は」
「学内序列戦を利用して、反応源を炙り出す案が出ている」
リアナの顔が強張る。
ヴァルターも息を呑んだ。
ミナが小さく声を漏らす。
「序列戦を……?」
セレスは表情を変えない。
「中止できないなら、罠に変える」
ロイはしばらく黙っていた。
そして、短く答える。
「分かった」
学院の熱は、さらに高まっている。
嫉妬も、憧れも、恋に似た視線も。
それらが集まる学内序列戦。
その足元で、黒いものが動いている。
ならば、使う。
人が集まる場所を。
視線が集まる舞台を。
ロイは封鎖された訓練場の方角を見た。
次に動くなら、おそらく大きい。
そしてその時、学院はもう、ロイ・オルディスをただの編入生として見てはいられなくなる。




