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第14話 憧れの向き

 訓練場の封鎖は、翌朝になっても解かれなかった。


 表向きの理由は、地下術式管の異常。


 だが、昨夜あの場にいた生徒たちは知っている。


 石床を割って出た黒い根。

 境界軍の兵士に一瞬で制圧されたガレス。

 そして、ロイ・オルディスが床下へ黒雷を通し、異常を止めたこと。


 噂は、朝の鐘が鳴る前から学院中を走っていた。


「ガレス先輩が倒されたって本当?」


「境界軍の兵士にだろ?」


「いや、その後に黒い根が出たらしい」


「ロイが止めたって聞いた」


「十一重制御じゃなかったって話もあるぞ」


 廊下は落ち着かない。


 食堂も同じだった。


 だが、昨日までとは少し違う。


 ロイへ向けられる視線には、嫉妬や不満だけではないものが混じり始めていた。


 羨望。


 憧れ。


 そして、怖いものを見た後に残る、強い引力。


「あの人が……」


 一年生らしい少女が、遠くからロイを見ていた。


 隣の友人が小声で言う。


「見すぎだよ」


「だって、昨日の訓練場にいた人から聞いたの。黒い根が出た時、みんな動けなかったのに、ロイ先輩だけ前に出たって」


「怖くないの?」


「怖いよ」


 少女は小さく頷いた。


「でも、怖いのに、目が離せない」


 それは恋と呼ぶには、まだ早い。


 ただ、英雄譚を初めて自分の目の前に見つけた時のような熱だった。


 遠くて、危なくて、近づけない。


 けれど、見ていたい。



 ロイはその視線に気づいていた。


 数が増えた。


 昨日までの刺すような視線だけではない。


 柔らかいもの。

 熱を帯びたもの。

 怯えと憧れが混じったもの。


 ロイはそれらを区別していたが、どう扱えばいいかは分からなかった。


「また見られてるね」


 ミナが言う。


「ああ」


「昨日までとちょっと違う気がする」


「敵意だけではない」


「分かるんだ」


「大体は」


 ミナは少し感心したようにロイを見た。


「そういうの、鈍くないんだね」


「向けられる感情の種類は、ある程度分かる」


「じゃあ、今のは?」


「……よく分からないものもある」


 ミナは視線の先を見る。


 一年生の少女たちが、慌てて顔を背けた。


 ミナは少し笑った。


「あれはたぶん、憧れだよ」


「憧れ」


「うん。ちょっと恋っぽいやつも混じってるかも」


 ロイは首を傾げた。


「なぜだ」


「なぜって言われても……助けてくれた強い先輩って、そういう対象になりやすいんだよ」


「助けた覚えはない」


「訓練場を止めたでしょ」


「異常を止めただけだ」


「それが助けたってことなの」


 ロイは黙った。


 ミナはパンをちぎりながら、少しだけ優しい声で言う。


「嫉妬してる人もいるけど、そうじゃない人もいるよ。怖いって思いながら、すごいって思ってる人もいる。目標にしたいって思う人もいる」


「そうか」


「うん。だから、全部敵だと思わなくていいと思う」


「敵とは思っていない」


「ならよかった」


 その横で、ヴァルターが静かに言った。


「僕も、嫉妬だけではない」


 ミナが驚いたように見る。


「ヴァルターがそれ言うんだ」


「嫉妬はある」


「あるんだ」


「当然だ」


 ヴァルターは正面からロイを見た。


「君は気に入らない。だが、君を見ていると、自分がどこまで届いていないか分かる。それは不快だが、同時に必要でもある」


 ロイは頷いた。


「なら鍛えればいい」


「簡単に言うな」


「他にない」


「それも分かっている」


 ヴァルターは小さく息を吐いた。


「だから腹が立つ」


 ミナが笑った。


「結局そこなんだ」



 午前の授業は、訓練場が使えないため座学に変更された。


 内容は、学内序列戦の形式変更について。


 教室には、いつもより緊張があった。


 エルナ教官が黒板に大きく書く。


 個人予選。

 班単位実戦想定試験。

 混成対抗試験。


「《翠門》および訓練場地下の異常により、今年の序列戦は一部形式を変更する」


 生徒たちがざわめく。


「個人戦だけで評価はしない。班行動、異常時の判断、撤退、制圧、情報共有。これらも評価に含める」


 ロイは黒板を見ていた。


 つまり、ただ勝つだけでは序列が上がらない。


 戦場に近い評価へ寄せる。


 おそらく、境界軍の意見が入っている。


 エルナ教官は続けた。


「また、今回の学内序列戦には外部視察が入る。王国軍、騎士団、魔術院、貴族家。加えて、境界軍の一部関係者も残る」


 教室の空気が変わった。


 境界軍。


 その名だけで、生徒たちの目が変わる。


 憧れの先。


 境界名簿へ続くかもしれない細い道。


 エルナ教官は、その熱を見て冷静に言った。


「浮かれるな。見られるということは、評価されるということだ。失態も記録される」


 ミナが小声で呟く。


「急に胃が痛い……」


 ヴァルターは背筋を伸ばしている。


 リアナは静かにメモを取っていた。


 ロイは何も書かない。


 エルナ教官の視線が、少しだけロイへ向いた。


「なお、異常事案に関わる情報を勝手に広めるな。噂と事実を混ぜるな。危険を英雄譚に変えるな」


 その言葉で、何人かが目を伏せた。


 だが、完全には止まらないだろう。


 人は、怖いものほど語りたがる。


 そして、強いものほど見上げたがる。



 昼休み。


 ロイが廊下を歩いていると、前方で小さな混乱が起きていた。


 一年生の女子生徒が、資料の束を落としていた。


 周りにいた生徒たちは、拾おうとしながらも、ロイが近づいていることに気づいて動きを止める。


 ロイは足元に滑ってきた紙を拾った。


 女子生徒が慌てて顔を上げる。


「あっ、す、すみません!」


「落ちた」


「は、はい!」


 ロイは紙を揃えて渡した。


「持てるか」


「持てます!」


 だが、明らかに量が多い。


 ロイは半分を取った。


「どこへ運ぶ」


「資料室です。でも、大丈夫です、私が――」


「遠いのか」


「い、いえ、すぐそこです」


「なら持つ」


 ロイは歩き出した。


 女子生徒は数秒固まり、慌てて後を追う。


 廊下にいた生徒たちが、ざわついた。


「今の見た?」


「普通に手伝った……」


「怖い人かと思ってた」


「いや、怖いけど……」


「でも、ちょっとかっこよくない?」


 最後の声は小さかったが、周囲には聞こえた。


 ロイは気にしなかった。


 資料室の前で、女子生徒は何度も頭を下げた。


「あ、ありがとうございました、ロイ先輩」


「重いなら分けて運べ」


「はい!」


 ロイはそれだけ言って戻ろうとした。


 女子生徒は、思わず声を出す。


「あの!」


 ロイが振り返る。


「昨日、訓練場に私の兄がいました」


「そうか」


「黒い根が出た時、兄は動けなかったって。でも、怪我はありませんでした。だから、その……ありがとうございました」


 ロイは少し考えた。


「俺だけではない。境界軍の兵士もいた」


「それでもです」


 女子生徒は真っ直ぐに言った。


「ありがとうございました」


 ロイは短く頷いた。


「無事ならいい」


 それだけ言って、歩き出す。


 女子生徒はしばらくその背中を見ていた。


 怖い。


 無愛想。


 何を考えているか分からない。


 けれど、その背中は不思議と目に残った。



 その一件も、すぐに噂になった。


 ただし、今度は少し違う。


「一年の子を助けたらしい」


「資料運んだだけだろ」


「でも、あのロイが?」


「普通に優しいのか?」


「いや、無愛想だったらしい」


「それがいいって言ってる子もいるぞ」


 嫉妬していた生徒たちは、ますます面白くなかった。


 ロイが強いだけなら、まだ敵として見られる。


 境界軍に敬意を払われているだけなら、まだ不満で済む。


 だが、憧れる者が出始めると話は変わる。


 自分たちが妬んでいる相手を、誰かが見上げている。


 それは、さらに悔しさを増やした。


 ガレス・ロウガンは廊下の隅で、その噂を聞いていた。


「一年にまで人気取りか」


 隣の三年生が言う。


 ガレスは答えなかった。


 人気取り。


 そう思えたら楽だった。


 だが、あの編入生がそんなことを考えて動くようには見えない。


 それが余計に腹立たしい。


 強くて、目立って、境界軍に敬意を払われている。


 そのうえ、本人は何も欲しがっていない。


 だから周りが勝手に熱を持つ。


「……気に入らない」


 ガレスは低く呟いた。



 放課後。


 封鎖された訓練場の代わりに、第二演習場が開放された。


 そこでは、学内序列戦に向けた自主練習が行われている。


 ロイは端の壁際に立ち、班の訓練を見ていた。


 リアナは指示を最小限に抑えている。


 ミナは水糸の展開速度を上げる練習。


 ヴァルターは薄い土壁を複数枚置く訓練を繰り返していた。


 以前より、壁が薄い。


 そのぶん、速い。


 ロイが言った助言を取り入れている。


「今のは悪くない」


 ロイが言う。


 ヴァルターは息を整えながら振り返った。


「悪くない、か」


「ああ。真正面の一枚壁より、生存率は上がる」


「君にそう言われると、少し腹が立つが」


「またか」


「だが、参考にはなる」


 ヴァルターはもう一度構えた。


「もう一回だ」


 ミナが笑う。


「ヴァルター、最近すごく素直じゃない?」


「素直ではない」


「素直だよ」


 リアナは二人を見て、少しだけ表情を緩めた。


 ロイが来てから、班は乱れた。


 だが同時に、変わり始めてもいる。


 嫉妬もある。

 苛立ちもある。

 けれど、それだけではない。


 追いつきたい。


 認められたい。


 隣に立ちたい。


 そういう感情も、確かに生まれている。


 リアナはロイを見る。


 彼は相変わらず、何も求めていない顔をしている。


 だからこそ、周りが揺れる。



 第二演習場の入口で、数人の女子生徒が立ち止まっていた。


 一年と二年が混じっている。


 彼女たちは、ロイの班の訓練を見ていた。


「黒雷、出さないのかな」


「出したら危ないでしょ」


「でも見たい」


「分かる」


「怖いけど、見たい」


 その中心に、昼間ロイに資料を運んでもらった一年生がいた。


 彼女は胸の前で資料帳を抱えたまま、じっとロイを見ている。


 友人が肘でつついた。


「完全に見てるじゃん」


「見てるだけ」


「好きなの?」


「そういうのじゃない」


「じゃあ何?」


 少女は少し考えた。


「近づいたら焼けそうだけど、遠くにいると綺麗な雷みたい」


 友人たちは一瞬黙り、それから小さく笑った。


「それ、だいぶ危ない憧れ方だよ」


「分かってる」


 少女は頬を赤くしながらも、視線を逸らさなかった。



 訓練が終わる頃、第二演習場の空気は少し明るかった。


 嫉妬だけではない。


 恐怖だけでもない。


 誰かがロイを妬み、誰かがロイを目標にし、誰かがロイを見て胸を高鳴らせる。


 学院は、暗い感情だけで動いているわけではない。


 それぞれの感情が、学内序列戦へ向かって集まっていく。


 その時、第二演習場の魔導灯が一瞬だけ揺れた。


 ロイが顔を上げる。


 リアナも気づいた。


「今のは?」


「地下だ」


 ロイは床を見る。


 黒い根の反応ではない。


 もっと薄い。


 けれど、広い。


 演習場の地下を、何かが撫でるように通った。


 ミナが不安そうに言う。


「また?」


「まだ出ていない」


 ヴァルターが槍を握る。


「なら、出る前に知らせるべきだ」


「ああ」


 ロイが動こうとした時、演習場の入口にセレスが現れた。


 灰色の軍装。


 深い青の髪。


 彼女は迷わずロイを見る。


「気づいたか」


「ああ」


「広がっている。根ではなく、反応だけが先に走っている」


「探っているのか」


「おそらく」


 セレスは演習場にいる生徒たちを見た。


 その目は冷たいが、無関心ではない。


「全員、訓練を中止しろ。速やかに退場。走るな」


 生徒たちはすぐには動けなかった。


 だが、昨日の訓練場の噂を知っている者たちは、すぐに反応した。


 境界軍の命令。


 今度は、誰も逆らわない。


 ロイは床を見たまま言う。


「近いな」


「近い」


 セレスは短く答えた。


「だが、今はまだ噛みついてこない」


「なら誘っている可能性がある」


「同感だ」


 周囲の生徒たちは、二人の会話を遠くから聞いていた。


 ロイと《蒼刃》が、同じものを見ている。


 自分たちには分からない何かを、当然のように共有している。


 羨望。

 嫉妬。

 恐れ。

 憧れ。


 そのすべてが、またロイへ向かった。


 セレスは低く言う。


「ロイ・オルディス。今夜、会議に出ろ」


「命令か」


「要請だ」


「目的は」


「学内序列戦を利用して、反応源を炙り出す案が出ている」


 リアナの顔が強張る。


 ヴァルターも息を呑んだ。


 ミナが小さく声を漏らす。


「序列戦を……?」


 セレスは表情を変えない。


「中止できないなら、罠に変える」


 ロイはしばらく黙っていた。


 そして、短く答える。


「分かった」


 学院の熱は、さらに高まっている。


 嫉妬も、憧れも、恋に似た視線も。


 それらが集まる学内序列戦。


 その足元で、黒いものが動いている。


 ならば、使う。


 人が集まる場所を。


 視線が集まる舞台を。


 ロイは封鎖された訓練場の方角を見た。


 次に動くなら、おそらく大きい。


 そしてその時、学院はもう、ロイ・オルディスをただの編入生として見てはいられなくなる。


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