第13話 足元の異変
夜の訓練場は静かだった。
昼間、境界軍の兵士が学院上位生をまとめて沈めた場所。
その中央に、ロイは立っていた。
月明かりに照らされた石床は、何も変わっていないように見える。
だが、違う。
足元の奥で、黒い流れが動いている。
《翠門》の北東封鎖区画から伸びていた反応とは別の枝だ。
細い。
だが、速い。
「ここまで来たか」
ロイは膝をつき、床に指先を近づけた。
黒雷を流す。
ほんの細く。
石床の下で、何かがびくりと震えた。
根だ。
まだ表には出ていない。
だが、訓練場の地下を這っている。
ロイは目を細めた。
昼間、この場所で境界軍が訓練した。
生徒たちが集まり、魔力が動き、視線が集まった。
外域反応がそれに引かれたのか。
それとも、最初からここを目指していたのか。
判断するには情報が足りない。
「ロイ殿」
背後から声がした。
振り返ると、灰色の外套を着た境界軍の兵士が立っていた。
昼間、訓練を見せた男だ。
彼はロイへ軽く頭を下げる。
「こちらでも反応を確認しました」
「早い」
「はい。想定よりも進行が速いです」
兵士は訓練場の中央を見る。
生徒へ向ける時の無骨な態度とは違う。
ロイに対しては、明らかに敬意を払っている。
「セレス隊長を呼びますか」
「呼んだ方がいい」
「承知しました」
兵士が通信符を取り出そうとした時。
訓練場の入口で、声が上がった。
「こんな時間に何をしている」
ガレス・ロウガンだった。
三年序列二十一位。
彼の後ろには、三年生が数人いる。
夜間練習の帰りか。あるいは、ロイの動きを見張っていたのか。
ガレスはロイと境界軍の兵士を見比べ、顔をしかめた。
「また境界軍か」
兵士の目が冷える。
「生徒は下がれ」
「ここは学院の訓練場だ。俺たちにも使う権利がある」
「今は封鎖対象だ」
「そんな通達は聞いていない」
「今、伝えた。下がれ」
命令口調。
ガレスの顔が歪む。
境界軍の兵士は、ロイには敬意を示す。
自分たちには、命令する。
その差が、彼の怒りを刺激した。
「俺たちは子供扱いか」
「違う」
兵士は淡々と言った。
「危険を理解していない者として扱っている」
ガレスの仲間たちがざわつく。
ロイは床から指を離した。
「近づくな」
短い言葉。
だが、ガレスは笑った。
「またそれか。危険だ、下がれ、触るな。便利な言葉だな」
「本当に危険だからだ」
「なら説明しろ」
「今は時間がない」
「結局、それだ」
ガレスは一歩前へ出る。
「お前はいつもそうだ。何も説明しないくせに、当然みたいに中心にいる。境界軍も教師も、お前だけは特別扱いする」
ロイは黙っている。
兵士が前に出た。
「それ以上近づくな」
「黙ってろ。俺はそいつに言っている」
「お前が誰に言っていようと関係ない。今この場の安全管理はこちらが持つ」
「境界軍なら何でも命令できると思うなよ」
ガレスの剣に、炎が灯った。
その瞬間。
兵士の表情が変わった。
「消せ」
低い声。
ガレスは止まらない。
「俺は――」
「消せと言った」
次の瞬間、兵士が動いた。
速かった。
ガレスが剣を構えるより早く、兵士は懐に入り、手首を取った。炎剣の角度が外れる。同時に足を払われ、ガレスの身体が半回転して地面へ落ちた。
石床に叩きつけられる寸前、兵士が襟を掴んで衝撃を殺す。
倒したのではない。
怪我をさせないように、落とした。
それでも、ガレスは動けなかった。
喉元には、短い杭が突きつけられている。
「これが戦場なら、お前は死んでいる」
兵士は言った。
「だがここは学院だ。だから止めた。二度目はない」
ガレスの顔が怒りで歪む。
だが、身体は動かない。
実力差が明らかだった。
序列二十一位。
学院では十分に強者。
それでも、境界名簿に載らない兵士一人に、何もさせてもらえなかった。
兵士はガレスから離れ、周囲の生徒たちを見る。
「全員下がれ。今この場所は訓練場ではない。異常反応の発生地点だ」
その言葉で、空気が変わった。
ガレスの仲間たちが足元を見る。
「異常反応……?」
「《翠門》の?」
ロイが床を見る。
「来る」
短い一言。
兵士が即座に反応した。
「後退!」
その声に、生徒たちは反射的に動けなかった。
次の瞬間、訓練場の石床が割れた。
黒い根が、月明かりの下へ飛び出す。
細い。
だが、速い。
三本、五本、八本。
根は生徒たちの足元を狙って伸びた。
兵士が前へ出る。
杭を投げる。
一本目の根が止まる。
二本目を踏み潰し、三本目を短剣で裂く。
だが、数が多い。
ロイは《黒鳴》の鞘に手を置いた。
「下がれ」
ガレスが歯を食いしばる。
「俺も――」
「邪魔だ」
ロイの声が低くなった。
怒鳴ってはいない。
だが、今度は明確に苛立ちが混じっていた。
「今の相手は序列戦の相手じゃない。お前の悔しさに付き合って動くものでもない」
黒雷が、鞘の奥で鳴る。
「下がれ。生きたいなら」
ガレスは言い返そうとした。
だが、言葉が出なかった。
ロイの目が、先ほどまでと違っていたからだ。
生徒を相手にしている目ではない。
目の前の危険を処理する者の目だった。
兵士がガレスの肩を掴み、後ろへ押し飛ばす。
「走れ!」
今度は、生徒たちも動いた。
ロイは前へ出る。
黒い根が一斉に向きを変えた。
まるで、彼を見つけたかのように。
「反応したか」
ロイは《黒鳴》を抜かなかった。
鞘を床に向ける。
「天穿」
黒雷が、石床へ沈む。
音は小さい。
だが、訓練場全体の下を黒い線が走った。
根の進路だけを焼く。
表面に出た根ではない。
地下で広がろうとする枝を、先に潰す。
一本。
三本。
七本。
十一本。
黒雷は正確に走り、根の動きを止めた。
兵士が息を呑む。
「十一点同時……」
だが、ロイはそこで止まらなかった。
ほんの一瞬。
黒雷の線が、さらに奥へ分かれた。
十二。
十三。
数を数える前に、地下で何かが焼き切れる音がした。
石床の割れ目から出ていた根が、一斉に硬直する。
兵士の目が細くなった。
ロイはすぐに黒雷を絞った。
表に出たのは十一まで。
それ以上は、地下で処理した。
見せる必要はない。
ロイは鞘を引く。
「一時的に止めた」
兵士はすぐに通信符を握る。
「セレス隊長、訓練場地下で反応発生。ロイ殿が一次封鎖。生徒数名あり。負傷者なし」
通信符の向こうから、短い声が返る。
『封鎖を維持。すぐ向かう』
「はっ」
兵士は周囲を見る。
「全員、訓練場の外へ出ろ。走るな。転ぶな。互いに押すな」
今度は誰も逆らわなかった。
ガレスも立ち上がり、悔しそうにロイを見る。
だが、何も言わない。
言えない。
足元から伸びた黒い根。
それを前に、自分は動けなかった。
境界軍の兵士に倒され、退かされ、守られた。
そしてロイは、何もなかったようにそれを止めた。
その事実が、胸の奥を焼いていた。
◇
数分後、セレス・アーヴェインが訓練場に到着した。
灰色の軍装。
腰には蒼い長剣。
彼女は状況を見て、すぐに判断した。
「封鎖線を張る。訓練場地下全域を一時隔離。管理局を呼べ」
兵士たちが動く。
セレスはロイの横に立った。
「十一以上を使ったな」
小声だった。
周囲の生徒には聞こえない。
ロイは答える。
「少しだけだ」
「少しで済んだならいい」
「見えたか」
「全部は見えない。だが、十一で止まっていないことくらいは分かる」
セレスは床の亀裂を見る。
「公表はしない」
「助かる」
「今明かすには、火種が多すぎる」
ロイはガレスたちの方を見る。
生徒たちは訓練場の外へ出されている。だが、視線はこちらに釘付けだった。
嫉妬。
恐怖。
悔しさ。
混ざり合っている。
セレスは低く言った。
「彼らはまだ、君が何者かを知らない」
「知る必要はない」
「いずれ知る」
ロイは答えなかった。
セレスは続ける。
「その時、今の感情はもっと強くなる。憧れも、嫉妬も、悔しさも」
「面倒だな」
「だが、必要になるかもしれない」
セレスは訓練場の亀裂を見る。
「この根は、人が多い場所へ向かっている。序列戦を中止しないなら、必ず次が来る」
「中止すればいい」
「簡単ならそうしている」
セレスの声には、わずかな苛立ちがあった。
学院だけの話ではない。
王国軍、騎士団、貴族、魔術院。
学内序列戦には、多くの目が集まる。
中止は政治的な判断になる。
その間にも、根は伸びる。
ロイは床を見た。
「なら、先に切る」
「できるか」
「命令があれば」
セレスはロイを見た。
「本当に変わらないな」
「何が」
「目的が決まるまで、勝手には動かないところだ」
「動くと面倒が増える」
「もう十分増えている」
「そうだな」
そのやり取りを、遠くからガレスが見ていた。
セレス・アーヴェイン。
境界名簿第三十二席。
学院生にとって憧れの序列者。
その彼女が、ロイと並んで話している。
指示ではない。
説教でもない。
まるで、同じ現場を知る者同士の確認のように。
ガレスは拳を握った。
悔しい。
どうしようもなく、悔しい。
だが、悔しさの底に、別の感情が沈み始めていた。
恐れ。
ロイ・オルディスは、ただの編入生ではない。
そんなことは、もう分かっている。
それでも、認めたくなかった。
◇
その夜、訓練場は封鎖された。
表向きの理由は、地下術式管の異常。
生徒たちは寮へ戻されたが、噂は止まらない。
「黒い根が出たらしい」
「ガレス先輩たちが巻き込まれたって」
「境界軍の兵士が一瞬で止めたって聞いたぞ」
「いや、その後ロイが止めたらしい」
「十一重だけじゃなかったって、本当か?」
噂は形を変えながら広がる。
正しいものもあれば、間違ったものもある。
だが、一つだけ確かなことがあった。
学内序列戦を前に、ロイ・オルディスへの視線はさらに強くなった。
妬み。
疑い。
恐れ。
そして、知りたいという欲。
そのすべてが、彼へ向いている。
学院の足元で、黒い根が沈黙する。
だが、それは眠っただけだった。
切られたわけではない。
次に目覚める時、それはもっと深い場所から来る。
ロイは封鎖された訓練場を一度だけ見て、寮へ戻った。
夜風が、少し鉄の臭いを運んでいた。




