第12話 序列なき兵士
翌朝、王立学院の訓練場には、いつもより多くの生徒が集まっていた。
正式な授業開始前だというのに、観覧席には二年だけでなく三年、四年の姿まである。
理由は一つ。
境界軍が訓練場を使う。
それだけだった。
《蒼刃》セレス・アーヴェインが立つなら分かる。境界名簿第三十二席。その名を見たい生徒はいくらでもいる。
だが、今日訓練場の中央にいるのは、セレスではなかった。
灰色の外套を着た境界軍兵士が三人。
名簿に載っている者ではない。
少なくとも、生徒たちが知る英雄名簿にその名はなかった。
「普通の兵士……だよね?」
ミナが観覧席から訓練場を見下ろして言った。
ヴァルターは首を横に振る。
「境界軍に普通という言葉を使うべきではない」
「でも序列持ちじゃないんでしょ?」
「そうだとしても、だ」
リアナも静かに頷いた。
「昨日の兵士も、動きが明らかに違ったわ」
その兵士は、ロイに対しては敬意を払った。
だが、生徒に対しては命令口調だった。
その差は、学院中に広まっている。
ロイ・オルディスという編入生への不満は、さらに濃くなった。
境界軍に敬意を払われる二年生。
境界軍から下がれと命じられる自分たち。
同じ学院の制服を着ているはずなのに、扱いが違う。
それが、気に入らない者は多かった。
ロイは観覧席ではなく、訓練場の端に立っていた。
腰には《黒鳴》。
いつもと変わらない。
昨日の夜も、彼は《黒鳴》を点検した。
命を預ける武器だからだ。刀身だけではない。鞘、柄、導雷軌条、蓄雷炉。その一つでも狂えば、必要な瞬間に遅れる。
だから見る。
何度でも。
それが生き残るための当然だった。
◇
エルナ教官が訓練場の中央へ出た。
「今日の実技は予定を一部変更する。境界軍の協力により、対魔獣制圧における基本行動を見せてもらう」
訓練場がざわめいた。
四年生の一人が小声で言う。
「序列持ちじゃないなら、参考程度だろ」
「いや、それでも境界軍だぞ」
「学内総合序列上位なら、いい勝負できるんじゃないか?」
その声は、ロイにも聞こえていた。
ロイは何も言わない。
エルナ教官は続ける。
「誤解している者がいるようだから先に言っておく。境界名簿に載る者だけが特別なのではない」
彼女は灰色の外套を着た兵士たちを見る。
「境界軍に所属し、壁際の任務に立てる時点で、学院基準では十分に規格外だ。よく見ておけ」
その言葉に、生徒たちは静まり返った。
兵士の一人が前へ出る。
昨日、ロイと生徒の間に入った男だった。
彼はロイへ視線を向け、わずかに姿勢を正した。
「ロイ殿。本日は訓練場をお借りします」
「ああ」
「支障があれば、ご指摘ください」
「必要なら言う」
「承知しました」
短いやり取り。
それだけで、観覧席の空気がまた変わった。
生徒には敬語を使わない境界軍の兵士が、ロイには敬意を払う。
なぜか。
その答えを知らないからこそ、苛立ちが増える。
ガレス・ロウガンは観覧席の上段で、その様子を睨んでいた。
◇
最初の訓練は、制圧行動だった。
管理局が用意した大型訓練獣が、訓練場に放たれる。
岩のような外皮を持つ四足型。学内分類ではB級相当。二年生なら班単位で対応する相手。三年でも単独制圧は簡単ではない。
兵士は一人で前に出た。
剣は抜かない。
盾も構えない。
手に持っているのは、短い杭のような器具だけだ。
訓練獣が吠える。
地面を蹴り、突進した。
兵士は横に逃げなかった。
一歩、前へ出る。
観覧席の生徒たちが息を呑んだ。
衝突の直前。
兵士の身体が沈んだ。
訓練獣の角を避け、首元へ杭を打つ。同時に足を払う。大きな音もない。派手な魔法もない。
訓練獣の巨体が、地面へ倒れた。
兵士はその首を踏み、杭をもう一本、関節部へ差し込む。
訓練獣は動けなくなった。
時間にして、五秒。
ミナの口が開いた。
「え……?」
ヴァルターの表情も固まっている。
「今の、魔法をほとんど使っていない」
リアナは静かに言った。
「力ではなく、止める場所を知っている」
エルナ教官が生徒たちへ向けて言う。
「見えたか。倒したのではない。動けなくした。討伐ではなく制圧だ」
兵士は訓練獣から足を下ろす。
「壁際では、殺すより止める方が多い。殺せば散るものもいる。壊せば増えるものもいる。まず止めろ。見栄で斬るな」
その声は、生徒に向けるには容赦がなかった。
「強い魔法を撃てるだけでは邪魔になる。状況を見ろ。足を見ろ。首を見ろ。呼吸を見ろ。相手が何で動いているかを考えろ」
観覧席は静かだった。
派手な一撃を期待していた生徒たちほど、言葉を失っていた。
境界名簿に載らない兵士。
そのはずなのに、学院で鍛えられた上級生たちが苦戦する相手を、まるで作業のように止めた。
◇
次は、複数対応だった。
三体の訓練獣が同時に放たれる。
兵士は一人。
今度も、剣を抜かない。
「無茶じゃない?」
ミナが呟く。
「いや」
ロイが言った。
「見ていれば分かる」
訓練獣が三方向から迫る。
兵士は正面の一体へ走った。
逃げない。
距離を詰める。
一体目の前足を杭で止める。身体を回し、二体目の突進を一体目へぶつける。三体目が横から来る前に、地面へ小さな術式杭を刺す。
青白い線が地面を走った。
三体目の足元だけが沈む。
動きが止まる。
その間に、兵士は二体目の首元へ肘を入れ、呼吸を乱した。
訓練獣三体が、十秒足らずで沈黙する。
観覧席が完全に静まり返った。
「……これで、名簿に載っていないのか」
ヴァルターが呟いた。
その声には、悔しさよりも驚きがあった。
ロイは答える。
「境界軍では珍しくない」
「珍しくない?」
「ああ」
ミナが顔を引きつらせる。
「世界が違う……」
ロイは訓練場の兵士を見た。
「ただ、あの人は上手い」
「ロイがそう言うなら、相当ね」
リアナが言う。
ロイは頷いた。
「無駄が少ない」
◇
エルナ教官は次に、学内上位生との模擬対応を提案した。
生徒たちの空気が少し変わる。
見ているだけでは終われない者もいる。
特に上級生はそうだった。
四年の総合序列候補が二人、三年の上位生が二人。合計四人が前へ出る。
彼らは学院内では十分に強者だった。
模擬戦なら、教師からも評価される側だ。
相手は境界軍の兵士一人。
名簿なし。
生徒たちの中には、今度こそ勝負になると思った者もいた。
兵士は四人を見て言った。
「まとめて来い」
敬語はない。
生徒への態度は、あくまで訓練対象だ。
四人の顔がわずかに強張る。
開始の合図。
四人は同時に動いた。
炎の剣。氷の槍。風の拘束。土の壁。
連携は悪くない。学院の上位生らしく、属性の組み合わせも考えられている。
だが、兵士は一歩で崩した。
まず土壁の薄い箇所へ杭を投げる。壁が割れる前に、風の拘束の軌道へ体を滑らせる。拘束は兵士ではなく、炎剣の生徒の足に絡んだ。
氷の槍が来る。
兵士はそれを避けず、柄で横から叩いた。
軌道がずれる。
ずれた槍は土壁の破片を打ち、視界を潰す。
その瞬間、兵士は四人の中心へ入っていた。
一人の手首を取る。
一人の膝を蹴る。
一人の喉元へ杭を突きつける。
最後の一人には、背後から短剣の峰を首筋に当てていた。
「終わりだ」
四人は動けなかった。
訓練場の空気が、凍った。
四年上位と三年上位。
学院内では、十分に憧れられる立場の生徒たち。
それが、境界名簿に載らない兵士一人に崩された。
兵士は手を離し、淡々と言う。
「連携の形は悪くない。だが、綺麗すぎる。相手が教本通りに動く前提だ」
四人は何も言えない。
「戦場では、相手はお前たちの得意な距離にいてくれない。詠唱を待たない。誇りを尊重しない。崩せる場所を見つけたら、そこから壊す」
その言葉は冷たい。
だが、嘲笑ではなかった。
事実だけを置いている。
だから余計に重い。
エルナ教官が腕を組んで言った。
「見たな。これが境界軍の基礎だ」
基礎。
その言葉に、生徒たちの顔が変わった。
今のが、特別な奥義ではない。
境界軍における基本。
それが学院の上位生を沈めた。
◇
訓練の後、兵士はロイの近くへ来た。
周囲の生徒たちが自然と耳を澄ませる。
兵士はロイの前で姿勢を正した。
「ロイ殿。先ほどの制圧、何か問題はありましたか」
ロイは少し考える。
「三体目の沈め方が浅い。足を抜かれる可能性がある」
「やはりそう見えましたか」
「ああ。相手が根状なら抜かれる」
「ご指摘、感謝します」
兵士は素直に頭を下げた。
訓練場の生徒たちは、またざわついた。
今、学院の上位生を圧倒した兵士が。
ロイに助言を求めた。
そして、感謝した。
それが意味するものを、誰も整理できない。
ガレスは拳を握りしめていた。
悔しい。
認めたくない。
だが、目の前の現実は動かない。
境界軍の兵士が規格外であること。
その兵士が、ロイに敬意を払っていること。
どちらも、言い訳では消せなかった。
セレスが訓練場の入口に立っていた。
いつからいたのかは分からない。
彼女はロイと兵士のやり取りを見て、短く言う。
「悪くない訓練だった」
兵士はすぐに姿勢を正す。
「はっ」
セレスはロイを見る。
「君も見ていたのか」
「ああ」
「退屈だったか」
「参考にはなった」
「なら十分だ」
セレスの口調は、兵士たちに向けるものとも、生徒に向けるものとも違う。
対等に近い。
それもまた、生徒たちの不満を刺激した。
◇
昼休み。
食堂では、境界軍の訓練の話で持ちきりだった。
「四年上位が一人に負けたって本当か?」
「負けたっていうか、触れられたら終わってた」
「しかも名簿持ちじゃないらしいぞ」
「じゃあ《蒼刃》はどれだけ強いんだよ」
「それより、あの兵士がロイに頭下げてたって聞いたぞ」
「何なんだよ、あいつ」
ロイへの嫉妬は、消えるどころかさらに濃くなっていた。
ただし、少し質が変わっていた。
昨日までは、優遇されていることへの不満。
今日は、それに恐れが混じった。
境界軍の兵士が規格外だと分かった。
その規格外が、ロイを軽く扱わない。
なら、ロイは何なのか。
その疑問が、生徒たちを苛立たせる。
ミナはスープをかき混ぜながら言った。
「今日の訓練、すごかったね」
「ああ」
「境界軍って、名簿に載ってなくてもあんな感じなんだ」
「全員ではない。でも、壁際に立つならあれくらいは必要になる」
ヴァルターがロイを見る。
「君の基準では、あれが普通なのか」
「普通ではない。だが珍しくもない」
「……そうか」
ヴァルターは静かに息を吐いた。
悔しそうだった。
だが、昨日までのような反発ではない。
上を見た者の悔しさだった。
「僕たちは、まだ学院の中で競っているだけなんだな」
リアナが言う。
「それでも、学院の序列は無意味ではないわ」
「分かっている」
ヴァルターは頷いた。
「ただ、見えていた頂の上に、さらに別の場所があると知っただけだ」
ロイは何も言わなかった。
それは、悪いことではない。
知れば、進むか退くかを選べる。
◇
午後の授業後。
三年棟の掲示板前に、人だかりができていた。
学内序列戦の予選方式が発表されたのだ。
今年は例年と違い、《翠門》異常の影響で日程が一部変更される。
個人戦の予選は縮小。
代わりに、班単位の実戦想定試験が追加。
さらに、上級生と下級生の混成試験も検討中。
その文面を見て、生徒たちはざわめいた。
「混成試験?」
「二年が三年や四年と組まされるってことか?」
「いや、場合によっては対抗形式もあるらしい」
「ロイ・オルディスも出るのか?」
その名が出た瞬間、空気が変わった。
ガレスが掲示板を見上げていた。
その横に、三年上位生たちが並ぶ。
「好都合だな」
一人が言った。
「個人戦だけじゃない。班単位なら、あいつ一人ではどうにもならない」
ガレスは黙っていた。
だが、その目は燃えている。
嫉妬。
悔しさ。
そして、倒したいという欲。
ロイへの不満は、学院序列戦へ向かって形を持ち始めていた。
◇
夜。
ロイは寮室で《黒鳴》を机に置いた。
今日も戦闘はしていない。
だが、訓練場で境界軍の兵士の動きを見ながら、何度か微弱な黒雷を鞘に通した。反応を確かめるためだ。
なら、点検する。
命を預ける武器だからだ。
刀は、抜く前から戦闘に関わっている。
鞘の中で雷が詰まれば、抜刀の初速が落ちる。蓄雷炉に熱が残れば、次の放電で制御が乱れる。導雷軌条に歪みがあれば、天穿の照準がズレる。
それは、死につながる。
だから、見る。
ロイは鞘を拭い、黒雷を細く通した。
異常なし。
その時、窓の外で、黒い波が揺れた。
北区画ではない。
もっと近い。
訓練場の地下。
今日、境界軍が訓練を行った場所の下。
ロイは手を止めた。
学内序列戦に向けて、生徒たちの熱は上がっている。
境界軍の訓練で、憧れは現実になった。
嫉妬は膨らみ、挑戦は近づいている。
だが、その足元で。
黒い根は、静かに学院の中心へ伸びていた。
ロイは《黒鳴》を腰に差す。
扉を開ける前に、低く呟いた。
「早いな」
今度は、面倒で済ませるには近すぎた。




