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第11話 火種

 ロイ・オルディスは、朝の鐘が鳴るより前に目を覚ました。


 寮室の机の上には、界刀《黒鳴》が置かれている。


 黒い鞘。装飾の少ない柄。光を吸うような刀身。


 ロイは布を取り、鞘の縁を拭った。次に導雷軌条の反応を確かめる。鞘内に微弱な黒雷を通し、引っかかりがないか確認する。柄の締まり。鍔の歪み。蓄雷炉の熱残り。刀身の刃こぼれ。


 一つずつ、淡々と見ていく。


 これは癖ではない。


 命を預ける武器だからだ。


 武器の不調は、自分だけでなく、隣にいる者も殺す。だからロイは毎朝、毎晩、そして戦闘の前後に《黒鳴》を見る。


 異常はない。


 ロイは《黒鳴》を腰に差し、部屋を出た。



 三年序列二十一位、ガレス・ロウガンが敗れた。


 その噂は、一日で学院中に広がった。


 朝の訓練場。

 相手は実技特例の編入生。

 時間は三秒。

 しかも、刀を抜かせることすらできなかった。


 噂は、ただの実力話では終わらない。


 ロイ・オルディスは境界軍と繋がりがある。

 《蒼刃》セレス・アーヴェインに名を呼ばれていた。

 《翠門》の異常調査にも関わっている。

 学内序列戦前に、妙な編入生が現れた。


 それらは少しずつ混ざり、熱を持ち始めた。


「優遇されすぎだろ」


「実技特例って、どこまで本当なんだ?」


「境界軍が来てから急に目立ち始めたよな」


「ガレス先輩も不意を突かれただけじゃないのか」


「十一重制御とか、教師が盛ってるだろ」


 廊下で。食堂で。訓練場で。


 ロイへ向けられる視線は、明らかに変わっていた。


 好奇心ではない。


 警戒と、不満。


 そして嫉妬。


 それでもロイは、いつも通りだった。


 ミナは隣を歩きながら、周囲の空気に肩をすくめた。


「すごい見られてるね」


「そうだな」


「気にしてる?」


「数は増えた」


「気にしてるっていうより、観測してるだけだよね、それ」


 ロイは答えなかった。


 ヴァルターは少し離れた位置を歩いている。以前より口数は少ないが、逃げているわけではない。むしろ、周囲の視線を正面から受け止めていた。


 リアナも、必要以上に前へ出ない。


 ロイの代わりに説明することも、噂を止めようとすることもしない。


 彼女自身、分かっていた。


 ロイへの不満は、言葉で消せるものではない。


 むしろ、庇いすぎれば火に油を注ぐ。


 だから今は見る。


 誰が、どの程度の感情で動いているのかを。



 午前の実技授業では、学内序列戦に向けた基礎測定が行われた。


 王立学院は四年制である。


 一年は基礎。

 二年は実習。

 三年は専門分化。

 四年は卒業試験と実戦派遣。


 そして、学院には学生たちの実力を示す制度がある。


 **学内序列**。


 学年ごとの序列と、学院全体の総合序列。


 実技、戦術、迷宮実績、模擬戦、班行動、属性制御、指揮能力。それらを総合して決められる、学院内の戦闘評価だった。


 総合上位に名を載せるのは、ほとんどが三年と四年だ。


 二年で総合序列に絡む者は稀。

 一年で名が挙がれば、それだけで天才扱いされる。


 だからこそ、二年の編入生であるロイが注目を集めるのは当然だった。


 エルナ教官が訓練場に並ぶ生徒たちを見渡す。


「今日は基本測定だ。出力、制御、反応、継続。序列戦の正式評価ではないが、参考値として記録される。無理に見栄を張って壊れるな」


 測定が始まった。


 ヴァルターは高い数値を出した。


 土属性の出力、防御展開、持続力。どれも二年上位にふさわしい。


 リアナは制御と対応速度で高評価。


 ミナは支援制御と拘束精度で目立った。


 そしてロイの番が来る。


 訓練場の空気が変わった。


 誰もが見ていた。


 ロイは水晶の前に立つ。


「魔力制御。まずは単一制御から」


 測定担当の教師が言う。


 ロイは水晶に指を置いた。


 黒い雷が、細く水晶の中を走る。


 水晶は揺れなかった。


「……安定値、最高域」


 教師の声が少し止まる。


「次、二重制御」


 水晶の中で、黒雷が二本に分かれる。


 それぞれが別の速度で回りながら、衝突せずに同時に流れ続ける。


「二重、安定」


 周囲がざわめく。


 二重制御は、それだけで上級扱いだ。


「三重」


 三本。


 まだ揺れない。


「四重」


 四本。


 水晶の中を、黒い雷が異なる軌道で走る。だが、互いに干渉しない。


 教師の顔が固まっていく。


「五重……」


 その時点で、訓練場のざわめきは消えていた。


 五重並列。


 教師でも扱える者は限られる。


 ロイは表情を変えない。


「まだやるのか」


 教師が一瞬、言葉を失った。


「……続けろ」


 六。

 七。

 八。


 黒雷は水晶の中で増えていく。


 九。


 十。


 十一。


 水晶の内部が、黒い雷の網で満たされた。


 だが、割れない。

 揺れない。

 濁らない。


 十一の雷が、それぞれ別の命令を持ちながら、完全に制御されていた。


 エルナ教官が低く呟く。


「……これで上限ではない、か」


 その声は、周囲の生徒には聞こえなかった。


 しかし、結果は見えていた。


 測定担当の教師が、乾いた声で告げる。


「十一重制御、安定」


 訓練場が凍った。


 ロイは指を離す。


 黒雷は跡形もなく消えた。


「次は?」


 教師は数秒黙り、資料を見た。


「……反応測定だ」



 授業が終わる頃には、不満はさらに濃くなっていた。


 ロイの測定値は、明らかに異常だった。


 だが、それを素直に認められる者ばかりではない。


「水晶が壊れてたんじゃないのか」


「黒い雷ってだけで判定が狂ったんだろ」


「十一重とか、あり得ない」


「境界軍が来てるから、教師も持ち上げてるんじゃないか」


 疑いは、負け惜しみに近かった。


 けれど、負け惜しみも集まれば空気になる。


 昼休み。


 ロイが食堂へ向かう途中、数人の生徒が進路を塞いだ。


 今度は二年生だった。


 同級生。


 その中に、実技班の徽章をつけた男子生徒がいる。


「ロイ・オルディス」


 彼は声を抑えていたが、怒りは隠せていなかった。


「何だ」


「お前、何様のつもりだ」


「質問の意味が分からない」


「境界軍に呼ばれて、教師に特別扱いされて、上級生を潰して、今度は測定で化け物みたいな数字を出す。楽しいか?」


 周囲に生徒が集まり始める。


 ミナが小さく顔をしかめた。


 ヴァルターは前に出ようとして、止まった。


 リアナも動かない。


 ここで割って入れば、ロイがまた庇われたと言われる。


 ロイは相手を見た。


「楽しくはない」


「ふざけるなよ」


 男子生徒の声が荒くなる。


「俺たちはずっとここで積み上げてきた。学内序列に載るために、毎日訓練して、迷宮に入って、実績を作ってきた。それをお前は、途中から来て全部持っていくのか」


「持っていく?」


「《蒼刃》に声をかけられて、教師に見られて、序列戦でも注目される。気に入らないんだよ」


「そうか」


 ロイの返事は短い。


 その短さが、さらに相手を苛立たせた。


「そうか、じゃねえ!」


 男子生徒がロイの胸ぐらを掴もうとした。


 その瞬間。


 空気が落ちた。


 音が消えたように、周囲の生徒たちが動きを止める。


 ロイは刀を抜いていない。


 黒雷も出していない。


 ただ、視線を向けただけだった。


 それなのに、男子生徒の手は途中で止まった。


 指先が震えている。


 ロイの目は冷たかった。


「触るな」


 低い声だった。


 怒鳴ってはいない。


 だが、その一言で、食堂前の廊下が凍りつく。


 生徒同士の威嚇ではない。


 模擬戦で見せる気迫でもない。


 もっと静かで、もっと危険なもの。


 近づけば、壊される。


 そう本能に思わせる圧だった。


 男子生徒の喉が鳴る。


「っ……」


 ロイは一歩も動かない。


「積み上げたものがあるなら、胸ぐらではなく訓練場で出せ」


 《黒鳴》の鞘の奥で、黒雷がほんの一瞬だけ鳴った。


「ここで手を出すなら、怪我では済ませない」


 誰も声を出せなかった。


 その時だった。


「そこまでだ」


 低い声が、廊下に落ちた。


 灰色の外套をまとった境界軍の兵士が、一歩前に出ていた。


 セレスの小隊にいた男だ。


 名は知られていない。境界名簿に載る者でもない。だが、彼の立つ場所だけ空気が変わる。


 兵士はまずロイへ目を向け、わずかに姿勢を正した。


「ロイ殿。ここは自分が引き受けます」


「ああ」


 その短いやり取りだけで、周囲の空気が変わった。


 境界軍の兵士が。


 学院生たちの憧れである、あの境界軍の人間が。


 編入生であるロイに、明らかな敬意を払った。


 男子生徒の顔が歪む。


「な、何で……」


 兵士は男子生徒を見る。


 ロイへ向けたものとは、声の温度が違っていた。


「お前は下がれ」


「俺はただ――」


「黙れ」


 兵士は男子生徒の手首を掴んだ。


 力を入れたようには見えなかった。


 だが、男子生徒は痛みに顔を歪める。


「今のは訓練でも挑戦でもない。ただの私闘未遂だ。ここで手を出せば、お前だけでなく周りの生徒も巻き込む」


「だから俺は――」


「分かっていないから止めている」


 兵士の声が、わずかに低くなった。


「自分が何に手を伸ばしたかも分からず、怒りだけで動くな。腕が折れるだけで済めば幸運だったぞ」


 周囲が息を呑む。


 ロイ殿。


 敬意。


 そして、自分たち生徒へ向けられる冷たい命令口調。


 境界軍の兵士が引いた線は、あまりにも明確だった。


 ロイと、自分たち。


 同じ学院にいるはずなのに、扱いが違う。


 その事実が、嫉妬をさらに濃くする。


 兵士は手を離した。


 男子生徒は数歩下がり、悔しさと恐怖の混じった顔でロイを睨んだ。


「……序列戦で、絶対に引きずり下ろす」


「出るなら相手をする」


 ロイはそれだけ言った。


 境界軍の兵士が、さらに一歩だけ前へ出る。


「挑むなら規則に従え。嫉妬で近づくな。命を粗末にするな」


 その言葉は、男子生徒だけに向けたものではなかった。


 廊下に集まった全員に向けたものだった。


 誰も反論しない。


 兵士は改めてロイへ向き直る。


「差し出がましい真似をしました」


「助かった」


「恐れ入ります」


 兵士は軽く頷き、その場を離れた。


 圧が消え、廊下に音が戻る。


 ミナが浅く息を吸った。


「……今の、怖かった」


「悪かった」


 ロイが言う。


 ミナは目を瞬いた。


「謝るんだ」


「味方に向けるものではなかった」


「……そっか」


 ヴァルターは去っていく境界軍の兵士を見ていた。


「ロイ殿、か」


 その声には、明確な動揺があった。


 境界軍の兵士が、ただの学院生に使う呼び方ではない。


 リアナも同じことに気づいていた。


 けれど、今は聞かなかった。


 聞いても、ロイは必要なら話すとしか言わないだろう。



 食堂の空気は重かった。


 ミナは席についてからもしばらく黙っていた。


 ヴァルターも口数が少ない。


 リアナはロイを見ていたが、責めるような目ではなかった。


 やがて、静かに言う。


「さっきの相手の言い分は間違っている部分も多い。でも、感情としては理解できるわ」


「ああ」


「あなたに非があるという意味ではない。ただ、あなたが目立てば、ああいう相手は増える」


「そうだろうな」


「だから、私が前に出すぎるのもやめる」


 ロイはリアナを見る。


 リアナは続ける。


「あなたを庇えば、余計に反感を買う場面もある。必要な時は班として動く。でも、それ以外はあなた自身が処理した方がいい」


「分かった」


「ただし、やりすぎないで」


「どこからだ」


「相手が再起不能になったら、やりすぎよ」


「分かりやすい」


 ミナが小さく笑った。


「そこ基準なんだ……」


 少しだけ空気が緩む。


 ヴァルターが口を開いた。


「ロイ。さっきの圧は、意識して出したのか」


「途中からは」


「途中から?」


「最初は反応した。止めた後、少し乗せた」


「少し……」


 ヴァルターは言葉を失う。


 ミナが顔を引きつらせた。


「少しであれなの?」


「強くは出していない」


「出したらどうなるの」


 ロイは少し考えた。


「たぶん、何人か動けなくなる」


 ミナはパンを置いた。


「聞かなきゃよかった」


 リアナは小さく息を吐く。


「それも、学内では不用意に使わないで」


「分かった」


「本当に?」


「使うなら訓練場にする」


「使わない方向で考えて」


「分かった」


 ヴァルターは、ロイの返答を聞きながら目を伏せた。


 彼もまた、学内序列を目指している。


 境界名簿に憧れている。


 だが、今のロイは、学院の序列という塔の外側から来た何かのように見えた。


 それを認めるのは、悔しい。


 悔しいが、無視はできない。



 その日の夕方。


 三年棟の一室では、数人の上級生が集まっていた。


 ガレス・ロウガンもそこにいる。


 朝の敗北以来、彼の機嫌は悪い。


 机の上には、学内序列戦の予選表が置かれている。


「二年の編入生が調子に乗りすぎだ」


 一人が言った。


「境界軍がいるからって、教師も甘い」


「測定で十一重だと? あり得るかよ」


「しかも境界軍の兵士が、あいつに敬語を使ったらしい」


 部屋の空気が変わった。


「敬語?」


「ああ。ロイ殿、だとさ」


「何だそれ」


「ただの編入生に使う呼び方じゃないだろ」


「こっちには普通に命令口調だったらしいぞ」


「ますます気に入らねえな」


 不満は、さらに濃くなる。


 嫉妬は、形を変えて膨らんでいく。


 ガレスは黙っていた。


 敗れた本人として、軽々しく口を出せない。


 その沈黙を見て、別の三年生が笑う。


「ガレス、お前も黙ってていいのか? あいつに三秒だったんだろ」


 ガレスの拳が机を叩いた。


「黙れ」


 部屋が静まる。


「俺は油断した。だが、あいつが弱いとは言わない」


「認めるのか」


「認める。だからこそ、潰すなら半端な挑発では無理だ」


 ガレスは予選表を見る。


「序列戦で引きずり出す。観衆の前で。教師と境界軍の前で」


「負けたら?」


 ガレスは歯を食いしばる。


「負けない」


 その声に、嫉妬と悔しさが滲んでいた。


 ロイ・オルディス。


 得体の知れない編入生。


 境界軍に名を呼ばれ、《蒼刃》に認識され、境界軍の兵士に敬意を払われ、学内序列戦前に注目を奪った男。


 彼を認めたくない者たちが、少しずつ動き始めていた。



 夜。


 ロイは寮室で《黒鳴》を机に置いた。


 朝に見たばかりだが、昼に圧を出した時、鞘の奥で黒雷が一度鳴った。戦闘はしていない。だが、魔力を通したなら確認する。


 命を預ける武器だからだ。


 刀は、抜く時だけ武器になるわけではない。

 鞘も、柄も、導雷軌条も、全てがロイの戦闘を支える。


 一つでも狂えば、必要な瞬間に遅れる。


 ロイは布で鞘を拭い、黒雷を細く通す。


 異常なし。


 その時、窓の外。


 北区画の方角で、かすかに黒い波が揺れた。


 《翠門》ではない。


 もっと浅い。


 学院の地下に近い場所。


 ロイは手を止めた。


 外域反応は、予想より早く学院側へ伸びている。


 学内序列戦。


 嫉妬。


 挑戦。


 そして、地下から迫る黒い根。


 全てが、同じ場所へ向かっていた。


 ロイは《黒鳴》を鞘へ戻した。


「面倒だな」


 その声に、苛立ちは少ない。


 ただ、必要なら斬るという静かな判断だけがあった。


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