第11話 火種
ロイ・オルディスは、朝の鐘が鳴るより前に目を覚ました。
寮室の机の上には、界刀《黒鳴》が置かれている。
黒い鞘。装飾の少ない柄。光を吸うような刀身。
ロイは布を取り、鞘の縁を拭った。次に導雷軌条の反応を確かめる。鞘内に微弱な黒雷を通し、引っかかりがないか確認する。柄の締まり。鍔の歪み。蓄雷炉の熱残り。刀身の刃こぼれ。
一つずつ、淡々と見ていく。
これは癖ではない。
命を預ける武器だからだ。
武器の不調は、自分だけでなく、隣にいる者も殺す。だからロイは毎朝、毎晩、そして戦闘の前後に《黒鳴》を見る。
異常はない。
ロイは《黒鳴》を腰に差し、部屋を出た。
◇
三年序列二十一位、ガレス・ロウガンが敗れた。
その噂は、一日で学院中に広がった。
朝の訓練場。
相手は実技特例の編入生。
時間は三秒。
しかも、刀を抜かせることすらできなかった。
噂は、ただの実力話では終わらない。
ロイ・オルディスは境界軍と繋がりがある。
《蒼刃》セレス・アーヴェインに名を呼ばれていた。
《翠門》の異常調査にも関わっている。
学内序列戦前に、妙な編入生が現れた。
それらは少しずつ混ざり、熱を持ち始めた。
「優遇されすぎだろ」
「実技特例って、どこまで本当なんだ?」
「境界軍が来てから急に目立ち始めたよな」
「ガレス先輩も不意を突かれただけじゃないのか」
「十一重制御とか、教師が盛ってるだろ」
廊下で。食堂で。訓練場で。
ロイへ向けられる視線は、明らかに変わっていた。
好奇心ではない。
警戒と、不満。
そして嫉妬。
それでもロイは、いつも通りだった。
ミナは隣を歩きながら、周囲の空気に肩をすくめた。
「すごい見られてるね」
「そうだな」
「気にしてる?」
「数は増えた」
「気にしてるっていうより、観測してるだけだよね、それ」
ロイは答えなかった。
ヴァルターは少し離れた位置を歩いている。以前より口数は少ないが、逃げているわけではない。むしろ、周囲の視線を正面から受け止めていた。
リアナも、必要以上に前へ出ない。
ロイの代わりに説明することも、噂を止めようとすることもしない。
彼女自身、分かっていた。
ロイへの不満は、言葉で消せるものではない。
むしろ、庇いすぎれば火に油を注ぐ。
だから今は見る。
誰が、どの程度の感情で動いているのかを。
◇
午前の実技授業では、学内序列戦に向けた基礎測定が行われた。
王立学院は四年制である。
一年は基礎。
二年は実習。
三年は専門分化。
四年は卒業試験と実戦派遣。
そして、学院には学生たちの実力を示す制度がある。
**学内序列**。
学年ごとの序列と、学院全体の総合序列。
実技、戦術、迷宮実績、模擬戦、班行動、属性制御、指揮能力。それらを総合して決められる、学院内の戦闘評価だった。
総合上位に名を載せるのは、ほとんどが三年と四年だ。
二年で総合序列に絡む者は稀。
一年で名が挙がれば、それだけで天才扱いされる。
だからこそ、二年の編入生であるロイが注目を集めるのは当然だった。
エルナ教官が訓練場に並ぶ生徒たちを見渡す。
「今日は基本測定だ。出力、制御、反応、継続。序列戦の正式評価ではないが、参考値として記録される。無理に見栄を張って壊れるな」
測定が始まった。
ヴァルターは高い数値を出した。
土属性の出力、防御展開、持続力。どれも二年上位にふさわしい。
リアナは制御と対応速度で高評価。
ミナは支援制御と拘束精度で目立った。
そしてロイの番が来る。
訓練場の空気が変わった。
誰もが見ていた。
ロイは水晶の前に立つ。
「魔力制御。まずは単一制御から」
測定担当の教師が言う。
ロイは水晶に指を置いた。
黒い雷が、細く水晶の中を走る。
水晶は揺れなかった。
「……安定値、最高域」
教師の声が少し止まる。
「次、二重制御」
水晶の中で、黒雷が二本に分かれる。
それぞれが別の速度で回りながら、衝突せずに同時に流れ続ける。
「二重、安定」
周囲がざわめく。
二重制御は、それだけで上級扱いだ。
「三重」
三本。
まだ揺れない。
「四重」
四本。
水晶の中を、黒い雷が異なる軌道で走る。だが、互いに干渉しない。
教師の顔が固まっていく。
「五重……」
その時点で、訓練場のざわめきは消えていた。
五重並列。
教師でも扱える者は限られる。
ロイは表情を変えない。
「まだやるのか」
教師が一瞬、言葉を失った。
「……続けろ」
六。
七。
八。
黒雷は水晶の中で増えていく。
九。
十。
十一。
水晶の内部が、黒い雷の網で満たされた。
だが、割れない。
揺れない。
濁らない。
十一の雷が、それぞれ別の命令を持ちながら、完全に制御されていた。
エルナ教官が低く呟く。
「……これで上限ではない、か」
その声は、周囲の生徒には聞こえなかった。
しかし、結果は見えていた。
測定担当の教師が、乾いた声で告げる。
「十一重制御、安定」
訓練場が凍った。
ロイは指を離す。
黒雷は跡形もなく消えた。
「次は?」
教師は数秒黙り、資料を見た。
「……反応測定だ」
◇
授業が終わる頃には、不満はさらに濃くなっていた。
ロイの測定値は、明らかに異常だった。
だが、それを素直に認められる者ばかりではない。
「水晶が壊れてたんじゃないのか」
「黒い雷ってだけで判定が狂ったんだろ」
「十一重とか、あり得ない」
「境界軍が来てるから、教師も持ち上げてるんじゃないか」
疑いは、負け惜しみに近かった。
けれど、負け惜しみも集まれば空気になる。
昼休み。
ロイが食堂へ向かう途中、数人の生徒が進路を塞いだ。
今度は二年生だった。
同級生。
その中に、実技班の徽章をつけた男子生徒がいる。
「ロイ・オルディス」
彼は声を抑えていたが、怒りは隠せていなかった。
「何だ」
「お前、何様のつもりだ」
「質問の意味が分からない」
「境界軍に呼ばれて、教師に特別扱いされて、上級生を潰して、今度は測定で化け物みたいな数字を出す。楽しいか?」
周囲に生徒が集まり始める。
ミナが小さく顔をしかめた。
ヴァルターは前に出ようとして、止まった。
リアナも動かない。
ここで割って入れば、ロイがまた庇われたと言われる。
ロイは相手を見た。
「楽しくはない」
「ふざけるなよ」
男子生徒の声が荒くなる。
「俺たちはずっとここで積み上げてきた。学内序列に載るために、毎日訓練して、迷宮に入って、実績を作ってきた。それをお前は、途中から来て全部持っていくのか」
「持っていく?」
「《蒼刃》に声をかけられて、教師に見られて、序列戦でも注目される。気に入らないんだよ」
「そうか」
ロイの返事は短い。
その短さが、さらに相手を苛立たせた。
「そうか、じゃねえ!」
男子生徒がロイの胸ぐらを掴もうとした。
その瞬間。
空気が落ちた。
音が消えたように、周囲の生徒たちが動きを止める。
ロイは刀を抜いていない。
黒雷も出していない。
ただ、視線を向けただけだった。
それなのに、男子生徒の手は途中で止まった。
指先が震えている。
ロイの目は冷たかった。
「触るな」
低い声だった。
怒鳴ってはいない。
だが、その一言で、食堂前の廊下が凍りつく。
生徒同士の威嚇ではない。
模擬戦で見せる気迫でもない。
もっと静かで、もっと危険なもの。
近づけば、壊される。
そう本能に思わせる圧だった。
男子生徒の喉が鳴る。
「っ……」
ロイは一歩も動かない。
「積み上げたものがあるなら、胸ぐらではなく訓練場で出せ」
《黒鳴》の鞘の奥で、黒雷がほんの一瞬だけ鳴った。
「ここで手を出すなら、怪我では済ませない」
誰も声を出せなかった。
その時だった。
「そこまでだ」
低い声が、廊下に落ちた。
灰色の外套をまとった境界軍の兵士が、一歩前に出ていた。
セレスの小隊にいた男だ。
名は知られていない。境界名簿に載る者でもない。だが、彼の立つ場所だけ空気が変わる。
兵士はまずロイへ目を向け、わずかに姿勢を正した。
「ロイ殿。ここは自分が引き受けます」
「ああ」
その短いやり取りだけで、周囲の空気が変わった。
境界軍の兵士が。
学院生たちの憧れである、あの境界軍の人間が。
編入生であるロイに、明らかな敬意を払った。
男子生徒の顔が歪む。
「な、何で……」
兵士は男子生徒を見る。
ロイへ向けたものとは、声の温度が違っていた。
「お前は下がれ」
「俺はただ――」
「黙れ」
兵士は男子生徒の手首を掴んだ。
力を入れたようには見えなかった。
だが、男子生徒は痛みに顔を歪める。
「今のは訓練でも挑戦でもない。ただの私闘未遂だ。ここで手を出せば、お前だけでなく周りの生徒も巻き込む」
「だから俺は――」
「分かっていないから止めている」
兵士の声が、わずかに低くなった。
「自分が何に手を伸ばしたかも分からず、怒りだけで動くな。腕が折れるだけで済めば幸運だったぞ」
周囲が息を呑む。
ロイ殿。
敬意。
そして、自分たち生徒へ向けられる冷たい命令口調。
境界軍の兵士が引いた線は、あまりにも明確だった。
ロイと、自分たち。
同じ学院にいるはずなのに、扱いが違う。
その事実が、嫉妬をさらに濃くする。
兵士は手を離した。
男子生徒は数歩下がり、悔しさと恐怖の混じった顔でロイを睨んだ。
「……序列戦で、絶対に引きずり下ろす」
「出るなら相手をする」
ロイはそれだけ言った。
境界軍の兵士が、さらに一歩だけ前へ出る。
「挑むなら規則に従え。嫉妬で近づくな。命を粗末にするな」
その言葉は、男子生徒だけに向けたものではなかった。
廊下に集まった全員に向けたものだった。
誰も反論しない。
兵士は改めてロイへ向き直る。
「差し出がましい真似をしました」
「助かった」
「恐れ入ります」
兵士は軽く頷き、その場を離れた。
圧が消え、廊下に音が戻る。
ミナが浅く息を吸った。
「……今の、怖かった」
「悪かった」
ロイが言う。
ミナは目を瞬いた。
「謝るんだ」
「味方に向けるものではなかった」
「……そっか」
ヴァルターは去っていく境界軍の兵士を見ていた。
「ロイ殿、か」
その声には、明確な動揺があった。
境界軍の兵士が、ただの学院生に使う呼び方ではない。
リアナも同じことに気づいていた。
けれど、今は聞かなかった。
聞いても、ロイは必要なら話すとしか言わないだろう。
◇
食堂の空気は重かった。
ミナは席についてからもしばらく黙っていた。
ヴァルターも口数が少ない。
リアナはロイを見ていたが、責めるような目ではなかった。
やがて、静かに言う。
「さっきの相手の言い分は間違っている部分も多い。でも、感情としては理解できるわ」
「ああ」
「あなたに非があるという意味ではない。ただ、あなたが目立てば、ああいう相手は増える」
「そうだろうな」
「だから、私が前に出すぎるのもやめる」
ロイはリアナを見る。
リアナは続ける。
「あなたを庇えば、余計に反感を買う場面もある。必要な時は班として動く。でも、それ以外はあなた自身が処理した方がいい」
「分かった」
「ただし、やりすぎないで」
「どこからだ」
「相手が再起不能になったら、やりすぎよ」
「分かりやすい」
ミナが小さく笑った。
「そこ基準なんだ……」
少しだけ空気が緩む。
ヴァルターが口を開いた。
「ロイ。さっきの圧は、意識して出したのか」
「途中からは」
「途中から?」
「最初は反応した。止めた後、少し乗せた」
「少し……」
ヴァルターは言葉を失う。
ミナが顔を引きつらせた。
「少しであれなの?」
「強くは出していない」
「出したらどうなるの」
ロイは少し考えた。
「たぶん、何人か動けなくなる」
ミナはパンを置いた。
「聞かなきゃよかった」
リアナは小さく息を吐く。
「それも、学内では不用意に使わないで」
「分かった」
「本当に?」
「使うなら訓練場にする」
「使わない方向で考えて」
「分かった」
ヴァルターは、ロイの返答を聞きながら目を伏せた。
彼もまた、学内序列を目指している。
境界名簿に憧れている。
だが、今のロイは、学院の序列という塔の外側から来た何かのように見えた。
それを認めるのは、悔しい。
悔しいが、無視はできない。
◇
その日の夕方。
三年棟の一室では、数人の上級生が集まっていた。
ガレス・ロウガンもそこにいる。
朝の敗北以来、彼の機嫌は悪い。
机の上には、学内序列戦の予選表が置かれている。
「二年の編入生が調子に乗りすぎだ」
一人が言った。
「境界軍がいるからって、教師も甘い」
「測定で十一重だと? あり得るかよ」
「しかも境界軍の兵士が、あいつに敬語を使ったらしい」
部屋の空気が変わった。
「敬語?」
「ああ。ロイ殿、だとさ」
「何だそれ」
「ただの編入生に使う呼び方じゃないだろ」
「こっちには普通に命令口調だったらしいぞ」
「ますます気に入らねえな」
不満は、さらに濃くなる。
嫉妬は、形を変えて膨らんでいく。
ガレスは黙っていた。
敗れた本人として、軽々しく口を出せない。
その沈黙を見て、別の三年生が笑う。
「ガレス、お前も黙ってていいのか? あいつに三秒だったんだろ」
ガレスの拳が机を叩いた。
「黙れ」
部屋が静まる。
「俺は油断した。だが、あいつが弱いとは言わない」
「認めるのか」
「認める。だからこそ、潰すなら半端な挑発では無理だ」
ガレスは予選表を見る。
「序列戦で引きずり出す。観衆の前で。教師と境界軍の前で」
「負けたら?」
ガレスは歯を食いしばる。
「負けない」
その声に、嫉妬と悔しさが滲んでいた。
ロイ・オルディス。
得体の知れない編入生。
境界軍に名を呼ばれ、《蒼刃》に認識され、境界軍の兵士に敬意を払われ、学内序列戦前に注目を奪った男。
彼を認めたくない者たちが、少しずつ動き始めていた。
◇
夜。
ロイは寮室で《黒鳴》を机に置いた。
朝に見たばかりだが、昼に圧を出した時、鞘の奥で黒雷が一度鳴った。戦闘はしていない。だが、魔力を通したなら確認する。
命を預ける武器だからだ。
刀は、抜く時だけ武器になるわけではない。
鞘も、柄も、導雷軌条も、全てがロイの戦闘を支える。
一つでも狂えば、必要な瞬間に遅れる。
ロイは布で鞘を拭い、黒雷を細く通す。
異常なし。
その時、窓の外。
北区画の方角で、かすかに黒い波が揺れた。
《翠門》ではない。
もっと浅い。
学院の地下に近い場所。
ロイは手を止めた。
外域反応は、予想より早く学院側へ伸びている。
学内序列戦。
嫉妬。
挑戦。
そして、地下から迫る黒い根。
全てが、同じ場所へ向かっていた。
ロイは《黒鳴》を鞘へ戻した。
「面倒だな」
その声に、苛立ちは少ない。
ただ、必要なら斬るという静かな判断だけがあった。




