9. 悪党貴族は金を貸しました
「ハンカチなど必要ない」
旦那様はハンカチを拒否しました。
「袖で十分だ。美しい刺繍が涙で汚れてしまう」
拒否されたことに驚く間もなくそんな答えが返ってきて、そういう人なのだと思いました。
皆、この対応に慣れ、絆されてゆく。だから本人たちも知らずのうちに勢力化していく。
これは命令に関係することです。ですから、私は何もおかしな選択はしていません。
私は、旦那様自体を観察し、監視することにしました。
ある時は、老年の執事長が顔を青ざめていました。旦那様は何かのチケットを彼に押し付けます。
「二か月だ。二か月やろう」
「……そんな、無理です」
彼は手が震えていて、チケットを落としてしまいました。
どう考えても、無理な要求を飲ませている図です。
が、旦那様は落ちたチケットを拾い、もう一度優しく手の上に乗せました。
「勤続五十年の祝いくらいさせてくれ」
「いいえ、二か月もこの家を離れて旅行なんてできません!」
使用人を愛する主人と、主人を愛する使用人の姿でした。
結局、ボーモント伯爵ともこうしようと決めていたと話し、受け取った上で執事長が行きたい機会に使うという話になりました。
またある時はメイド長補佐が必死に懇願していました。
「ど、どうか退職させてください」
「いいや、貴様を失うのは惜しい」
メイド長補佐がどうして辞めたいのかを語っても、旦那様は聞く耳を持ちません。
「休みをやる。全てが済んだら、子と共に帰ってこい。貴様の職場はここにある」
子を育てるにも職が必要だろう、と仰る旦那様にメイド長補佐は涙していました。どうやら、数か月前にご病気で亡くなった旦那さんと子供が出来ていたことが今になって判明したらしいのでした。
長期で働けなくなった使用人は解雇するものなのですが、その地位を残しておくとは、一体。
「貴様が目をかけている部下に経験を積ませる機会にもなるだろう」
メイド長補佐はずっと感謝していました。後で、彼女の故郷は貧しく、あまり良い思い出がないのだと聞いたことがあったのだと、旦那様は教えてくださいました。
今度は、料理人とパーラーメイドが大喧嘩していました。周りが止めようとする中、旦那様は大笑いし、その場にとどまります。
「面白い。ほら、続けるといい」
醜い争いで賭けをしている悪人の姿です。しかし、訓練された使用人はまったく動じません。
「どちらが悪いかはここにいる皆が決めてくれるだろう。仲直りまでしてしまえ。だから、子供のいる家で夫婦喧嘩はやめておけ」
後に続く言葉を知っているからです。結果として、喧嘩する前に話し合いが足りなかったお互いが悪いという話になり、料理人は靴下を裏返したままにしないこと、パーラーメイドは帰ってきてすぐには叱らないこととなりました。
「フレヤ、何か不満があったらああなる前に伝えてくれ」
「かしこまりました」
旦那様は他人の振りを見て我が振りを直す方でした。夜会の裏会場に連れて行き、本当の悪党を見せればよいのではないかと、わずかによぎりました。私が側にいればよい話だと、そう考えなおしました。
観察を続けていく中で、旦那様の奇行は続きました。
あれは、皆を愛する旦那様はもうすっかりわかってきて、それでもまだ何かがわからない頃でした。
ボーモント家と対立していた伯爵家が我が家を訪ねてきました。どうやら事業で失敗した上に、本家であるブルックス侯爵家には見限られ、羽振りが良くどこにも属していないボーモント家に金を借りに来たようでした。
応接室に旦那様の低い声が響きます。
「成り上がりの我が家を頼るとは、落ちたものだなぁ。借金が金貨100枚とは……貴様の一生で返せるとは到底思えん」
旦那様は伯爵の胸元を掴み、その紅い瞳で覗き込みます。恐怖で腰を抜かしたところで手を離し、伯爵は床に崩れ落ちました。
「せいぜい努力することだな」
ニヤリと嗤って、それだけ。旦那様はマントを翻して去ってしまい、私は唖然とします。
利子について、何も話していません。借用書にも書いてありません。それでは、単なるいい人です。十日に一割の利子を取るのが普通でしょう。
なにより、ブルックスが見限った理由がわかりません。今になってその名が出てきたことには、何か意味があるでしょう。
私は紙と筆ペンを取りました。
「こちら、サインしていただけます?」
腰を抜かした伯爵に追加の書類にサインさせました。
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「日を追うごとに可愛くなっている気がする……」
借用書を眺めつつ、執務室で頭を抱える。
政敵である伯爵家がブルックスの派閥の者だと知り、久々に氷の姫君として冷ややかに相手に接していたフレヤを見て、普段の姿がどれだけ変わったのか思い知った。




