思い違い
半月の薄ぼんやりとした暗闇の中、見えない圧力を感じる。正体不明で、ウミもユイも見えないってアレなんやろうな。僕はもう一度言う。
「さっきからお前の名を口にする度、遠くから俺らのことを監視しとったんやろがい、犬神よ!」
「ぐるるるるる……」
「なんとか言え!もう俺は経験済みやぞ!なんかようわからんお前みたいな存在は!」
そう、もう経験したよ、子泣きじじいでな。その時リュックに刺した風車が勢いよくクルクル回った!あいつ!僕の胸は急に熱くなった。それから……あれ?なんも起きんけど。
「風が吹いたら回るわよ、当たり前でしょ、バカなの?」
あ、山間だから風がよく通るんだな、ここ。なんか熱い展開期待して損した!クソガキめ、ふふ。期待は外れたけど、つい笑みが出た。
「まあええ、聞け!犬神。色々あったんやろうけど、もう今はなんも無いやないか。いつまでそうやって人を怖がらせるんや?あ?聞いとんのか?」
「ソラ……」とユイが言う。「今さらだけど、あなた大蛇の時にカッパのサブロウさんを通訳にしてなかった?人の言葉を蛇はわからんとかなんとか言って」
「あ、そうやった……どうしよう?ユイ。俺なんか一人で恥ずかしい感じ?」
「ソラはいつでも恥ずかしいから影響ないわよ」
さよか……。
まあそもそも野犬に人間が話しかけたからといって人語が理解できるわけないわな。子犬の頃に埋められて餓死させられたってことならなおさらか。お手もおかわりも知らんまま恨みつらみだけで、ある意味邪神になったわけだろうし。よく言葉も通じず使役させられたもんだな、しかし。
「ずっと怒り続けるなんて悲しすぎるぞ」と僕は独り言を言う。
「ウ~」と建物の暗闇の中から声。
「苦しみや悲しみはわからんでもないけど」
「ウウ~ガウゥ」
「どうやったらお前は穏やかになれるんだ?」
「グワワン」
ようわからんリアクションやな……ん?リアクションだと?
「ユイ!ウミ!」
「なによ」
「うん?」
「こいつ、俺の言葉に反応してないか?」
「さっきからそんな気がするわね」
「ちゃんとソラ君が言い終わるの待って吠えている気がするよ」
「ガウガウガウガウ!」
ウミの言葉が終わってからさらに激昂している気がする。なんだ?
僕も「ワワワワ、ワン!」犬語のつもり。
「もう、相変わらずバカなの?ソラ」とユイが突っ込む。
暗闇からは反応ない。ん~、これってさ、なんか前提覆るんですけど!
「改めて犬神!」
「……ぐるるるるる」
「お前、俺の言う事わかるのか?」
「……」
このいけず。
「まあええわ。お前は『い、ぬ、が、み』なのか?」こいつそもそも野犬じゃなく元飼い犬やぞ多分!ある程度言葉理解してる。
「ぐわわわん!」
なんか怒ってる気がする。「様」つけなあかんかった?神様だけに。声がずっと建物の屋根のあるところの下から聞こえてるのもなんか違和感あるんだなぁ。神様が濡れたらイヤとかあるんか?そもそも神でもないやろうけど。
「ウミ、相変わらず廃屋の方からはなんも感じない?」
「うん、子泣きさん時と同様、霊の気配は僕には感じない」
「ユイは?」
「手伝わないっていつも言ってるでしょ!あなた達が死にかけない限りは。さっきから空気のゆらぎみたいなのは感じるけど、やっぱり見えないわね」
「やっぱりユイは優しいな」
あ、つい声に出してしまった。
「なに言ってるのよ!」と照れくさそうなユイ。いつも心を読むくせに。
「ワワワワワン!」
放置してお喋りしてたらなんか怒ってるな、これは。
「おすわり!」と試しに言うと、これまでになく怒りをあらわにして「グワワワワワワン!!」と吠え立てる。文字にすると馬鹿みたいだな。でも他に表しようがないもんな。
こいつ……ホントに埋めて餓死させられた子犬か?物凄い違和感を感じるぞ。少なくとも僕の言葉に対して怒りを現しているのは間違いない気がする。これ躾け受けた飼い犬じゃないのか?物凄い怒りなのか恨みなのかどうかわからないけど、神にもなれず悪霊にもなれず、何者にもなれない存在がそこで、怒りで吠え散らかしている——そんな気がする。お前はなんだ?なんでそこにいる?
「ウミ、犬神ってさ、そもそも恨みつらみを持ったまま死んで『家』自体に憑くんだろ?」
「うん、確かそう言われてる」
「でもこいつ、『家』を守ってる感じが全くしないんよな。『家』と言うよりむしろ、自分の縄張りに近づくな!って感じや?」
「確かに……」
ウミも違和感を感じているようだった。
「それに子犬やったらこう……なんというか単純ちゃうか?」
「単純とは?」
「餌、欲しい!腹減った!目の前にご飯あるのに動けない!なんで?なんで?くらいの感情ならわかるわ。でもこいつ、もっとこう複雑にめっちゃ怒っとる気がする。なんか……人間に対してキレてる感じなんよ」
「人間に?それは誰かを呪えって言われてやってるんじゃなくて?」とユイ。
「そもそも犬って人間に対して好意的やん。例えしばかれても健気に尻尾振るような生き物やん。なのにここまで人間そのものに敵意むき出しにするか?ここに近づいただけやぞ、俺ら。こんな殺気放たれるような事してない。犬神の話してただけやん」
そう言った瞬間、廃屋の奥から今までで一番低いうなり声が響いた。
「図星か?」
背筋がゾワっとした。
さらにもう一つ違和感。こいつ、ずっと僕らに対して警戒して、威嚇して、今にも攻撃してきそうな雰囲気なのに、一切その場所から出てこない。これはやっぱり子泣きじじいと一緒ちゃうか!その場から一歩も動けないんとちゃうか?
その瞬間また風車がカラカラと勢いよく回った。!? ……
「だからただの風よ」とユイが静かに言った。
知ってるわ!ガキンチョみんなとじじいも一緒に空に登って楽しくやってるはずだ。そうじゃなきゃ僕らやっとれんわ。
よっしゃ!気合入った。ガキンチョ!関係ないけどサンキュー。バシッと両手で自分の頬を叩いた。
「ほな、俺から行くとするか!待っとけ、犬!2人は待機で」
そう言って僕は廃屋に一人向かうのだった。
「ウ~ギャンギャンギャンギャン!!」
今までと違うトーンで激しく吠える。人を心から拒絶するかのように。
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「ソラ君、一人で大丈夫なん?」心配そうなウミ。
「だってただでさえ人間を恨んでそうやのに、はなから大勢で行くとなおさら不安与えるやろ?」
「不安て……」とウミが言う。
「なんとなくやけど、なんとなくちょっとこいつの事わかってきた気がする」
「ものすごく曖昧ね。もし違ってたらどうすんの?」とユイ。
「ペラペラの紙装甲の盾役舐めんなよ。なんかあったらユイ、頼んだ!」
「なんで死にかけ前提なのよ。もっと死なない努力しなさいよ。あ、私、ママから連絡あったからちょっと席外すけど、しばらく死なないでね!」
「まぁ善処するわ、できるだけ。ってこのタイミングで席外すってか?」
そう言いつつリュックからシャチョゾンで買った手袋を取り出し両手にはめる。こいつはうちの会社の必須アイテム。電動工具使う時につけずに触ると社長にどつきまわされる。それなりに頑丈で、破れたのを見たことがないくらい。細かい作業はできないけど、丈夫さは折り紙付き。コーナンにあってよかった。
せっかく異世界ならなんかマジックアイテムとか欲しいよなぁ。なんで値札ついたままの手袋はめてチャレンジしないといけないのやら。心でボヤキつつ道路を挟んだ崩れかけた廃屋に向かう。吠える声がさらに激しさを増す。子泣きじじいの時よりは心の準備ができているだけマシだ。
かろうじて残った屋根の下の暗闇の中に、より暗いモノを見つけた。暗くて黒い。目には見えないが、見えなさすぎる違和感。黒すぎるんだ。闇より暗くて黒い何か——それがお前の正体だ。
「ガウガウガウ……」激しい威嚇。知っている……。
昔、実家で犬を飼っていた。メスの雑種で「エス」という名前だった。なんでエスなのかは知らない。エムでもよかったんかもしれんけど、まぁどうでもいい。物心ついた時には家にいて、木でできた犬小屋につながれてその周りをウロウロしていた。とてもおとなしくて賢い犬で、小さい僕がかなり無茶な触り方をしても、母親のような目で尻尾を振ってあやしてくれていた記憶がある。
田舎の家は門なんてない。玄関の鍵すらかけない暮らしだった。なので犬も猫も、時には見知らぬ人も庭に入っていることも。田舎の家って基本でかいしなんかいてもよくわからん。
そんなある日、初めてエスに手を噛まれた。いつものようにエスの所に遊びに行くと雰囲気がいつもと違う。あれ?と思いながらも近づいていくと「ぐ~~~」と今までに聞いたことのない威嚇の声。ん?エスの頭を撫でようとするとさっきの「ガウガウガウガウ」という威嚇と、体を振り回してガチガチと口を鳴らしながら空中を噛むしぐさ。鎖がピンと張って体だけがこっちに跳ねてくる。
驚いて棒立ちになっている僕の手を、空中をガチガチとランダムに噛んでいたエスの口が捕らえた。手に激痛が走った。驚いて泣くこともできない。僕はエスを見た。エスは「しまった!」という顔をして、うーうー言いながら尻尾を足の間に丸め込んで犬小屋の中に引っ込んだ。それでもまだグルグルグルっと威嚇の声を上げている。
ようやく僕は放心状態から抜け出し、声を上げて泣いた。家の中から祖母が慌てて走り出てきた。泣いている僕の手を見て「大丈夫、大丈夫」と頭を撫でてくれた。幸い血が出るほどは噛まれていない。脅かすつもりがアクシデントでほんとに噛んでしまって、エスもびっくりしたんだろう。
「エスも赤ちゃんできて気が立っとるんや。許してやり」と。
祖母が「こら!噛んだらいかんやろ!」とエスを叱ると、のそのそと耳をぺたんと寝かせて這い出してきた。どんな時でも餌をくれる祖母には絶対服従だったのだ。そして祖母は犬小屋の中でみんなで固まっているかわいい子犬を見せてくれた。全部で4匹。色んな色をしている。白だの黒だの、パンダみたいなのや茶色っぽいのやら。まだ目が開いていない生まれたての子犬。この子たちを守りたかったんだな。
エスは僕のところに来て手をぺろぺろ舐めてきた。ええんやで……と頭を撫でると、少し誇らしげに下から僕の目を覗き込んでいた。
そう、あの時の声だ……。警戒心マックスの、来たら噛むぞという怒りと……恐怖、恐れ、怯え。何かされるんではないかという不安で、必死で戦おうとする決意の声だ。
ふっ、どうせ僕が噛まれたらいいんだろ、噛まれたら……。
暗闇の中でさらに黒く暗い場所に、僕は右手を差し込んだ。激痛が走る。何度も何度も痛みが走る。鋭いナイフのような物に、手袋が無ければ肉が切り裂かれそうになる。さらには重い骨まで噛み砕かれそうな痛み。折れるか粉砕されるかもと思いながら、さらに左手も差し込んだ。右手だけだと何も掴めない。両手で捕まえるしかない。そいつは右に左に牙を突き立ててくる。一心不乱というか、見境なしというか。
ランダムな動きで掴みづらいが、しばらく奮闘した後、なんとか動きを固定できた。
あ……来る……。
そう思った時、以前じじいの所で感じたような脊髄にずんと来るような感覚が走る。これって僕だけの特性なのかな。それとも祟られたり呪いを受ける人が感じる感覚がこれなのかな?などとのんきに思っていたら、例のビジョンが流れ込んできた。悲しみと怒りと嘆き、怯えや恨み——この闇の中の黒い感情が押し寄せてくる。これは犬神の目線か……。
ん?まだ朽ち果てる前のこの家の庭か、これは。今は崩れた土塀がまだあるな……昔の日本は塀を付けられる家なんて庄屋クラスしか無理だったはず。別の世界とは言え、かなりの力のある家だろうな。そしてこの塀は、外から何をしているのか見られないための目隠しだな。
ああ……やっぱり庭には子犬が埋められている。目の前にはウミの言う通り美味しそうな餌が置かれているのに、食べたいのに食べられない。すっかり衰弱して……ん?恨みや怒りや悲しみとかどうこう言うより、ただ衰弱して弱っているだけに見えるぞ。ほんとにあの子犬が犬神なのか?
あっ!違う!違うぞ!これは……子犬の目線じゃないじゃないか!
子犬とは違う視点から、犬神にしようとしている子犬を見ている。そして激しい怒りと悲しみと苦しみの念がこみあげてきて、激しい吐き気がする。めちゃくちゃ悲しそうな声を出して首につながれた太い紐を噛みちぎろうと首を振り回すので、目線が左右に動いてVR酔いしそうになる。強烈なストレスと目の前の視線の揺れのWで吐き気が止まらん。
どんなに吠えても、鳴いても、子犬はもう反応しなくなってきている。怒り、激しい怒りをこいつは感じている。
時間が過ぎた。憤怒と言っていい感情を持ったこいつの目は、生きているのか死んでいるのかわからない、もう動くことのない子犬だったものの前に現れた着流し姿の中年の男に注がれた。そいつは子犬だったものを、鍬を持った下男に土から掘り出させて、満足そうに頷いた。子犬の亡骸はこいつの目の前に、微妙に届かない場所に放り投げられた。
こいつはおのれの歯が折れるのも厭わず力任せに紐を食いちぎると、着流しの男の喉元めがけて食らいついた!と思われたその時、下男の男が手にした鍬で滅多打ちにされた。頭、背中、足、腰——いたるところをこれでもかと鍬の一番固い部分でしたたかに打たれ、あちこちから血が噴き出し背骨も折れた。
「このバカ犬が!犬神様になる子を産んだらお前は用済みだったんだ。とっととあの世へ行きやがれ。お前の子は本来は首を落として死なすところだが、性根が足らず先に死んだ。まぁしょうがない。中途半端だが犬神様として使ってやる。多少は使えるだろう。お前も感謝して死ね」
着流しの男はそう言うと去っていった。こいつはまだ息がある中、下男に納屋の中に放り投げられた。外が明るいうちはさすがにひと目のつく外に捨てに行くのははばかられたのだろう。夜、人が寝静まるころにどこかに捨てに行く気だ。
体中ボロボロになったこいつ——母犬は、息が止まるまでじっとこの家の当主がいるであろう母屋の方向を、片方だけしか見えなくなった目で睨み続けていた。やがてその目も、静かに閉じられた……。
それからこいつはずっとこの納屋に留まった。体を下男に捨てられても、霊でも犬神でもない、念——それも強い人間への恨みを持った怨念として。
だが犬神になるべくして命を奪われた子の魂は見当たらない。犬神なんてものもそこにはいない。そんなものはただの作り話だったのでは?本当にそんな方法で犬神を生み出せたのかもわかりゃしない。生まれたのは母犬の人間への恨み、怨念だけだ。
犬神憑きの家と言われたこの家の当主は、子犬を犬神に代えて様々な家を呪って潰していった……と、思っていた。自分の思い通りに言うことを聞かせて、自分にとって不都合な家や、依頼があれば報酬を受け取って依頼のあった家を取り潰させた。犬神憑きと言われた家はどんどん豊かになった。そう思っていた。
違う。
こいつはどこでもよかった。どんな形であれ、この家とゆかりのある家はとことん潰す気だった。この家と敵対する家、呪いを依頼された家、呪いを依頼してきた家——時間の差はあれど全て潰した。一番恨むべきこの犬神憑きの家は一番最後に残した。じわじわと真綿で首を絞めるように、この家の周囲を全て呪い取り潰し、孤立させた上で。
だが当主は近隣の家が潰れたことでその家の持つ田も畑も金も独り占めでき、この世の春を謳歌していた。子も育ち立派な跡取りもできた。これで我が家は子々孫々まで安泰と思っていた時を狙って、こいつはじわじわと絶望を与えながらこの家を取り潰した。
それからは朽ち果てたこの屋敷の納屋でずっと一人で守っている。この家を再興せんとする人間が近寄ってこないように。そして忌まわしき「犬神」の言葉を発する人間が現れれば警告し続けてきた。「犬神の事は忘れよ。二度と思い出すな。口にするな」——宿屋のお姉さんが忠告してくれた事に通じる。この村の人たちは、この犬神憑きと言われた家とその周囲の家々は犬神の呪いによって消されたと理解している。そしてそれを思い出す事も禁忌であると。
こいつの思いは、ある意味達成できている。
もし犬を餓死させることで犬神が産まれるなら——正確には首をはねるらしいが——そんな事で呪の神が産まれるなら、今の日本では多頭飼育崩壊させ餓死させる金目当てのブリーダー達は犬神憑きだらけになるだろう。でもそうはなっていない。手に負えなくなると夜逃げして知らん顔でのうのうと生きている。過去も未来も現在も、そんなバカで残酷な方法で犬神なんて産まれるわけがない!
母犬の怒りに僕の怒りも同調した。同調した気がしただけかもしれない。子を失う悲しみなんて知らん。ただ本業——葬祭プランナーなりたての時、初めて小さなお子さんの葬儀を担当した。プロとして絶対やっちゃダメなのに、司会の最中に喋れなくなった。マイクをオフにしてしゃくりあげた。僕が自分で組み立てたいつもよりかなり小さい棺に、麦わら帽子姿の笑顔の遺影を見た時、耐えきれなくなった。ご両親様も一緒に泣いた。
もう一度言う、僕は子を失う悲しみはわからない。でも子どもを、家族を失った人に寄り添うことはできる。
さっきから僕の手に噛みついて離さない何かは、さっきよりもっと激しく噛みつき揺さぶってきた。そんなもんじゃない——自分の悲しみ、怒り、苦しみをわかるみたいなフリはこれ以上やめろと言わんばかりに。骨に牙が当たるような感触がある。ヤバい、グラインダー対応の作業用手袋でも限界か……これは折れるかもと思った時に、ユイが入ってきた。
「あなたの子どもはもういないわよ!」とユイが叫ぶ。
なに刺激してるんだよ!腕をがっちり噛まれたまま左右に振り回された。
「あなたの子どもの恨みも、悲しみも、怒りもどこにも残ってないの。残っていたら私かウミに見えるもの!」
ん?なんだ?
「わかる?あなたのかわいい子どもはとっくにもう天に帰ってるの。ずっと最初から。あなたの大事な子どもはお腹を空かせたまま死んじゃったけど、犬神憑きの家の人が願ったような犬神にはならなかったの。亡くなってすぐ空に帰って、また生まれ変わってるわ。今は優しい御主人様と楽しく暮らしてるのよ」
腕を噛む力が緩んだ。
ユイ、ずっと俺の心読んでたな。ママに呼ばれたって席外したのに、その間もずっと心の声を聞かれてたのか。
「悲しい時は泣いたっていいじゃないソラ」
あ、めっちゃ覗かれてた。恥ずかしい。
「ね、見て。あなたの姿は見えないけれど、この子はあなたの子どもの生まれ変わりよ!見て」
そう言って一匹の犬をこっちに引っ張ってきた。暗闇の中のもっと黒い塊に怯えてしまい、尻尾はまたの間に丸まり、足を突っ張ってこっちになかなか来ない。ユイは力いっぱい引きずって黒い塊の近くまで犬を連れてきた……近づいてわかった。宿のモフモフ!こいつかぁ~~!?
「見える?見えない?感じる?あなたの子どもよ?短い間だったけどあなたが育てた可哀そうな子の生まれ変わり。こんなに大きくなったのよ。どう?まるまるしてこんなにかわいい元気な子」
黒い闇の塊は僕の腕を離して、両腕が自由になった。よかった、両方ともつながってる。
黒い闇の塊は黒いままだが、モフモフはさっきと様子を変えこっちに来た。そして僕に近づいてきて顔をペロペロ舐めてきた。馴れ馴れしい犬だ。その後黒い闇の塊を見て小さく「くぅ~ん」と泣いて甘える仕草を見せた。
黒い闇が動揺しているのがわかる。大きくなったり小さくなったり、深呼吸でもしているかのように動いている。ガウガウ言っていたのが嘘みたいに、ハッハッハッハッと激しい息遣いに変わる。
その時、満を持してウミが読経を始めた。「般若波羅蜜多~」と般若心経を唱える。しばらく読経が続いた後、黒い闇の塊は次第に薄くなり透明になり……念から幽体に変わっていった。
読経が終わった後、幽体は母犬の姿へと形を変えていた。僕はポケットからメガネを取り出すと、しっかりと雑種であろう成犬の姿を見た。モフモフをひと回りくらい大きくした感じで、そっくりだ。モフモフにもぼんやりと見えているようで、そっちを見て首をかしげている。
黒い闇の塊の頃は見えなかったユイとウミも、今ではしっかりと見えているようだ。
「念が解けて霊になったみたいだね」とウミ。
「よし!じゃあソラに返してやるか!」と言うと2人は首を横に振った。
「さっきからずっと戻るように祈ってるわよ」
「うん、上がりなって思いながらいつも通り経を読んだんだけど無理だね」
「は?なんだよそれ」
「前に言ったよ。僕には除霊も浄霊もお祓いもできないって。上がりたいという気持ちがあれば手伝えるけど……」
「こいつは地縛霊になったの?」
「違うわよ!バカ」
「じゃあなんなんだよ。悪霊になってまだここに縛り付けられるだけじゃないの?」
「違うよ。もうこの子は自由だよ」
「ならなんで?」
「浄霊はできなかったけど、念は——怒りや悲しみは浄化されたよ。きっかけをくれたソラ君に感謝してるみたいだ」
「感謝?感謝より詫び入れろや。ええ感じでまとめようとしてるけど、俺、手の骨折れかけたからね、マジで。ヒビ入ってるでこれ、兄さん」
「どこのチンピラよ!」
「ま、とりあえず俺は怒ってないよ。母犬の気持ちもよく分かったし。許す!母犬、子犬、人間が可哀そうなことをしてごめん。あとはゆっくり眠れ。子犬はちゃんと宿屋に帰って寝ろよ。寝てるところを無理やりユイが連れてきてすまん!あ、アデヤさんヒントくれたんか……あの時ユイに子犬の生まれ変わりいるって。う~む、やっぱただの悪い神さんではなさそうやな」
「とりあえずじゃあ母犬!達者でな!子犬は宿屋で幸せに暮らしてるから心配するな」
と空に向かって手を振った。
あ、カプっと足首をあまがみされた。
「そこにいるよ」とユイ。
「なんでよ!」
「ソラのそばにいたいみたい」
「やだよ、幽霊連れ歩くのなんて!」
「普段メガネつけてないから見えないでしょ?」
「そりゃそーだけど。なんか世の中、はっきり見えるよりぼんやりの方が幸せじゃん?元の世界ならはっきり見えないと運転とか怖いけど、こっちはなんかある程度大まかに見えてりゃいいかって。形だけ見ればみんな美男美女に見えるし。てかさっきからなんか足にパタパタなんかが当たる気配」
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「そりゃま、足元にずっとまとわりついてるからね」
「ソラ君、動物と子どもにだけは好かれるね!」
「こいつは動物ですらなく霊だろうに」
「でも名前つけてあげなきゃね」とウミ。
「あ?名前?なんで既に飼う前提?生前についてた名前があんだろうけど、そんな名前とっとと捨てたらいいし。ありきたりだけど、今度は幸せになれってことで『幸』にするか?」
カプ……また噛まれた。
もうなんでもいいよ。噛まれて振り回されてあちこち痛いしヘトヘト。とりあえず帰って宿で寝るぞ!こそばいから足元でパサパサするな!
う~なんか仲間が増えた。見えないけど。
*(第24話へ続く)*




