王太子オルハン 後編
それから暫くしてオルハンの体調は良くなった。アイシャとの事が気持ちに余裕を持たせたのかもしれない。
オルハンは自分の腕の中にいるアイシャを愛おしく思う程、彼女に妻の座を用意出来ない自分の不甲斐なさを感じるが、彼女は身分を弁えているし、肌を重ねられるだけで十分だと本当に幸せそうに微笑むので彼女に甘えていた。
この幸せが簡単に壊れるものだとは想像もしていなかった。
「オルハン、最近調子がいいようね」
滅多に顔を合わせないゼフラがオルハンの部屋にやってきた。アイシャの事は隠しているつもりだが、同じ館に住んでいればわかるかもしれないと、彼は不安になりながらも平生を装う。
「主治医が他国から取り寄せてくれた薬が殊の外効果が出ている」
アイシャと関係を持った頃、オルハンの主治医が別大陸にあるケィティの商人と知り合いになった。彼の病状を話すとこれを試してみるといいと渡された薬が、思った以上に効果が出ている。アイシャの事との相乗効果か、人生で今が一番健康的に暮らせている。
「薬を変えただけでそれほど元気になるものなの?」
ゼフラは猜疑の眼差しを向けている。やはりアイシャの事を疑っているのだろうかとオルハンは内心焦った。自分はどう思われても構わないし、側室を持つ権利もある。だがアイシャに何かされるのは嫌だった。
それに形式上夫婦であるだけで中身はただの従兄妹でしかないゼフラに何か言われるのもオルハンには癪だった。
「私も自分で驚いている。ケィティの薬学は素晴らしいから我が国も今後取り入れていくべきだろう」
ゼフラは政治的な事に興味がない。その方向へ話を持っていけばすぐに嫌そうな顔をすると、オルハンはわかっていて話をそらした。案の定彼女の表情が一気に冷める。
「そう。ところでセリムは元気かしら?」
「戦場で十分な働きをしていると聞いている。セリムは素早いから相手の懐に入るのも上手いらしい」
「怪我をしていなければいいのだけど」
「命にかかわるような怪我をすれば流石に連絡が入る。便りのない時は問題がないと思うべきだろう」
「そう。もし便りがきたら教えてね」
「あぁ」
ゼフラはそう言うと部屋を出ていった。セリムを気にしていただけとわかり、オルハンは安堵した。ゼフラが好き勝手にやっているのは大目に見ているのだから、アイシャの事を見逃して欲しいと切に願った。
それに彼は隣国カエドとの戦争で有力な情報を掴んでいたのだ。それさえあれば戦争を終わらせる事が出来る。戦争終結後にセリムを呼び戻し、王太子として教育をする。将来のアスラン王国を託せるのはこの弟だけだと彼は確信していた。
それから数日後の夜。
オルハンは何事もなくこのまま生きていけると思っていた時に異変が起こった。
彼は激しい悪寒と嘔吐に見舞われ何も食べられなくなったのだ。吐血までして自分の死が迫った事を知る。アイシャの顔が青ざめてるのがわかるが、大丈夫と声を掛ける事も出来なかった。
「このような急激な変化は信じられないのですが、最善を尽くします」
主治医も何故こうなったのかわからない様子だ。
「別の薬を取りに行ってきます。貴女、オルハン殿下を暫く看ていて下さい」
主治医の言葉にアイシャは力なく頷く。主治医は急ぎ足で部屋を出ていった。
「オルハン殿下。まだ寒いですか? 毛布をもう一枚持ってきましようか?」
オルハンは力なく首を横に振り痙攣している手を差し出す。アイシャは泣きそうな顔をしながら彼の手を両手で握った。
「オルハン殿下。気をしっかり持って下さい。弱気になると冥府へ引っ張られてしまいます」
アイシャの為にももう少し長く生きたかったが、それが難しい事はオルハンにはわかっていた。彼は最後の力を振り絞るように整わない呼吸の中、必死に言葉を紡ぐ。
「全て、ハサン、に言って、ある。ハ、サンを、頼れ」
「嫌です。オルハン殿下、せめてあと半年。半年でいいですから」
アイシャは何事もないように振る舞っていたがオルハンは何となくわかっていた。だからハサンに全てをお願いしていた。自分に万が一の事があればアイシャとその子供を守って欲しいと。そしてその子供は自分の子供とせず、父親不明のままで育てて欲しいと。
「アイシャ、あい、してる」
「オルハン殿下! 私もオルハン殿下を愛しています。ですから目を開けて下さい!」
アイシャがどれだけ必死に語りかけても、その後オルハンの口から言葉が紡ぎ出される事はなかった。
「アイシャ、ここへ向かいなさい。全て準備は整えてある」
ハサンはアイシャに地図を渡した。アイシャは文字が読めないので首を傾げる。
「ここは市場にあるケィティ料理店だけど、この店はわかる?」
「わかります。しかし何故、ケィティ料理店へ?」
「貴女とその子供を守る為だ」
アイシャは驚きの表情をハサンに向けた。彼女は妊娠している事はオルハンにも伝えていなかったのだ。
「オルハン殿下は御存知だった。その子をこの料理店の二階でひっそりと出産をするように。その料理店の店主の子供として育てて貰える手筈は整えてある」
「この子を奪うのですか?」
「最後まで聞きなさい。アイシャは出産後、子供が船旅に耐えうるまで育った後でケィティへ一緒に渡る事。それがオルハン殿下が用意した貴女がこれから子供と生きていく為の道。従うね?」
「この国を離れなければならないのですか?」
「オルハン殿下の子供は王位継承権の火種になりかねない。セリム殿下が王位に就けば戻って来られるようにするので、暫く耐えて欲しい」
アイシャは頷いた。身寄りのない彼女に他の選択肢はない。出産出来る環境を整えて貰えただけでも感謝しなければいけないのだ。
「それとこの件は私とセリム殿下しか知らない。アイシャも他言無用で」
「はい」
「最後にオルハン殿下からの伝言だ。その子供が負担になった時はハサンに託せ」
アイシャは目を見開いてハサンを見つめた。
「オルハン殿下はアイシャの幸せを誰よりも望んでいた。子供が足かせになる時があれば私に託して欲しい。私が責任を持って大切に育てると約束する」
「嫌です。この子は私の子供です。誰にも託しません」
アイシャはお腹に手を当てた。ハサンは困ったように微笑んだ。
「そういう道もあるから一人で悩むな、という事でしょう。オルハン殿下のせめてもの優しさを理解して欲しい。この事がゼフラ様に露見したら厄介なので、すぐにここから立ち去った方がいい」
アイシャは頷いた。彼女はゼフラに見破られていない自信はあったが、彼女の侍女であるミライには自分の気持ちは勘付かれているかもしれないと思っていたので、ここに長居するのは危険だと思っていたのだ。
「ありがとうございます」
「お礼はオルハン殿下に。私は命令に従っただけなので」
アイシャはハサンに一礼すると速やかに別館を去った。
それから半年後、アイシャは無事男児を出産する。セリムは兄から預かっていたと彼女に手紙を渡した。彼女は文字が読めないので読んで欲しいとセリムにお願いすると、そこには子供の名前が男女それぞれ書かれていた。そしてその手紙にあったメフメトと息子に名付ける事にした。
だがアイシャはケィティへは行かず出産後もケィティ料理店の一室で暮らし、ガラス工房の職人として働いていた。オルハンが命を削ってでも守っていた、アスラン王国の行く末が気になって仕方がなかったのだ。今はケィティ料理店の店主一家とセリム夫婦、そしてハサンに見守られ、息子の成長を楽しみにしている。
ちなみにメフメトは王位を継がない。セリムが国王に即位しサマンサが王妃となる。メフメトは二人の子供の側近になるのだが、それはまた別の話である。




