734手間
ワシの部屋にクリスが来たと伝えに寝室へと入ってきた侍女の足元から、子オオカミがシタタタッと駆け寄ってきてかまえかまえと椅子に座るワシの横で跳ねる。
ちゃんと毎日しっかりと食べているからか、最初に見た頃よりも幾分かしっかりとした体つきになって来た子オオカミを抱え上げ頬ずりしてやれば、子オオカミも甘えたような声を出す。
「クリスが来たならば本格的に今日は止めじゃな」
「殿下は既に中でお待ちです」
「んむ、すぐに行くのじゃ」
侍女に促され子オオカミを胸に抱いて寝室を出た所で目に入ったのは、足を組み優雅な仕草でお茶を飲むクリスの姿。
一枚絵のようなクリスの姿に見惚れているとこちらに気付いたクリスがニヤリと笑うのを見て、ハッと我に返りクリスの正面のソファーへと腰かける。
「待たせたかの?」
「いいや、お茶の一口目くらいさ」
「して、何かあったのかの?」
別段なにか用事が無ければ来てはいけないということは無いが、ワシとしてもそれでよいのだがやはり今の段では何の用事も無しにワシの部屋にやって来ると言うのは外聞が悪いらしく、となればクリスは何事か用事があって来たのだろう。
「暖房とかいう奴の進捗はどうかと思ってね、難しいと言っていたけど今はどんな感じだい?」
「なるほどの、ワシもそれについて近々言いに行こうと思っておったのじゃ」
「へぇ、それじゃあ」
「んむ、止めじゃな」
ティーカップを置き、期待するように身を乗り出してきたクリスが器用に上半身だけコケさせる。
「ど、どうして」
「どうしても何も無理じゃと判断したからじゃ。あぁ、翻訳がではないのじゃ、暖房の完成が……の。アニスにも言うたのじゃがアレは肝心部分の記述が全く無くてのぉ、出来たとしてもガワだけのガラクタ同然のモノがこしらえられるだけじゃ」
「う、うぅん。僕も魔導具とか詳しくは無いから分らないんだけど、そこは作る人が工夫すればいいんじゃないかな?」
「確かに技術とはその様なモノじゃろう、研鑽するだけでも価値はあるのじゃろうが……」
「まだほかに何かが?」
ワシが口ごもるのを見て、まだ何かあるのだろうと察したクリスが真剣な様子で聞いてくる。
「実に簡単で難しい問題じゃ、材料が無いのじゃ」
「材料がない? それは暖房を作るにあたっての? 確かに希少な鉱石とか使われてたら集めるのは難しいかもしれないけど……」
「いや、無理じゃな。希少どころではないからの、内部機構のほぼすべてにミスリルが使われておるからの」
「ミスリル……それはお伽噺の。でも確かセルカがカルン殿下に一振り、ミスリルの剣を贈ったって聞いたって言うか自慢されたんだけど。それにセルカの使ってるカタナだっけ、あの不思議な剣もミスリルに似たようなものだって」
「後者であるが確かにミスリルの代替としては候補に入るじゃろうが、打った者は死んで製法が分からぬ上に、死因はその作成の過程で刀にマナを吸いつくされてじゃ、たった一振り打っただけでの。あの本の内容通りに造るとなるとこの部屋一杯の大きさになるが、それの内部機構に全てに使われるほどとなるといったいどれほどの人死にが出るか」
「ぐっ、それは確かに……けれども、仮に大丈夫な方法が見つかったら」
「それも無理じゃな。ミスリルはマナ伝導率が凄まじく良い、がその分持った者のマナを吸いつくしてしまうのじゃ、差し詰め氷を持った手が冷えるようにの。ワシや歴代の神王の様に宝珠でも持っておらぬ限り触れただけで命取りじゃ、フレデリックですら一瞬触れただけで膝をついたからの。素養の無い者であれば下手をすれば近付いただけでダメかもしれぬ」
「下手な毒より恐ろしいね、ってセルカはあの剣たまに佩いてるけどその話を聞く限り危ないんじゃ」
「それに関しては大丈夫じゃ。所詮は刀一振り、剣一振り、部屋一杯のミスリルならばともかくその程度の量であれば触れぬ限り問題は無い」
「そうか……」
カカルニアでミスリルが特に問題なかったのは周囲のマナの量が多かったから、気圧の違う部屋の扉を開けたら空気は動くが気圧差が少なければそよ風程度、しかし気圧差が大きければどうなるか。
流石にそれをそのまま言っても理解できないだろうから、何とかクリスにも分る様に平易にかみ砕きクリスが暖房の翻訳中止に同意するまでミスリルの危険性をこんこんと説明し続けるのだった……。




