第四話 ベルフレイア・アルンストの答え
「ちなみに今後の参考までに言っておいてやるが、俺にやったようなアプローチの仕方は絶対にやめておけよ。あと、隠密」
「えっ、何かおかしいところがありましたか?」
「アホと天然って、どっちの方が始末に負えねぇんだろ…」
私のバイブルは、何か間違っていたのかしら? と、首を傾げるシャーナ。それに若干頭を抱えながら、シュレインは今後のことを考えた。ヒロインとライバルの頂上決戦は、これで多少は落ち着くであろう。そのことに、少なからず安堵が胸に広がる。彼女たちの闘いが続いた三ヵ月間。彼の心の汗が、ちょっぴり流れそうになった。
「ところで、エトワードさん」
「あー、もうシュレインでいいぞ。これからもベルのライバルでいるのなら、長い付き合いになりそうだしな」
「それは素直に嬉しいのですが、……いつベルフレイアさんに、ちゃんと告白をされるのですか?」
「――げほッ、ごほっ」
シャーナにしてみれば、自分というヒロインが入り込めたことの方が驚きなのだ。傍から見れば、二人がお互いをどう思っているのかなど一目瞭然だろう。それなのに一向に進まない二人が、今のシャーナにとってはムズムズとした気持ちを持たせたのだ。
「いや、告白って、あいつはその、俺の婚約者で……」
「そんなことを言っていたら、私がベルフレイアさんを奪っちゃいますよ」
「ヒロインが言うと、シャレに聞こえないんだがッ!?」
ベルフレイアの今までのヒロイン猛進っぷりを知っているシュレインにしてみれば、本気で冗談に聞こえなかった。修行馬鹿で、ヒロインしか目に入っていなかった婚約者。嫉妬してしまった回数は、たぶん数えきれない。頭を抱えた数も、計り知れなかったことだろう。
そんな風に慌てるシュレインを困ったように一瞥すると、シャーナはふと彼の後ろの方へと視線を動かす。その視線を訝しく思い、疑問を彼女へと目線で送る。だがシャーナはそれに応えず、くすりっ、と笑みを溢した。自身の後ろにあるものはなんだったか、とシュレインが思考した――その時。
「ベルフレイアさんは、目標に一直線な人だから。たぶん彼女は、あなたの気持ちに気づいていない。そして彼女も、自分の気持ちがあなたにちゃんと届いているってことに、気づいていないんだと思います」
面白そうに目を細めたシャーナは、シュレインとの距離を一気に詰めた。目と鼻の先まで近づいた彼女に驚愕を浮かべるが、突き放そうとしなかったのは、シャーナに邪なものを感じなかったからだ。妖艶で、それでいて子どもっぽくていたずら好きな、まるで妖精のような笑みを彼女は浮かべた。
「だからこれは、私からのちょっとしたおせっかいです」
シュレインの耳元にそっと口元を近づけ、シャーナは囁いた。その聞かされた内容に、彼は目を見開き、彼女を見つめてしまった。
シャーナが発した言葉の真実を確かめようと、彼が口を開こうとした時――
「レイ様のファーストキスは、私のものなんですっ! 白いワンピースの私と、白いタキシード姿のレイ様と、ロマンチックな浜辺で海を眺めながら、美しい夕日をバックに重なるシルエットを作る。そんなファーストキスの予定なんです! そのあと一緒に、「ベイベー」とか言いながら、星空の下でセカンドを目指しちゃうのです。だからレイ様のファーストキスは、この私が絶対に許しませーーんッ!!」
「ファーストばっかり、連呼するんじゃねぇッーー!!」
シュレインの後ろにある、屋上と校舎を繋ぐ入り口の扉がバッコーン、という感じで勢いよく開き、ベルフレイアはノンブレスで言い放った。彼女が噛まなかったのは、日頃の妄想力のおかげで脳内シチュエーションが完璧だったからである。婚約者持ちの天下の俺様生徒会長様(17歳)の、ファーストかぁー、とシャーナはほっこりした。
つり上がった橙の瞳は強く輝き、しっとりと汗で濡れる金の髪が、彼女の顔にかかる。それを手で払いのけると、ベルフレイアは真っ直ぐにシュレインとシャーナの下へと進んだ。その顔にあるのは怒りでも悲しみでもなく、純粋なまでに燃え上がった闘志であった。
ここで普通のヒロインなら、屋上でまるでキスをするように寄り添い合う婚約者とライバルを見たら、ショックで倒れたり、階段を駆け降りて背を向けるといった王道展開になっただろう。その誤解を解くために、追いかけるヒーローという王道シチュエーションの始まりである。
しかし、そこはベルフレイア・アルンスト。真正面からそんなお約束など知るかっ! と粉砕してみせた。さすがベルフレイアさん、とシャーナはライバルに向けて嬉しそうに笑った。
「さぁ、シャーナさん。今日という今日は決着をつけましょう。どちらの方がよりレイ様の思いが大きいのか、正々堂々と勝負ですっ!」
「それなんですけど、私は先ほど振られてしまったんですよね」
「そうですか、振られてしまって…………えっ?」
二人の前まで歩み寄ったベルフレイアは、意気込んで相対するつもりだった相手の言葉に、虚を突かれた。ぽかーん、と大きく口を開く少女に向けて、今度はシャーナから進んで距離を詰める。そしてベルフレイアの前まで来ると、彼女は輝くような笑顔を見せた。
「私にとってあなたは、いつも眩しい人でした。明るくて、元気いっぱいで、頑張り屋で。そんなあなたの隣に立てるように頑張った私自身も誇らしくなるぐらい、私にとってあなたが一番の目標でした」
「シャーナさん……?」
「……私は、勝てませんでした。あなたの恋のライバルとして負けてしまった私ですけど、それでもあなたのヒロインとして、これからも競い合ってくれますか? これからもあなたたちと一緒に歩いて行く。そんなあなたのライバルに、私はなれますか?」
輝きの奥に秘められた思い。ベルフレイアがどうしてヒロインに勝とうとしていたのか、その本当の理由を知っている彼女だからこそ怖かった。恋、という頂上決戦の勝敗がついてしまった今でも、彼女が自分をライバルとして見てくれるのか。自分を認めてくれるのかが、わからなかった。
「……あなたがいたから、今の私がいるんです」
だがそんな不安は、ベルフレイアの力強い声が真っ直ぐに照らした。
「私は本当なら、どうしようもないぐらいお馬鹿な子だったと思います。勉強はレイ様にみっちり教えてもらわないとできなかったし、運動だって最初はすぐに息を切らしちゃいました。レイ様に会うまで、努力なんてしたことがなかった私が、一つひとつ積み重ねていくことに、苦痛で仕方がないと思ったことだってありました」
知識を思い出しただけなら、ベルフレイアはここまで這い上がることはできなかった。彼女が前向きに努力をし続けられたのは、それだけ超えるべき壁が高かったからだ。そして、どうしても負けたくない理由があったから。
「だけど、勉強や運動や価値観さえも、あなたという目標がいてくれたから、私は頑張ることができたんです。学校であなたと会えた時は、緊張と不安と……それに負けないほどの興奮と嬉しさがありました。その気持ちは、今だって一片の曇りもありません。だから私こそ、あなたに聞きたいです。シャーナさん、私はあなたのライバルになることができましたか?」
「……もちろんです。それはもう、聳え立つぐらいの巨大な壁として」
「えへへへ、それは私のセリフです」
それから彼女たちは、互いに自然と手を差し出し合い、しっかりと握り合った。彼女たちの顔に浮かぶ勝気な表情が、負けず嫌いの似た者同士なのだと、それを蚊帳の外にいきなり放り出されていたシュレインは、脱力しながら感じた。
「私はこれから、もっと素敵な恋を見つけてみせます。そして、勉強も運動も負けません。私が築き上げてきたステータスを、あなたにみせてあげます」
「望むところです。こちらだって、美貌や人望も含め、ぜーんぶ私が勝ってみせるんですから」
真っ直ぐに向けられるライバル打倒宣言。この日、彼女たちは真のライバルとなり、掛け替えのない強敵となった。
「――さて、私の用事は終わりましたので。……後は、お若いお二人だけで」
「……えっ?」
それから数分後。シャーナはベルフレイアと握っていた手を華麗に外し、その場で二人にお辞儀をする。そして、彼女は颯爽と屋上から去っていった。まさにモデル顔負けの足捌きである。タッタッタッ、と効果音がついたことだろう。そんなどうでもいいことを考えていたベルフレイアは、気づけば婚約者と二人、夕空が包む屋上に取り残されたのであった。
「……私の方が誕生日が早くて、レイ様も年上のはずなのですが。まさか、シャーナさんは何か大人の魅力のようなものを手に入れている、ということなのでしょうか?」
「そんな質問をされた俺の方が、まさかだよ。……まぁ、察してやれ」
シャーナが出て行った扉の先を二人で呆然と見つめていたが、次第に緊張の糸がゆるゆると緩んでいった。どこかほっとしたように小さく息を吐くベルフレイアを見ながら、シュレインは自身の頭をガシガシと掻き撫でた。
「なぁ、屋上の鍵は閉めておいたはずなんだが、一応聞く。どうやって入って来たんだ?」
「えっ? 委員会が終わってレイ様の教室に行ったら、フィオル様がいて、『大変だよ、ベルちゃん! ラスボスにシュレインが連れて行かれてしまった。これは囚われのおかん、じゃなくて婚約者を助け出す、王道イベントの開始だねッ!』とすごく溌剌とした顔で、屋上の鍵を頂きました」
「あのやろう、完全に楽しんでいやがるッ!!」
約束通り、俺はちゃんと教室にいて、ベルちゃんを待っていたよー。そんな感じで明日の朝に詰め寄ったとしても、のらりくらりと躱されるだろう。一応シャーナの話が終わるまでは、ベルフレイアを引き留めてくれていたようだが、自分の楽しみのためなら彼は遠慮をしない性格であった。
最もフィオルがベルフレイアを行かせたのは、彼女の熱血ぶりを知っていたからと、シャーナの真っ直ぐな覚悟を見て取れたからと、シュレインの気持ちを理解していたからだ。明日絶対にニヤニヤとムカつく顔で、事の顛末を聞きにくるであろう友人に、シュレインは遠い目をしてしまった。
そんな時間が過ぎていったが、不意にベルフレイアは不安げに瞳を揺らす。落ち着いて状況を見ることができる時間ができたことが、彼女に冷静さを取り戻させていった。
「あの、レイ様。その、……本当にシャーナさんを振っちゃったんですか?」
「は? まぁ結果的にはそうなったが」
「本当に、本当によかったんですか。えっと、彼女は私が言うのもおかしいのかもしれませんが、素敵な人です。私のライバルには勿体ないって、そんな風に思っちゃうほどのすごい人なんです」
シャーナを庇うような発言に、ベルフレイア自身何を言っているのだろう、と頭の中ではわかっていた。彼女が彼に選ばれないことを、一番望んでいたのは自分のはずなのに。決着をつけたシャーナにもシュレインにも、失礼なことを言ってしまっている。
それがわかっていても、ベルフレイアは言葉を止められなかった。彼女ほどの人が選ばれなかった。シャーナほどのスペックを持っていても、振られてしまうのだ。そんな彼が、彼女と同等な自分を選んでくれるのか。受け入れてくれるのか。そんな弱気が、表に出てしまった。
「だから、シャーナさんを振ってしまって、レイ様は本当に――」
「後悔はねぇよ」
どこか早口で、焦燥を滲ませるベルフレイアの言葉を、シュレインは遮った。断言をする彼に驚く彼女を見据えながら、シュレインは婚約者の前まで歩く。手が届く位置まで近づいたシュレインに、ベルフレイアはそれをただ見つめることしかできなかった。
「おい、ベル。その前に一つ確認がしたい。俺が今から言うことが事実なのか、しっかり聞けよ」
「えっ、は、はい」
「7年前からベルが打倒ヒロインを目指してきたのも、ずっと諦めずに修行をし続けてきたのも、全部……俺をヒロインに取られたくなかったからなのか?」
「へっ……」
シュレインの言うとおり、真剣に話を聞いていたベルフレイアは、その言葉に数秒ほど停止した。そして、ボッと炎が突如燃え上がったように、その顔が朱に染まった。耳まで真っ赤にして、あうあうと言葉になっていない彼女に、シャーナのおせっかいをシュレインは確信した。
たとえ言葉などなくても、わかってしまった。その表情こそが、態度こそが、嘘がつけない彼女の答え。彼女がずっと努力をしてきたことを、ヒロインに勝つことをずっと考えてきたことも、すぐ近くで彼は見続けてきた。その全てが、彼女が積み重ねてきたものが、全部自分のためだった。
「お前、それ、どんな口説き顔だよ…」
おかしくて出てしまった口元の笑みを手で押さえながら、シュレインは顔を背ける。そんな横を向く彼の耳には、ほんのりとした赤みがあった。
「……さっき、言っていたよな」
「あ、あの、さっきとは」
「キスだよ、キス。ロマンチックな浜辺がいいってよ」
少し投げやり気味に告げる彼の言葉に、ベルフレイアは慌てて肯定を返す。落ち着かない心臓と、収まらない熱に、彼女はショート寸前であった。だがシュレインは、主導権をようやく握った今の内に、叩き込むことに決めていた。
「俺はもっと別のシチュエーションがいいんだが、そっちでかまわないか」
「えっ、でもあれは、私が長年の夢を詰め込んだ……、でもレイ様がそちらがいいのでしたら」
「よし、なら言わせてもらう」
シュレインが一歩踏み出したことで、お互いの距離がほとんどなくなった。ベルフレイアの金の髪を手ですくい上げ、ほのかに赤くなっている耳に、そっと囁いた。
「……放課後の学校の屋上で、二人きりで夕日をバックにする。そんなシチュエーションは駄目か?」
「放課後の、学校の、屋上で、夕日を……」
一言ずつ反芻されていったキーワード。あれからだいぶ時間が経ったからか、彼らのいる屋上からは、綺麗な夕焼け空が広がっていた。何もかもが赤に染まっていく中、シュレインの提案の意味に、ベルフレイアもさすがに気づいてしまった。
逸らされることのない翡翠の瞳に、彼の思いを感じ取る。弱気に微かに震えていた拳が、強く強く握り締められていく。困惑を浮かべていた橙の瞳は、その輝きを思い出し、決意へと変わっていった。
己のライバルは、自分の気持ちを精一杯彼に伝えたのだ。恐怖も当然あっただろう。それでも自分の心を偽ることなく、全力で思いをぶつけた。
ならばそんな彼女のライバルである自分が、負けるわけにはいかない。弱さに打ち勝ち、未来に向かい踏み出す勇気を持つ者こそが、ヒロインなのだから。
「……すごく、すごく素敵なシチュエーションです」
「ベル?」
「私は、ベルフレイア・アルンストは、シュレイン・エトワード様が、好きです。大好きです。どうかこれからも、一緒にいさせてください」
思わず毀れた涙をすぐに拭き取り、ベルフレイアは笑った。太陽のように眩しく、全てを照らしだす温かさを持って。花が綻ぶような彼女の笑みに、シュレインは呆れ顔で、彼女の頭を小突いた。
「あのな……、ここまで来たら、男の俺に先に言わせろよ。たくっ…」
「い、痛いじゃないですかぁー」
小さな痛みにむくれる彼女に笑みを溢しながら、シュレインは膝を少し折り、ベルフレイアと顔の位置を合わせる。
「最初は、とんでもないやつと婚約者になってしまったと思った。全力で振り回してくるし、修行馬鹿だし、ヒロインに夢中だし。なんだこれ、と思っていた。それなのに、いつの間にか目が離せなくなっていて、俺を映さない瞳に嫉妬していて、どうやったらお前の目に、俺が映るのかを考えるようになっていた」
そして、ベルフレイアの前髪を優しく払い、シュレインは頬へと手を添えた。
「……好きだ、ベル」
夕日によって作り出された二つの影が、静かに重なった。
――こうして打倒ヒロインを胸に抱き、走り続けた彼女のこれからは、まだまだ続いていくのであった。