5 ちいさくておおきい傘
ビニール傘をたたく雨の音を聞きながら、栄二はそそり立つ鉄塔を足もとから見あげる。
周囲には人っこ一人いない。影さえもいない。そしてタワーもまた、ライトアップなどされていない。
それは、またちがう東京タワーだった。
栄二はそれをふしぎだと思わない。その程度で心を乱していたら、ミモに再会することはかなわないだろう。
栄二は不吉なタロットカードのようなタワーの外階段に向かう。
もちろん、エレベーターなどありはしない。いや、あるけれど乗ってはいけない。物事にはしかるべき流儀があり、ミモに再会するためには階段を使わなければならない。
栄二はそのことを知っている。坐禅がそれを教えてくれた。
傘をたたむと、即座にあたまがずぶ濡れになり、前髪から水滴がたれてくる。
だが栄二は寒さを感じない。セーターとコートがあるから。
傘のさきから水滴をまき散らしながら、栄二は長い階段を駆けあがりはじめる。
それは森のようでも山のようでも大宇宙のようでもある。
遅れをとれば、深い森の奇妙な花の粉で幻惑され、樹上からいじわるなサルたちに渋柿を投げられ、ゴリラからバナナをもらい、やっと崖のうえにでても、月に吠えて相方を呼ぶオオカミにつけ狙われ、上空の無数の鰯の群れのように光る流星群に気をとられてしまう。
栄二は600段を一気に昇った。二段とばし、ときに三段とばしで。
遮二無二だれかを想う気持ちで、栄二は時空を超え、すべての罠を切りぬける。
そして、息を切らせた栄二がものの5分で展望台に到着すると――閃光が走った。
直後に雷鳴がひびく。
ごうごうと暗雲が上空をうずまいている。眼下の街の灯りはぼやけ、まるで水面下にあるかのようだった。じっさい、水面下にあるのだろう。
「ミモ――!!」
雨と汗にまみれ、息をはずませて真っ赤になった栄二があらんかぎりの声で叫ぶ。
すると――まるでその呼びかけによって具現化されたかのように、展望台からみえる空に巨大な物体が現れた。
それはあまりにも大きなミモだった。ふよふよ、ぶよぶよした謎の生きもの。
固形物のような液体のような軟体で、あちこちが複雑な色彩に変容している奇妙な生きものだった。
「ミモォ!!」
斜にかまえた栄二がふたたび叫ぶと、稲妻が走り――展望台の窓がぜんぶ割れた。
雨風が一気に吹きこみ、栄二の身体をあおり、髪をあばれさせる。
しかし、その乱れる髪のすきまから、栄二の目は巨大な物体からぽにょんと離脱し、ほわほわと中空を漂ってくるミモをとらえていた。
ミモはゆるゆると栄二のまえまで漂ってくる。
「エイジさん……だめじゃないですか、こんなところにきては」
「だめなのはミモのほうだ」
栄二は雨が入って充血した目をこする。
「まず、どこかにいくなら、別れを直截つたえるべきだ――ミモはいきなり去っていい存在じゃない。そういうのはオレの流儀にも反する」
「エイジさん……」
横殴りの雨のなか、栄二は右手のビニール傘を差しだす。
「でも、旅にでるのは自由だ。どこにいくかは知らないけれど、これをもっていきな。風邪をひいちまうから」
びゅんと風が鳴り、バババっと雨粒が顔を叩いたが、栄二は逆に両目を見開く。なにもかもを見落としてはならないから。
ミモはふにふにとゆれていた。全体の色は、あんずのようなくちなしのようなこむぎのような、そんなところを行ったり来たりしている。
「エイジさん……わたしはうそをつきました」
ミモはしばらくして、告白をした。
「白状しますと、わたしはK〇〇〇〇〇の開発した有機生命体ではありません。わたしたちをデザインしたのはもっとずっと大きなものです。それを想像することはとてもむずかしいのですが、わたしたちはひとつの流儀をもって、エイジさんたちの門戸をたたいたのです――見送りにきてくれたエイジさんの誠意に応えるためにご説明いたしましょう」
栄二は傘を向けたポーズのまま微動だにしない。
ミモは空の高いところを示すように動く。ただのけぞっただけだが、栄二にはそれがわかった。
「じつは今夜――この世界に火星が落ちてくるのです。火星といってもまァ、大きな火の玉だと思ってください。そして、そうなると人間さんたちは滅んでしまうというわけです。あっさりと、跡形もなく。じつはわたしたちは、滅んでしまった人間さんたちに代わって、この世界をあらたに営む生きものとしてデザインされたというわけです――ですが、」
ミモはふるえる。
「ですが、わたしたちにはごらんのとおり、このうえない弾力性があります。人間さんにはない柔軟性です。そこでわたしたちは人間さんたちの様子をうかがうことにしたのです。そして、わたしたちが、そのようであれ、と判断したのなら、団結して火星から人間さんたちを守ることにしたのです――」
ミモはもう一度ふるえる。
「各地に散らばった多くのきょうだいたちが今夜、ここに集まっています。それがどういうことかといえば――みんなが、エイジさんたちの明日を望んだというわけです。すてきですね。わたしのことでいえば……エイジさんはやはり、もたざるものであるにもかかわらず、あまり融通の利かない暮らしのなかで、最初のさほどよくない印象を軟化させてわたしを受け入れ、とても気のいい態度で接してくれました。ウマが合うものだと信じてくださり、仲間として日々のよしなしごとを分かち合ってくれました」
ミモがさくら色になった。
「みてください、いまのわたしには、エイジさんの分けてくれた温情が、焼きたてのパンの匂いみたいに沁みついています……。そして、ここにいるきょうだいたちが、多かれ少なかれ、おなじような経験をしました。だから、これでいいのです――」
ミモの背後で、ミモのきょうだいたちのかたまりがおなじようなさくら色に染まった。
「待て……待って!」
栄二は叫ぶ。
「行くな! 人間のためにミモたちがいなくなるなんてよくない――淋しいじゃんか!」
ミモは少しずつ遠ざかる。栄二は窓枠まで駆け寄って、左手を伸ばして空をかく。
「ふふ、そんなことはありません。わたしがいなくなっても、もとどおりになるだけです。いろいろあっても、もとどおり。それにいつか、また逢うこともあるかもしれません。そのとき、わたしの世界ではエイジさんが、エイジさんのこの世界ではわたしが、なにかきっと、きれいなものとして顕れるのではないかと期待します」
展望台の窓枠から身をのりだそうとする栄二を風雨が押しもどす。
「さよなら、エイジさん。ケーキをありがとう。その自分が濡れても、相手に傘を差しだすことのできるちいさな愛を守りつづけてください。そして末永く、おしあわせに――」
光沢をもったミモは、うしろのきょうだいたちに吸いこまれていった。
上空では暗い雲が星月夜のようにぐるぐると回転し、いやな空気が充満していた。
しかし、さくら色のミモときょうだいたちは発酵するパン生地のようにむにむにと膨らんでいき、やがて大きなふっくらしたビニール傘のように延びてひろがって、それらを覆いかくしていく……。
すべてを受けとめて――ぱちんと消えてしまうつもりなのだ。
「ミモぉぉお――!!」
きらめく稲妻のなか、目を血走らせ、歯をむきだした栄二の最後の叫びは、立てつづけに鳴る雷の轟音にかき消された――。




