3 熊の耳の穴
栄二がふと目線をかたむけると、寝室が片づけられていた。
「あ、気づかれましたか――」
ミモが反応するも、栄二はすぐにたちあがり、確認に向かう。
栄二は寝室を重要視しており、他者の手をくわえられることを厭うている。そのせいで、何人かの女友だちを放逐しているのだ。栄二にも堪忍袋というものはある。
栄二はするどい目線で見渡したものの、細かい配置は変わっておらず、ふとんのしわがのばされ、衣類がきれいにたたまれていただけだった。
全体に掃除機がかけてありそうだったので、一度ぜんぶ動かし、掃除後にもとにもどしたのだろう。手間がかかっている。そしてなにより驚いたのは、栄二がそろそろ再読すべきかと迷っていた漫画本が枕の横に添えてあったことだった。
「ああ、本棚を整理しようかと思ったら面白そうだったので、つい手をとめて読んでしまったのです。手はないんですけどね、ふふ」
敷居に立つ栄二の横にミモがきてゆれた。
まるで栄二に気に入られようとしているというより、心を読んでいるかのようなさりげなさである。
人間さんとしては懐疑的にならざるを得ない。
しかし、騙してもなにもでてこない栄二を騙す謎の物体の意図とは――。
「あ、あと、みるつもりもなかったんですが、ふすまの衣装ケースのなかに、ほつれて穴の開いたセーターがありました。クマさんのドット柄の手編みの」
「ああ、あるね」
栄二は目を大きくする。いきなり踏みこんできた感がある。
「あれは中学生の頃に婆ちゃんが編んでくれたやつでね、その頃ぶかぶかだったから、いまでも着られる。唯一実家からでるときにもってきた服なんだけど?」
「なるほど、大事にあつかっているのがわかりましたので」
ミモはもじもじ動く。
「ちょこっと繕っておきました」
栄二はびっくりして、ふすまを開けて、ケースからセーターをひきずりだす。
両手でひろげてみて、二度びっくりした。
穴が開いてほつれていたところが、どこをどう直したのかきれいに埋まっている。
クマの耳に穴が空いていたのだが、耳の穴が耳の穴にもどったのだ。
「手練……」
手はないけれど。敏腕……腕もないけれど。もはや達人……人でもないけれど。
「ええ、やりすぎだといわれたらどうしようかと思ってたんです、ええ、もとにもどすこともできますけど」
もとにもどせる? どうやって。
でも、もはや訊くのは無粋だと栄二は思う。
「学生の頃に酔った勢いでふざけて公園のフェンスを乗り越えたら、針金にひっかかったらしくて穴が開いちゃったんだ。一生の不覚だったわけ。どうもありがとう」
いえいえ、ミモは照れながら水面に落とした絵具のように全体の一部をにじませた。
栄二はその夜ふとんに入り、ミモとの生活について悩んだものの、寝つく頃には悩むのをやめた。
騙す騙さないとか、だんだんどうでもよくなりつつある。
なにか企みがあるのだとしても、ミモのほうがはるかに達者であるため、栄二はそれにさえ気づけないのだ。
裏切られても裏切られたことに気づけないだろうし、なにかを失うのかどうかすらわからない。
そもそもいまの栄二にうばわれるものや失うものがあるか、栄二にさえ想像がつかない。
相手が仲良くしてくれるなら、おなじていでほどよくつきあおう。
それが栄二の人生における流儀でもあった。
そう思って暮らすと、ミモとの生活は案外楽しいものだった。
そもそもミモは栄二のなにかを侵害しようとしているわけではない。
居候といいつつも生活費に影響はないし、むしろ無償で手伝いをしてくれている。
押しつけがましいところはあまりなく、背中のかゆいところをときにさりげなく、ときに豪快にかいてくる感じ。
近所からクレームがくることもないので、栄二が不在のさいは静かに過ごしているのだろう。
なにより、北風の吹きすさぶ寒い夜に帰宅し、灯りがついていて夕飯が準備されていたりするのは案外いいものだった。
栄二はその手の感傷をもたないタイプだったが、人間さんのそれとはちがいミモの厚意はあまりにも自然で、受けとる栄二の感覚としては偶然信号で青がつづいたり、好きな色の商品が売れ残っているようなものだった。
懸念していた女友だちたちとの軋轢は生じなかった。
一度、推しが強いことが売りだと自負している一人が電話をしてきたので、「いま親戚がきてるから」と断ったさい、「新しい人ができたの?」と詰りかけられたが、めずらしく「まァいいや、私もいま忙しいから。とりあえず、また連絡する」とおとなしく引きさがった。
その後、めずらしくだれからもメッセージのたぐいさえこなかった。
そもそも栄二から呼びかけることはなかったから、誘いが一切ないのはふしぎではあった。
でも流星や隕石を今か今かと待ちうける生活は落ち着かないので、栄二は考えないことにした。
一週間以上だれからも連絡がないが、それは平和のうらがえしと思うことにした。
その間、栄二とミモはだんだん打ち解けた。無執着な人間さんと謎の物体との関係なので、おたがいあまり踏みこむことはなかったが、朝夕は円卓で交流し、休みの日はいっしょに家事をした。
一度、夕飯で鍋にしたとき、「明日はお休みですし、わたしを気にせず召しあがってください」と勧めてきたので、栄二だけがビールを飲んだ。
飲んだらとまらなくなって、酔っぱらったため、いつもより会話がはずんだ。
「ミモは人間さんではないとして、なんなの?」
「ええ、ここだけの話、わたしはK○○○○○の極秘ラボで生まれた有機生命体です」
「へぇ、大手のメーカーはいろいろやってるんだね」
「そういうものなんです」
「それで逃げだしたの?」
「逃げたというか……ぬけだしましたね。人間さんのアニメで鳥っぽい魚の子がそんなふうにするお話がありましたか」
逃げるとぬけだすのちがいってなんだろう。
「あれって、大勢じゃなかったっけ? ミモにはきょうだいがいるの?」
栄二がゲヒッとちいさくゲップすると、ミモはしびれた黒猫みたいにぶるぶるっとふるえた。
「――あ、グラスが空いてますね。もう一本お持ちしましょう。もどったら、人間さんのお話を教えてください」
ミモはそそくさと冷蔵庫に向かった。
栄二がなにか核心めいたのか、それについてはぐらかされたのかはわからなかった。
ミモにも心の聖域があるのかもしれない。
ミモは人間さんの話に関心があるようだったが、話せば話すほど栄二には無機質に思えた。
女友だちにせよ、男たちにせよ、この世界にせよ、説明が深くなればなるほど、嫉みや妬みなんかにも触れざるをえない。つまらぬ争いやつまらなくもない争いなどにも。
それらはミモとは無縁の感情で、ミモからしたらだからこそ興味深いのかもしれないけれど、なんだか昔のやんちゃ自慢をしている課長みたいで栄二には鼻もちならないものだった。
でも、それによって人生をふりかえったり、祖父母を思いだすきっかけにはなった。
それが必要なことかはわからないけれど、ミモが一喜一憂して聞いてくれたので栄二にもそれでいいと思えた。さまざまな人間模様、さまざまな流儀。
そして、変化が起きたのは二週間後、12月24日のことだった。




