マリィとパン
「カイト少尉、いらっしゃいますか? 」
アキヨシが通信隊の部屋のドアをノックしながらそう言った。ロングーン市街地の中央にあるコンクリート造の二階建ての建物がヒルマン方面軍軍司令部となっておりその建物はヤポン軍が接収したものであった。
「カイト少尉? 」
アキヨシは再度木製のくたびれたドアをノックした。すると漸く中から「うぅ~ん」と低い声が聞こえてきた。時刻は朝の9時で普通なら間違いなく起きている時間なのだ。アキヨシは「開けますよ」と言ってドアを開けた。部屋の中には入って正面の奥に大きな事務机がありそこに一人の男が突っ伏して寝ている。その前には長方形の会議用テーブルと大きなソファが並べられていてソファの上に別の男が寝ていた。
「煙草の匂いが凄いですね、後で掃除しておきますね」
アキヨシがそう机の上を見ながら言った。正面の奥の机の上には灰皿が置いてありその上には煙草の吸殻がてんこ盛りになっている。サ・ガンは大の愛煙家であり机に突っ伏して寝ているのはまさしくサ・ガンであった。そしてその前のソファから足をはみ出させて仰向けで寝ているのがカイトであった。その部屋はサ・ガンとカイトが常時使う仕事部屋なのだ。
「……今何時だ? 」
「もう9時を回りましたよ」
目をこすりながらカイトが上半身を起こした。いつもは綺麗に剃られている髭が今日は黒い胡麻のように散りばめられている。
「昨夜は忙しかったんですか? 」
「そうなんだ……前線で破壊した敵の車輌の中にベイ国語で書かれた書類が大量に見つかってな。機密文書の可能性があるってことで大至急の翻訳を命令されたんだ。サ・ガン中将と一緒に二日徹夜して三日目の昨夜3時に漸く終わったんだ。あ~眠い」
カイトはそう言いながら大欠伸をした。目の下には大きな隈が出来ている。サ・ガンに至っては机の上でうつ伏せのままピクリともしない。アキヨシはサ・ガンの為になるべく音を立てないようにしてカイトにすっと近づくと耳元でこう言った。
「面会人が来てますよ」
するとカイトは起こした上半身をソファの背もたれに預けながら面倒臭そうにこう言った。
「嘘つけ」
「本当です」
「誰だよ?」
「なかなかの美女ですよ」
すると突然寝ていた筈のサ・ガンが寝言で「美女!? 」と叫んだ。サ・ガンは売春宿に行くようなことはしないが実はそこそこ女好きであることをカイトもアキヨシも知っていた。二人は顔を見合わせて笑った。だがカイトは真顔に戻ると小声でアキヨシに聞いた。
「本当に女か? 」
「はい、そうですよ」
「誰だろう? 」
「知りませんよ、早く身支度して行って下さい」
「はいはい」
カイトは慌てて髭を剃りサ・ガンの整髪料を勝手に借りて前髪を整えた。そして仕事部屋を出て洗面室へ行くと大急ぎで歯を磨きその後面会室に向かった。だが建物一階の通路を歩きながらカイトはふと思った。
「思い当たる節がない。やっぱりアキヨシにからかわれているのかもしれないな。もしかしたら……近くの売春宿からの誰かのツケの督促かも? いや、待てよ……誰かが婦女暴行でもやらかしたか!? 」
様々な予測をしているうちにカイトは何か面倒臭くなってきた。カイトは面会室のドアを少し乱暴にノックした。「はい」と声がしたのでカイトは「ヤポン人か」と思いながらドアを開けた。
「こんにちは、カイトさん」
そう言って目の前に立っていたのはマリィであった。白いワンピースを来て麦わら帽子を被った笑顔の彼女を前にしてカイトは多いに戸惑った。
「えっ!? あっ! マリィさん? どうしたのです? 」
「今朝お家でお母様とパンを焼いたのです。美味しいパンが焼けたのをお父様が見てカイトさんとサ・ガンさんに持って行ってあげたら? と言ったので持ってきちゃいました! 」
彼女はそう言って手にした小さな袋をカイトに差し出した。周囲にはいつの間にかパンの良い匂いが漂っている。カイトはその袋を手にすると思わず中を覗き込んだ。
「どうぞ、召し上がって下さい」
彼女は笑顔でパンを勧めてくる。カイトはその一つを手にとって口に運んだ。ほんのりとしたバターの甘さが感じられる。「美味い! 」と思わずカイトは叫んでしまった。
「わぁ! 良かった! 嬉しい! 」
ほんのりと頬を赤らめて笑顔でそう言うマリィを見ているとカイトはここが戦地だということを忘れてしまいそうになった。
「あ、ありがとうね」
「サ・ガンさんもいらっしゃいますか? 良かったら是非食べて下さいとお伝え下さい」
「あの人はまだ寝てるよ。最近忙しくてね」
「カイトさんもお忙しいのですか? 」
「まぁね」
「……寝不足とか? 」
「えっ!? よく分かったね」
「だって少しお疲れの顔をしていらっしゃるから」
そう言って上目遣いでカイトの顔を覗き込んでくるマリィとカイトは目を合わせた。少し茶色がかった髪の毛、やや青みの帯びた瞳、スラッとしたスタイル、彼女は何処かの雑誌に出ていてもおかしくないぐらいの美人なのだ。
「……マリィさん」
カイトはふとそう呟いた。するとマリィは赤らめた顔を更に赤くして目線をカイトから外しこう言った。
「え、えっと……とにかく喜んで下さって良かったですわ。また美味しいパンが焼けたらお持ちしますね」
そう言うと彼女は慌てて部屋を出て帰ってしまった。もう少し話したかったカイトだが彼女にも都合があるのだろうと思いパンの入った袋を手にして仕事部屋に戻った。するとサ・ガンがいつの間にか起きていて机に座っている。その横でアキヨシが部屋の掃除をしていた。
「サ・ガン中将、パン食べますか?マリィさんが差し入れしてくれました」
「何っ!面会の女性というのはスガイヤさんの娘さんだったのか!?」
「はい、そうですけど」
仕事部屋の入口で突っ立っているカイトを椅子に座ったまま睨みつけていたサ・ガンだがその後急に笑顔になってこう言った。
「お前もなかなかやるな!」
「何のことです?」
カイトはとぼけたがその横ではアキヨシが掃除の手を止めてニヤニヤとカイトを見つめている。
「何だよ」
「いえ!何でもありません!少尉殿!」
そう言うとアキヨシはニヤけたまま部屋を出ていった。カイトは自分のソファに座って目の前に散乱している書類を整理しつつパンを頬張った。昨夜のうちにやるべき仕事はやったので今日は何となく気が緩んでいるという自覚はあったがあまりダラダラした態度はサ・ガンに見せられない。カイトはその日マリィのパンを摘みながら仕事をしている振りを夕方まで続けた。




