帰還
「……うぅ」
ポタッポタッと顔に水滴がかかってカイトはふと目を覚ました。周囲を見回すとまだ薄暗く小雨が降り始めている。時計を見ると朝の6時であった。いつの間にか塹壕の中で壁にもたれ掛かったまま寝てしまったらしい。昨夜カイトは遅くまで仲間の遺体を埋葬していたのでかなり疲れていた。遺体を運んでは埋めるという作業を何時間も繰り返したのだ。カイトは自分の身体から死臭が漂っている気がした。
「腹……減りましたね」
「……あぁ」
隣にはアキヨシがカイトと同じく壁に寄りかかっている。汗と雨で二人の軍服はビショビショだ。気温は高くジメジメとして不快なことこの上ない。そこに空腹が追い打ちをかける。二人の腹が交互にグゥグゥ鳴っていた。そしてアキヨシがふと陣地後方に顔を向ける。
「……カイト少尉」
「何だ? 」
「陣地後方から誰か歩いてきます」
「何っ!? 」
カイトは立ち上がりアキヨシが顔を向けている方向を見た。するとヤポン陸軍の制服を着た兵士が数十人こちらに向かって歩いてきている。傍にいたオーキが言った。
「援軍が来てくれたようだな」
もうまともに動ける兵士は五十人もいないのだ。次に敵戦車が襲ってくれば全滅してしまうかもしれないと思っていたカイトは心の底から喜びが沸いてくるように感じた。
「誰が来てくれても……大歓迎ですね」
アキヨシがそう呟く。次の戦いの始りが自分の死へ繋がるとその場にいた全員が思っていたのだ。塹壕内に安堵の空気が広がる。カイトは歩いてくる友軍兵士を見ながらふと「彼らが来た道を真っすぐ戻ればロングーンに戻れるなぁ」と小さく呟いた。ロングーンでの楽しい思い出がカイトの心の中に映画の様に映し出される。塹壕の中で土と死臭にまみれた今の自分がとてつもなく惨めに思えた。
「ありゃ何だ!?」
突然そうオーキが叫んだ。オーキが歩いてくる兵士を見つめながら呆れたような表情をしている。カイトも歩いてくる兵士をもう一度よく見てみた。すると彼らの多くは草臥れたボロボロの制服を着て痩せ細った兵士だった。中にはふらふらと真っ直ぐ歩くこともままならない兵士も見える。
「……あれで応援かよ」
アキヨシがそう小さく呟いた。その後合流して尋ねてみると彼らは別の戦線から引き抜かれた部隊とロングーンからの応援の部隊との混成とのことで人数は150人であった。ロングーンから来た兵士はまだ比較的元気そうだがその数は二十名程である。それ以外の兵士は塹壕陣地に到着した途端に座り込んでしまう程疲労困憊の状態であった。
「次の攻撃ぐらいは……どうにかもってほしいな」
オーキがそう溜息混じりに言った。カイトはその場に再び座り込むと両腕で顔を覆った。「どうせいずれはここで死ぬのだ」と思いながらカイトは深いため息をついた。
「マリィさん……」
ふとカイトはマリィを思い出した。もう一度会いたいとカイトは強く思った。するといつの間にかカイトの目から涙が溢れて頬を伝った。「国の為に自ら進んで命を捧げることが出来るのが真のヤポン軍人だ」と教えられてきたカイトであったが思わずこう呟いていた。
「そんなのに……なりたくもねぇ」
その時だった。塹壕陣地の中でカイトを探している一人の将校がいた。
「カイト少尉! カイト少尉はいらっしゃいますでしょうか? 」
塹壕の壁に寄りかかりながら失意のどん底にいるカイトを誰かが探しているのだ。だがカイトはそれどころではなく最初はその声に全く気が付かなかった。
「カイト少尉はこちらですよ」
オーキがそう言ってその将校をカイトの横まで連れてきた。カイトは漸く状況を悟り慌てて目の周りを土まみれの両手で拭うと立ち上がった。
「私がカイトですが」
そう言ったカイトの前にはまだ比較的元気そうな将校が立っている。彼の軍服も所々汚れていたが他の連中に比べればまだマシであった。
「私はヒルマン方面軍司令部より派遣されましたマキノと申します。司令部からの命令をあなたにお伝えしに来ました」
「命令? 」
カイトは思いっきり訝しんだ表情になった。心当たりが全く無かったからである。だがそのマキノという男は淡々とこう言った。
「至急司令部に戻られたしとのことです」
「えっ!? 」
カイトは一瞬彼が言っていることが理解出来なかった。暫くの間その男の顔をまじまじと見つめていた。
「理由は何です? 」
「そこまでは私には伝えられておりません」
カイトは傍に立っていたオーキを見た。オーキも驚いた表情をしていたがそのうちニコリと笑ってこう言った。
「カイト少尉、すぐに司令部に向かって下さい。後は我々に任せて下さい」
「ですが……」
カイトは困惑している。するとオーキがカイトの耳元に顔を寄せてこう言った。
「あなたは運が良いですよ」
この塹壕で死ぬと漠然と思っていたのが急にここから離れて良いと言われてカイトは正直なところ戸惑っていた。もう一度生きてロングーンに戻れる喜びは勿論あったがオーキやアキヨシをここに残して自分だけが前線を離れることに罪悪感を感じていたのだ。するとそんなカイトの心の中を見透かしたのかオーキがこう付け加えた。
「命令ですからグズグズしていてはいけません。早く行って下さい。早く行かないとノザワに報告しますよ」
そう言って微笑むオーキはカイトの肩をポンと叩いた。普通なら妬みの感情があっても良い筈なのにオーキはそんな表情は微塵も見せない。するといつの間にかアキヨシもカイトのすぐ傍に立っていた。
「カイト少尉、ロングーンから一緒でしたがいよいよお別れですね。今までありがとうございました」
そう言って右手を差し出してくるアキヨシを見てカイトの目から大粒の涙が零れた。そしてカイトは泣きながらアキヨシの右手を強く握りしめた。
「……すまん」
「道中気を付けて下さいね。この辺には虎なんかがうろうろしていますからね」
カイトは僅かに頷き涙を拭うと塹壕を出て陣地を後にした。地獄の最前線から離れられたがこれから一人でロングーンまで徒歩で移動しなければならないのだ。死の危険がない訳ではない。カイトは僅かな乾パンを入れた背嚢を背負い護身用の拳銃を腰に下げて一人荒野を南に歩き始めた。そして六日後に無事にロングーンに辿り着いた。




