第四話『涙の奇跡』
「っ…!」
重力に逆らえず真っ逆様に落ちる先。
齢八にして、この先にある『死』は容易く想像できた。
ぎゅっと目を閉じた。
痛みはあるのだろうか。
それとも、すぐに意識がなくなってしまうのだろうか。
恐怖、不安ーー色々なものが入り混じった。
(でも、私が死ねばーーきっと)
世界が悪い方へ行く事はない。
そう思ったが。
ガサガサガサッーー。
恐れていた激しい痛みも、意識が遠のく感覚も訪れなかった。
むしろ、緑の香りに包まれて柔らかな木々がクッション代わりとなり、小さな体は受け止められた。
「たす…かって…しまった…?」
死を望んでいたかのように、つい言ってしまった。
「うわぁっ…!?」
幾重にも重なった枝葉に受け止められた体はものの数秒で地面に落ちた。
ドン、と鈍い音がし、臀部に痛みが走った。
「いたた…」
痛みが走る箇所を撫で、痛みが和らいだタイミングでゆっくりと立ち上がった。
辺りを見渡すと、木、木、木ーー木ばかり。
少し先には、川があり、今となればそこへ落ちなくて良かったと思った。
「早く戻らなければ…でも…」
地面に落ちた際、着物が汚れてしまった。
藤乃の存在は、水瀬家の汚点として隠されたもの。
外へ出る事自体禁じられているというのに、着物まで汚してしまったと当主に知られたら、どのような罰を与えれるか分からない。
川は夕日に照らされ、静かに揺れていた。
藤乃は手拭いを握りしめ、その川へ足を向けた。
「わぁ…綺麗…」
湖に着くと、夕陽が反射する綺麗な水面に思わず見惚れた。
川に近づき、手拭いを水に浸けた。
冷んやりとした水。
透明感があり、夕暮れでも川底が見える。
思わずじっと見つめながら手拭いを揉んでいると、川上の方から赤黒い液体が流れてきた。
その液体は、透明で澄んだ川底が見えなくなるほど。
「なにこ…れっ!?」
赤黒い液体の元を辿ろうと、川上の方に視線を向けると人が横たわっていた。
これは、血だ。
息を飲み、声が出なくなる藤乃。
けれど、彼女の中にも人の命を救う『治癒術』の名門・水瀬家の血が流れており、本能的に横たわる人の元へ駆けた。
「う、っ…」
近付けば、十代から二十代くらいの男性。
腰には刀を携えていることから、軍人か警察官など特定の職業に就いている者。
大きな切り傷が数箇所あり、白い服は傷口から赤黒く染まっている。
口から吐血した様子も見受けられる。
かなり危険な状態ではあるが、息はある。
(まだ、助かる…!)
早く家に戻って、治療を施せば何とかなるかもしれない。
けれどーー落ちたこの場所から屋敷へ戻って、再度ここへ来るには時間がかかりすぎる。
「大丈夫です。私が…何とか致します…!」
細くなっていく息。
彼にそう伝えると、ごくりと生唾を飲んで覚悟を決めた。
七歳になっても、能力が出なかった藤乃。
けれど、当主ーー父は、藤乃に期待するのを辞めたわけではなく、使用人としての仕事をさせながらも術の習得に熱心だった。
ごく稀にある七歳を超えてから能力が開花すると信じていたのだ。
そのため、藤乃にも術の知識はある。
「まず、止血…」
そう言うと、手のひらを切り傷に近付けて力を込めた。
(念じて…血が止まるよう…そうしたら、血を循環させる…血が不足しているところに、造血の術を…そうしたら、この方は…)
頭の中では理解していた。
治療の仕方、最適な方法ーーけれど。
「血が…止まらない…」
川に流れる血は止まらない。
それどころか、彼の顔はどんどん白くなり生気が薄れていく。
彼のように瀕死の状態の人の治療なんてした事がない。
けれど、彼の死がどんどん近付いているのが分かった。
基本である止血すらまともにできない。
(これじゃあ、私が彼を助けるなんて…無理だ…)
止血の為にかざした手を下ろすと、絶望感で胸が押しつぶされそうだった。
たとえ、殴られても、蔑まれてもそれは自分が悪いからただ、自分を責めていた。
泣いたりなんてできなかった。
能力のない自分が悪いのに、おこがましい気がして。
けれど、彼はーー藤乃のせいで死んでしまう。
そう思うと、彼女の頬を一筋の涙が伝った。
「ごめんなさい…出会ったのが、私だったから…っ」
自分でなくて、他の治癒師だったら。
彼の処置を完璧に出来たのに、と自責の気持ちでいっぱいになり涙が止まらずぽろぽろと溢れた。
その涙が一滴、彼に落ちるとその雫からぶわっと光が彼を包み込んだ。
「なっ…!? な、に…?」
初めて見る光景に、藤乃は目を丸くした。
彼の体は光に包まれると、みるみる深手を負った傷が回復していく。
顔色がだんだんと良くなっていくと、青白かった頬に少しずつ赤みが戻っていき、ものの数分で処置が完了した。
血で汚れた顔を拭いていると、彼の瞼がピクッと動いた。
「ん…っ…?」
声を漏らし彼がゆっくりと目を開けると藤乃と目が合った。
「っ…!」
泣き顔を見られたくなくて、思わず顔を逸らした。
「キミ…は…?」
「っ…」
回復し上体を起こした彼の問いに答えず、慌ててその場を立ち去ってしまった。
「あっ、キミ…! …これは」
藤乃の方に手を伸ばすが、立ち上がれるほどまでには回復しておらず、彼女の背中に向かって手を伸ばした。
ただ、手拭いを彼の元に残してしまった。
「藤乃ーーというのか」
手拭いに刺繍された名前を静かに呟く。
その名を胸に刻んだ青年は、まだ知らない。
十年後、再び彼女と巡り会い、生涯を共に歩むことになる未来をーー。




