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右近と左近  作者: 双鶴


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第9話 潮煙の一月(太田左近視点)

 織田信長軍が雑賀の地から撤退した――

 その報せが紀州一帯に広がると、

 長く鬱積していた怒りが一気に噴き上がった。


 雑賀衆が兵を挙げたのである。


 潮風に混じって、火薬の焦げた匂いが漂い始めた。

 鍛冶場の槌音は荒々しくなり、

 城下の空気は、まるで嵐の前触れのように重く張りつめていた。


「太田左近殿! 孫市勢、すでに兵を挙げ太田城へ向かっております!」


 使者の声は震え、

 衣には火薬と汗の匂いが染みついていた。


 太田左近は塁上に立ち、

 太田城を取り囲む雑賀の山々を見渡した。

 空は曇り、雲の切れ間から差す光が堀の水面に鈍い反射を落とす。


 ――来る。


 その予感は、風の匂いでわかった。


 やがて、雑賀孫市の旗がいくつも現れた。

 黒い旗、赤い旗。

 火縄の煙が白く立ち上り、

 風に流されて城壁にまとわりつく。


 次の瞬間、火蓋が切られた。


 轟音。

 火薬の匂い。

 白煙が視界を覆い、

 土壁に無数の弾痕が刻まれる。


 太田城は揺れた。

 だが、崩れはしない。


 孫市勢の攻撃は激しかった。

 鉄砲の名手たちが櫓に立ち、

 火縄の火が風に揺れ、

 銃口が一斉に城を向く。


 太田城の堀には火薬の灰が浮かび、

 水面は黒く濁っていた。


 左近は、兵たちに短く命じた。


「撃て」


 その声は静かだったが、

 兵たちは即座に動いた。


 太田城の櫓から火花が散り、

 銃声が山にこだました。


 だが、孫市勢は退かない。

 雑賀衆は、攻めると決めたら止まらない。


 戦は昼夜を問わず続いた。


 そして――

 織田信長が動いた。


 佐久間信盛を総大将に、

 八万の大軍が紀州へ向かった。


 八万――

 その数は、雑賀の山々を覆い尽くすほどの大軍である。


 だが、雑賀の地形は複雑で、

 鉄砲戦術に長けた雑賀衆は、

 佐久間軍を翻弄した。


 太田城の塁上から、

 左近はその戦いを見つめていた。


 山の向こうで火柱が上がり、

 煙が空を覆い、

 風がその煙を城の方へ運んでくる。


 焦げた匂い。

 湿った土の匂い。

 血の匂い。


 佐久間軍は、

 ついに雑賀を制圧できず敗退した。


 だが、戦は終わらない。


 孫市勢は再び太田城を包囲した。

 その数は目に見えて増えている。


 左近は、

 根来寺へ使者を送った。


 根来衆――

 僧兵たちは、太田左近の要請に応じた。


 法螺貝の音が山に響き、

 僧兵たちの足音が地を揺らす。

 彼らの到着と共に、

 太田城の士気は一気に高まった。


 攻城戦はさらに激しさを増した。


 火矢が夜空を裂き、

 堀の水面に赤い光が揺れる。

 鉄砲の火花が散り、

 土壁が崩れ、

 櫓が軋む。


 一進一退。

 攻めても崩れず、

 守っても押し返せず。


 戦は、

 まるで潮の満ち引きのように続いた。


 怒涛の勢いに耐え忍ぶ一か月。


 太田城は、

 その一か月を耐え抜いた。


 ある日の夕刻。

 雑賀孫市から使者が来た。


「太田左近殿。

 これ以上の戦は、双方に益なし。

 和睦を望む」


 左近は静かに頷いた。


 孫市の判断は正しい。

 雑賀の地を守るためにも、

 ここで血を止めねばならない。


 和睦は成立した。


 太田城の堀に映る夕陽は赤く、

 その光は、

 戦の火をようやく鎮めたかのように見えた。


 太田左近は塁上に立ち、

 潮風を受けながら静かに目を閉じた。


 ――太田城は守られた。


 その事実だけが、

 左近の胸に静かに沈んでいった。


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