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右近と左近  作者: 双鶴


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第8話 雑賀の風(太田左近視点)

 天正五年。

 紀州の空は、海から吹き上げる湿った風に満ちていた。

 潮の匂いと草木の青い匂いが混ざり合い、

 その風は、戦の気配を孕んで重く流れていた。


 太田左近――

 雑賀宮郷衆の若き頭領。


 だが、その胸の奥には、

 この世界の誰も知らぬ“もうひとつの名”が静かに沈んでいた。


 桜和友。


 かつてそう呼ばれていた記憶は、

 今も確かに左近の中に残っている。

 夕暮れの匂い、電車の揺れ、

 隣で笑っていた少年の横顔――

 それらは、戦国の荒々しい風の中でも消えることはなかった。


 そして、

 あの少年――橘重友が、

 この世界のどこかで生きていることも、

 左近は確信していた。


 ただ、今は、雑賀の地を守る太田左近として立つのみである。


 左近は、太田城の塁上に立ち、

 紀州の山々を見渡した。

 空はどんよりと曇り、

 雲の切れ間から差す光が堀の水面に鈍い反射を落とす。


 太田城は、来迎寺と玄通寺を中心に広がる平城である。

 二町半四方の城域を深い堀が囲み、

 塁上には土壁が築かれ、

 各所に高い櫓がそびえていた。


 堀の水は濃い緑色をしており、

 風が吹くたびに波紋が広がり、

 その下に沈む杭がかすかに軋む音を立てる。


 雑賀衆は、いま敵味方に分かれていた。

 織田信長が紀州へ侵攻したことで、

 雑賀の地は風雲急を告げている。


 その中で、

 太田左近を党首とする宮郷衆は、

 信長軍に協力する道を選んだ。


 城下では、鉄砲鍛冶の槌音が絶えない。

 火薬の焦げた匂いが風に乗り、

 銃身を磨く鉄の擦れる音が響く。

 雑賀衆の鉄砲は天下に名を轟かせており、

 その技術と火力は、信長軍にとっても魅力的な戦力だった。


 左近は、腰の火縄銃に手を添えた。

 木の感触は手に馴染み、

 鉄の冷たさが指先に伝わる。


 ――戦が近い。


 その予感は、空気の重さと共に確かにあった。


 太田城の三つの門――

 大門、南大門、西北門は、

 いずれも鉄板を打ち付けた堅牢な造りで、

 槍を構えた兵が厳重に警戒している。


 左近が門の前に立つと、

 兵たちは自然と背筋を伸ばした。


 雑賀衆は、

 敵にも味方にもなる。


 その気質は、

 この地の風そのものだ。


 自由で、

 気まぐれで、

 しかし一度決めたら揺るがない。


 左近は、

 その雑賀の気質を誰よりも理解していた。


 城下の道を歩けば、

 商人たちが慌ただしく荷をまとめ、

 農民たちが家財を抱えて避難の準備をしている。

 その表情には不安が浮かび、

 しかしどこか諦観のような静けさもあった。


 雑賀の民は、

 戦に慣れている。


 左近は、城の外へ出て、

 雑賀の海を見渡した。


 波は荒く、

 風は強く、

 空は重い。


 そのすべてが、

 これから訪れる戦の気配を告げていた。


 太田左近――

 その姿は、精悍で、

 目には揺るぎない光が宿っていた。


 だが、その奥底には、

 戦国の荒波に呑まれながらも消えぬ“ひとつの願い”があった。


 ――重友。

 どうか、生きていてくれ。


 雑賀の風が吹き抜ける。

 その風は、

 戦国の荒波へと向かう者の背を押すように、

 強く、鋭く吹いていた。


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