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右近と左近  作者: 双鶴


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第5話 闇の間(高山右近視点)

 元亀四年、三月。


 摂津の夜は、まだ冬の冷たさをわずかに残していた。

 高槻城へ向かう山道には、湿った土の匂いが漂い、

 馬の蹄が踏むたびに、ぬかるんだ音が低く響いた。


 高山右近重友は、父・友照と共に馬を進めていた。

 同行する家臣は十四、十五名。

 皆、鎧の下に冷気を閉じ込めたまま、無言で進む。


 ――呼び出しは罠だ。


 そう知らせてきたのは、和田家中に潜む味方だった。

 惟長が反高山派の家臣と共に、

 「話し合い」と称して高山父子を呼び出したという。


 しかし、父は言った。


「逃げれば、かえって疑いを深める。

 行かねばならぬ。右近、覚悟を決めよ」


 右近は頷いた。

 胸の奥に冷たいものが沈む。

 だが、恐れではない。

 むしろ、静かな集中が身体を満たしていく。


 高槻城に近づくにつれ、

 夜気はさらに冷たくなり、

 城壁の石が放つ湿った匂いが強くなる。


 城門が開くと、

 松明の火が揺れ、

 油の焦げる匂いが鼻を刺した。


 案内役の家臣は、どこかぎこちない。

 足音が速く、肩が強張っている。

 その背中を見ながら、右近は静かに呼吸を整えた。


 通されたのは、広間の一室。

 畳は新しく、香の匂いがほのかに漂っている。

 床の間には掛け軸があり、

 その前に惟長が座していた。


 若い。

 だが、その目には焦りと猜疑が混ざっていた。


「高山殿、よく来てくれた」


 惟長の声は震えていた。

 その震えが、広間の静けさに不気味に響く。


 父・友照が口を開こうとした瞬間――

 襖の影から、数名の武士が飛び出した。


 金具の触れ合う音。

 畳を蹴る足音。

 鋭い息遣い。


 右近は即座に抜刀した。

 刃が鞘を離れる音が、広間の空気を裂く。


 斬り合いが始まった。


 松明の火が揺れ、

 影が乱れ、

 刀と刀がぶつかる金属音が耳を打つ。


 右近は一歩踏み込み、

 敵の腕を払って体勢を崩し、

 そのまま斬り伏せた。


 だが、次の瞬間――

 乱闘の衝撃で、部屋のロウソクが倒れた。


 火が消えた。


 広間は、一瞬で闇に沈んだ。


 息遣いだけが聞こえる。

 畳を踏む音が、どこからともなく近づく。

 血の匂いが、闇の中で濃くなる。


 右近は、火が消える直前の光景を思い出していた。

 惟長は――床の間の上にいた。


 迷いはなかった。


 右近は闇へ飛び込んだ。

 床の間へ一直線に。


 闇の中で、何かが動いた。

 右近は反射的に刀を振るう。


 一太刀。

 手応え。


 二太刀。

 深い手応え。


 惟長の短い叫びが、闇に吸い込まれた。


 その瞬間、背後から光が差し込んだ。

 駆けつけた高山家臣たちが松明を掲げていた。


「右近様!」


 その声が響いた瞬間――

 右近の視界が揺れた。


 家臣の一人が、敵を斬ろうとして振り下ろした刃が、

 誤って右近の首元をかすめたのだ。


 熱い痛み。

 耳鳴り。

 視界が白く染まる。


 右近は膝をつき、

 手を首に当てた。

 指先に触れたのは、温かい液体。


 だが、倒れはしなかった。

 意識を手放すまいと、歯を食いしばった。


 父の声が聞こえる。

 家臣たちの叫びが聞こえる。

 松明の火が揺れ、

 油の焦げる匂いが強くなる。


 右近は、闇の中で静かに目を閉じた。


 ――生きねばならぬ。


 その思いだけが、

 意識の底に残った。


 傷は深かった。

 誰もが助からぬと思った。


 だが、右近は生きた。


 幾日も熱にうなされ、

 喉が焼けるように乾き、

傷口は痛み続けた。


 それでも、右近は死ななかった。


 回復したとき、

 右近の胸には、ひとつの確信が芽生えていた。


 ――自分は、生かされたのだ。


 その思いは、

 右近をさらに信仰へと傾けていった。


 摂津の夜風は冷たく、

 遠くで犬が吠える声が響いていた。


 戦国の闇は深い。

 だが、その闇の中で、

 右近は確かに生き残った。


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