第6話 高槻の天主堂(高山右近視点)
元亀四年の春が過ぎ、夏が近づく頃。
高槻の空は、湿り気を帯びた白い光に満ちていた。
高山右近重友は、まだ完全には癒えきらぬ首の痛みを抱えながら、
新たに与えられた高槻城四万石の領地を見渡していた。
風が吹くたび、城下の田畑から青い稲の匂いが立ち上る。
その匂いは、戦の血の匂いとは違い、どこか穏やかで、
右近の胸に静かな熱を灯した。
――生きている。
あの夜、闇の中で惟長を討ち、
味方の誤刃で首を深く斬られた。
誰もが助からぬと思った傷だった。
だが、右近は生きた。
その事実が、右近の心に重く沈んでいた。
高槻城の修築は、右近の回復を待たずに始まっていた。
荒木村重の後押しを得て、高山父子は城主としての務めを果たすべく、
石垣の積み直し、塗り壁の補修、櫓の建て替えなど、
畿内で流行しつつある新しい様式を積極的に取り入れた。
城内には、木槌の音が絶えず響いている。
乾いた音、湿った音、木材が割れる音。
それらが混ざり合い、まるで城そのものが息をしているかのようだった。
石垣のそばを歩けば、
削られた石の粉が風に舞い、
鼻の奥にざらつく匂いが残る。
職人たちの汗の匂い、
木材の新しい香り、
石灰の白い粉の匂い――
それらが高槻城の“新しい時代”の匂いだった。
父・飛騨守は、城普請の指揮を執りながらも、
別の建物の建設にも心血を注いでいた。
――天主堂。
もと神社があった地に、
飛騨守は宣教師のための司祭館と共に、
堂々たる天主堂を建て始めたのだ。
右近がその場所を訪れたとき、
木の香りが強く漂っていた。
まだ骨組みだけの建物は、
陽の光を受けて白く輝き、
風が吹くたびに梁が軋む音がした。
「右近、どうだ。
この地に、神の家を建てるのだ」
飛騨守の声は、以前よりも柔らかくなっていた。
戦場で見せる鋭さではなく、
祈りを捧げる者の静けさがあった。
「父上……本当に、ここに?」
「そうだ。
この地には、かつて神社があった。
だが今は荒れて久しい。
ならば、新たな祈りの場を建てるのがよい」
飛騨守は、梁に手を置いた。
その手は、戦場で剣を振るってきた手とは思えぬほど穏やかだった。
「右近。
お前は生き残った。
あの傷で生きたのは、ただの幸運ではない。
神が、お前を生かしたのだ」
右近は返す言葉を持たなかった。
首の傷はまだ疼く。
夜になると熱を帯び、
時折、あの闇の中の息遣いが耳に蘇る。
だが――
確かに、生きている。
飛騨守は続けた。
「わしは五十を過ぎた。
これからは、武よりも信仰の道を歩む。
高槻城主の座は、お前に譲る」
右近は息を呑んだ。
父の声には迷いがなかった。
「父上……」
「右近。
お前は武にも優れ、
信仰にも熱い。
この地を治めるにふさわしい」
風が吹き、
建設中の天主堂の梁が軋んだ。
その音は、まるで新しい時代の扉が開く音のようだった。
右近は、ゆっくりと頷いた。
「……承知いたしました」
その言葉を口にした瞬間、
胸の奥に静かな熱が灯った。
戦国の世にあって、
武士として、
そしてキリシタンとして生きる道。
高槻の空は、白い光に満ちていた。
その光の下で、
右近は新たな歩みを始めた。




