第4話 血の兆し(高山右近視点)
元亀二年の夏は、例年よりも湿り気が強かった。
摂津の山々を渡る風は重く、どこか焦げたような匂いを含んでいる。
芥川城の石垣は昼の熱を吸い込み、夕刻になってもじんわりと温度を放っていた。
高山右近重友は、城の中庭に立ち、空を仰いだ。
雲は低く垂れ込み、色は鉛のように鈍い。
雨が降る前の、あの独特の重苦しさが空気に満ちている。
和田惟政が白井河原で討たれた――
その報せが届いてから、摂津国の空気は明らかに変わった。
城内の廊下を歩けば、兵たちの足音がいつもより速い。
甲冑の金具が触れ合う音は、まるで不安そのものが形になったように耳に刺さる。
台所からは煮炊きの匂いが漂ってくるが、その香りすらどこか落ち着かない。
惟政の死後、高槻城はその子・惟長が継いだ。
十七歳――若さゆえの未熟さは隠しきれず、政務は叔父の和田惟増が支えていた。
その惟増が、惟長の手によって殺された。
その知らせが芥川城に届いたのは、朝靄がまだ城下を覆っていた頃だった。
伝令の馬は泡を吹き、汗の匂いが強烈に漂っていた。
伝令の声は震え、言葉を絞り出すように告げた。
「惟増様……惟長様の御手にて……」
右近は思わず息を呑んだ。
惟増は温厚で、惟長を支えるために奔走していた人物だ。
その男が、甥の手で殺されるなど――
戦国とはいえ、あまりに急で、あまりに血なまぐさい。
その日から、高槻城の空気はさらに荒れた。
惟長の周囲には、彼を操ろうとする家臣たちが群がり、
その中には高山家を疎ましく思う者も多かった。
そして――
ついに芥川城へ、決定的な知らせが届いた。
「惟長様は……好機あらば、高山殿を討つべしと……」
伝令の声はかすれ、
その背後で馬が荒い息を吐いている。
汗と土と血の匂いが混ざり合い、右近の鼻腔を刺した。
父・友照は、すぐに荒木村重へ使者を送った。
摂津国を掌握しつつある村重の判断は、
この先の命運を左右する。
村重からの返書が届いたのは、日が沈みかけた頃だった。
空は紫と朱の境目が揺れ、城の影が長く伸びている。
蝉の声が遠くで響き、どこか焦燥を煽る。
書状は、墨の匂いがまだ残るほど新しかった。
筆跡は力強く、迷いがない。
「もしそうであるなら、殺される前に殺すべきだ。
我は兵をもって援助しよう。
惟長の所領より二万石を与える」
右近はその文を読み、
胸の奥に冷たいものが落ちるのを感じた。
――これが、戦国の理か。
殺される前に殺す。
それが当然の判断として記されている。
現代の記憶など、この世界では何の意味も持たない。
ここでは、迷えば死ぬ。
情けをかければ滅ぶ。
正しさよりも、生き残ることが優先される。
父・友照は書状を静かに畳み、
深く息を吐いた。
「右近。これは避けられぬ。
我らが生きるためには、決断せねばならぬ時がある」
その声は揺れていなかった。
武士としての覚悟が、そこにあった。
右近は、父の横顔を見つめた。
その表情には迷いがない。
だが、右近の胸には、言葉にならない重さが沈んでいた。
廊下の外では、風が吹き抜け、
竹林がざわめく音が響いている。
その音は、まるで何かを警告するように聞こえた。
夜が近づくにつれ、空気はさらに湿り、
土の匂いが濃くなる。
遠くで犬が吠え、
城下のどこかで戸が閉まる音がした。
摂津国は、今まさに血の渦へと飲み込まれようとしている。
右近は拳を握りしめ、
静かに目を閉じた。
戦国の風が、
確かに変わり始めていた。




