第3話 白井河原の風(高山右近視点)
元亀二年、八月。
摂津の空は、夏の名残を引きずりながらも、どこか秋の気配を孕んでいた。
湿った風が山の稜線を越え、芥川城の石垣を撫でていく。
その風には、草の青い匂いと、遠くで焚かれる兵糧の煙の匂いが混ざっていた。
高山右近重友は、城の櫓から遠くを見つめていた。
空の色は鈍い灰色で、雲が低く垂れ込めている。
雨が降る前の、重たい空気。
その空気の下で、摂津国の勢力図が大きく揺れようとしていた。
――白井河原の戦い。
和田惟政が、池田氏の被官・荒木村重と中川清秀の軍に敗れ、討死した。
その報せが芥川城に届いたのは、朝靄がまだ城下を覆っていた頃だった。
伝令の声は震えており、馬の汗の匂いが強く漂っていた。
「和田殿が討たれたと……!」
その言葉を聞いた瞬間、右近の胸に冷たいものが落ちた。
惟政は摂津国守護として、父・友照を信頼し、芥川城を預けた人物だ。
その死は、ただの一武将の死ではない。
摂津国そのものの秩序が崩れる音だった。
城内はざわめきに包まれた。
甲冑の金具が触れ合う音、兵たちの足音、
誰かが落とした槍の乾いた音が、石畳に響く。
右近はその喧騒の中で、静かに息を吸った。
胸の奥に、鉄のような匂いが広がる。
戦の匂いだ。
荒木村重――。
その名は、摂津の者なら誰もが知っている。
池田氏の被官でありながら、
その才覚と野心は主家をも凌ぐと噂されていた。
そして今、村重は信長に接近し、
「摂津国の切り取り勝手」を許されたという。
つまり――
摂津国の全域を、村重が好きに治めてよいということだ。
右近は櫓から見下ろす城下の景色に目を細めた。
田畑の緑は風に揺れ、川面は鈍い光を返している。
その穏やかな景色の裏で、
摂津国は大きく形を変えようとしていた。
三好氏に再び接近した伊丹氏は、
村重によって滅ぼされた。
摂津国は、石山本願寺が領有する石山周辺を除き、
ほぼすべてが村重の手に落ちた。
――戦国の風は、容赦がない。
右近は、胸の奥に沈んだままのもう一つの世界を思い出した。
世田谷の夕暮れ。
電車の揺れ。
和友の笑い声。
あの世界では、
戦で人が死ぬことはなかった。
領地が奪われることも、
家が滅ぶことも、
主君が討たれることもなかった。
だが、この世界では――
それが日常だ。
右近は拳を握りしめた。
指先に力が入り、皮膚が白くなる。
「……和友。お前なら、どう思うだろうな」
呟いた声は、風にかき消された。
誰にも届かない。
届くはずもない。
だが、右近の胸の奥では、
あの日の友の姿が静かに灯り続けていた。
荒木村重が摂津を掌握した今、
芥川城の行く末も、
高山氏の未来も、
決して安泰ではない。
戦国の風は、
これからさらに激しく吹き荒れるだろう。
右近は櫓から降り、
父のもとへ向かうために歩き出した。
石畳を踏む足音が、
静かな城内に響いた。




