第2話 芥川の風(高山右近視点)
永禄十一年――。
摂津の山々に、初夏の湿った風が吹き抜けていた。
芥川城の石垣は、夕陽を受けて赤く染まり、
その上を渡る風は、どこか鉄の匂いを含んでいるように思えた。
橘重友――いや、今は高山右近重友として生きる少年は、
その匂いを胸いっぱいに吸い込み、静かに目を閉じた。
十六歳になった。
あの日、電車の中で意識を失ってから、
どれほどの年月が過ぎたのだろう。
和友は――桜和友は、どこでどうしているのだろう。
胸の奥に沈んだままの問いは、
この数年、一度も消えたことがなかった。
父・高山友照と共に芥川城へ入ったのは、
足利義昭が織田信長に奉じられて上洛し、
十五代将軍に任じられたその年のことだ。
義昭は和田惟政を摂津国守護に任じ、
惟政は高山氏に芥川城を預けた。
その知らせが届いた日の父の表情を、右近は今でも覚えている。
誇りと緊張が入り混じった、武士としての顔だった。
城の中庭では、家臣たちが荷を運び、
馬のいななきが響き、
甲冑の金具が触れ合う乾いた音が絶え間なく続いていた。
その喧騒の中で、右近はひとり、
城の外へと続く山道を見下ろしていた。
摂津国三島郡高山庄――。
高山氏の本来の所領は、
この山の向こうに広がっている。
右近は幼い頃からその地で育ち、
父の背中を追いかけて山道を駆けた記憶がある。
だが、今の右近は、
その記憶の奥に、もうひとつの世界を抱えていた。
世田谷の坂道。
夕暮れの匂い。
電車の揺れ。
和友の笑い声。
どれも鮮明なのに、
どれも二度と触れられない。
十一歳の頃、父が洗礼を受けた。
その後、家族も家臣も一斉に受洗し、
右近は「ジュスト(Justo)」という霊名を授かった。
公正を意味する名だと神父は言った。
その名を聞いたとき、
右近は胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。
“重友”という名と響き合うような気がしたからだ。
しかし、信仰の道は平穏ではなかった。
三好長慶が没してから、
三好氏は内紛に揺れ、
摂津では池田氏や伊丹氏が力を伸ばしつつある。
高山氏の立場は決して安泰ではない。
それでも、右近は剣を握り、
祈りを捧げ、
父の背中を追い続けてきた。
――だが。
心のどこかで、
いつも“もう一人”の存在を探していた。
桜和友。
あの日、同じ電車に乗っていた少年。
夕陽の中で笑っていた友。
右近は、城下へ続く山道を見つめたまま、
小さく息を吐いた。
「……和友。お前は、どこにいるんだ」
その声は、風に溶けて消えた。
誰にも届かない。
届くはずもない。
だが、右近は知っている。
この世界のどこかに、
あの日の友が生きているはずだと。
その確信だけが、
右近の胸の奥で静かに灯り続けていた。
芥川城の天守に夕陽が差し込み、
石垣の影が長く伸びる。
右近はその光の中で、
剣の柄にそっと手を添えた。
戦国の風が、
彼の頬を撫でていった。




