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右近と左近  作者: 双鶴


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第31話 土と鉄の記憶(高山右近視点)

 天正十八年。

 加賀国金沢の空は、夏の終わりの光を帯びながらも、どこか冷たかった。

 湿った風が城下を吹き抜け、遠く日本海の潮の匂いを運んでくる。


 右近は、前田利家の命により、小田原征伐に従軍していた。

 建前上は追放処分の身でありながら、前田軍の一員として戦場に立つ。

 その矛盾を咎める者は誰もいなかった。

 右近の存在は、もはや「追放された大名」ではなく、

 「前田家にとって必要不可欠な武将」へと変わりつつあった。


 だが――

 右近の胸の奥には、何も満たされていなかった。


 


 八王子城の戦い。


 山の斜面を駆け上がる兵たちの怒号。

 火薬の匂いが鼻を刺し、

 血の匂いが土に染み込み、

 崩れ落ちる石垣の音が山中に響き渡る。


 右近は、

 そのすべてを冷静に見つめていた。


 戦場の空気は、祈りとは正反対の世界。

 だが右近は、武士としての技量を失ってはいなかった。


 敵兵の動き、地形の癖、風の流れ。

 すべてを読み、最小の動きで最大の成果を上げる。


 右近の槍は迷いなく敵を貫いた。

 そのたびに、胸の奥に冷たい痛みが走った。


 ――私は、何のために戦っているのか。


 問いは、戦場の喧騒の中で右近の胸に深く沈んでいった。


 敵兵が倒れ、

 血が地面に広がり、

 その上を右近の足が踏みしめる。


 祈りの言葉は、

 喉の奥で凍りついたまま出てこなかった。


 


 時は流れ、慶長四年。


 徳川との戦が想定される中、

 金沢城下では大規模な防衛工事が始まった。


 内惣構――

 城下をぐるりと囲む長大な堀である。


 その規模は、

 「城下三里」とも言われた。

 およそ十二キロに及ぶ巨大な防衛線。

 だが右近は、

 その全てを二十七日で仕上げると宣言した。


「右近殿、堀の規模は……」


「城下三里だ。

 地形を見よ。

 ここからここまで、二十七日で掘る」


「に、二十七日……?

 右近殿、それは……」


「可能だ。

 小田原で見た外堀を思い出せ。

 あれを倣う。

 人足は三千。

 昼夜交代で掘らせる。

 土の運びは馬ではなく滑車を使え。

 水脈はここを避ける。

 崩落を防ぐため、壁面は角度をつけて掘れ。

 土塁は二重にし、外側に竹を植えよ。

 雨が降れば土が締まる。

 風が吹けば乾く。

 自然を味方につけるのだ」


 右近の声は静かだが、

 その言葉には確かな重みがあった。


 家臣たちは息を呑んだ。

 右近の頭の中には、

 すでに完成図が描かれている。


 


 工事は驚異的な速度で進んだ。


 昼は土煙が舞い、

 夜は松明の炎が揺れ、

 人足たちの掛け声が城下に響き渡る。


 右近は、

 昼夜を問わず現場に立ち続けた。


 土の匂い。

 汗の匂い。

 水の音。

 風の流れ。


 右近は、

 そのすべてを肌で感じながら指示を出した。


「ここは深すぎる。

 もう一尺浅くせよ」


「この角度では崩れる。

 土を締めろ」


「水脈が近い。

 石を積んで流れを変えよ」


 右近の指示は的確で、

 迷いがなかった。


 人足たちは、

 右近の背中を見て奮い立った。


「右近様は……

 まるで戦場に立つように堀を掘っておられる」


「いや、戦場以上だ。

 右近様は“城下を守る戦”をしておられるのだ」


 その声は、

 右近の耳には届かなかった。


 右近はただ、

 黙々と土を見つめていた。


 土は嘘をつかない。

 水も嘘をつかない。

 風も嘘をつかない。


 人だけが嘘をつく。

 人だけが裏切る。

 人だけが奪う。


 右近の胸の奥には、

 静かな虚無が広がっていた。


 


 二十七日後――

 城下三里に及ぶ惣構が完成した。


 前田家中は騒然となった。


「右近殿は……何者なのだ」


「畿内の築城法を知り尽くしている……」


「これほどの惣構を、わずか二十七日で……」


 右近は、

 ただ静かに堀を見つめていた。


 土の匂い。

 水の音。

 風の流れ。


 それらは、

 右近の胸に何も残さなかった。


 ただ、

 武士としての技量だけが確かにそこにあった。


 


 金沢城修築の際にも、

 右近の知識は惜しみなく使われた。


 石垣の積み方。

 堀の角度。

 土塁の高さ。

 兵の動線。

 火矢への対策。

 水攻めへの備え。


 右近の言葉は、

 前田家の築城技術を大きく変えた。


 だが――

 右近の胸には、

 何も満たされなかった。


 武士としての才覚を発揮しても、

 信仰の道は遠く、

 未来は見えず、

 心は静かに沈んでいく。


 右近は、

 完成した惣構の前に立ち、

 風を受けながら静かに呟いた。


「……私は、どこへ向かうのだろう」


 その声は、

 土と水の匂いに溶けて消えていった。


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