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右近と左近  作者: 双鶴


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第29話 沈む光、消える声(高山右近視点)

 天正十五年六月八日。

 大坂の空は、夏の気配を孕みながらも、どこか重く沈んでいた。


 その日――

 右近の人生は、音もなく崩れ落ちた。


 「バテレン追放令」

 その冷酷非常な命令が、右近の胸を貫いた。


 秀吉の命により、

 すべての宣教師は国外追放。

 キリシタン大名は棄教を迫られ、

 従わぬ者は領地没収、追放。


 右近は、

 その場で静かに目を閉じた。


 ――来たか。


 覚悟はしていた。

 だが、心は追いつかなかった。


 


 大坂城の大広間。

 秀吉は豪奢な装束をまとい、

 その目は鋭く、冷たかった。


「右近。

 お前は武士である前に、キリシタンだ。

 棄教せよ。

 さすれば明石六万石は安堵する」


 右近は、

 静かに頭を下げた。


「……それは、できませぬ」


 秀吉の眉がわずかに動いた。


「ならば追放だ。

 領地も城も、すべて没収する」


 その言葉は、

 雷のように響いた。


 だが右近は、

 ただ静かに頷いた。


「……承知いたしました」


 声は震えていなかった。

 だが胸の奥では、

 何かが崩れ落ちていた。


 


 明石へ戻ると、

 右近は城の中を歩いた。


 廊下。

 庭。

 礼拝堂。

 海を望む櫓。


 すべてが、

 右近が築き、守り、祈りを捧げてきた場所だった。


 だが――

 もうすぐ、ここを去らねばならない。


 右近は、

 礼拝堂の祭壇の前に立った。


 蝋燭の炎が揺れ、

 静寂が満ちている。


 右近はロザリオを握りしめ、

 祈ろうとした。


 だが――

 言葉が出なかった。


 祈りが、

 胸の奥で崩れ落ちていく。


 信仰を捨てろと言われ、

 捨てられず、

 すべてを失う。


 その現実が、

 右近の心を締めつけた。


 ――私は、何を守れたのか。


 問いは、

 答えのないまま胸に沈んだ。


 


 追放後、

 右近は小西行長に庇護され、

 小豆島へ移った。


 小豆島の海は静かだった。

 波は穏やかで、

 風は優しく、

 空はどこまでも青かった。


 だが右近の心は、

 その美しさを受け止められなかった。


 明石六万石を失い、

 城を失い、

 家臣を失い、

 地位を失い、

 未来を失い――


 右近は、

 ただひとり、

 海辺に立ち尽くした。


 波が寄せては返し、

 足元を濡らす。


 右近はロザリオを握りしめた。


 だが、

 祈りは出なかった。


 胸の奥には、

 ただ静かな虚無だけがあった。


 ――私は、どこへ行くのか。


 答えは、

 海の向こうにも、

 空の彼方にもなかった。


 右近は、

 ゆっくりと目を閉じた。


 風が吹いた。

 潮の匂いがした。


 そのすべてが、

 右近の心を通り抜けていった。


 何も残らなかった。


 ただ――

 沈黙だけが、

 右近を包んでいた。


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