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右近と左近  作者: 双鶴


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第23話 水の壁、迫る(太田左近視点)

 天正十三年三月二十五日。

 紀州の空は、春の匂いを孕みながらも、どこか不穏な重さを帯びていた。


 太田城の櫓から見下ろす紀ノ川は、

 雪解け水を含んで勢いを増し、

 白い波頭を立てて流れている。


 その川の向こうで――

 羽柴秀吉軍が動き始めた。


 堀秀政三千、長谷川秀一三千の斥候隊を撃退した太田衆。

 だが、その勝利は、

 秀吉に“本気”を出させる結果となった。


 


 三月二十五日。

 秀吉軍は、紀ノ川の流れをせき止める工事を開始した。


 太田城から三百メートル離れた地点――

 鉄砲の射程限界とされる距離に、

 巨大な堤防が築かれ始めた。


 その規模は、

 常識では考えられないものだった。


 高さ三〜五メートル。

 幅三十メートル。

 東側は開け、

 全長六キロにも及ぶ巨大な土の壁。


 工事に動員された人数――

 四十六万九千二百名。


 昼夜を問わぬ突貫工事。

 わずか六日で仕上げたという。


 太田城の櫓からその光景を見た左近は、

 息を呑んだ。


「……化け物め」


 人の力ではない。

 もはや“国”が動いている。


 秀吉は、

 太田城を力攻めではなく、

 “水”で沈めるつもりなのだ。


 紀ノ川の流れを堰き止め、

 太田城を丸ごと水没させる――

 あの恐るべき戦法。


 左近は拳を握った。


 ――これが、秀吉の本気か。


 


 四月一日。

 堤防の水門が開かれた。


 紀ノ川の水が、

 太田城の周囲へと流れ込み始めた。


 最初は、

 ただの湿地のようだった。


 だが――

 四月三日から数日間、

 大雨が降り続いた。


 空は鉛色に沈み、

 雨脚は強まり、

 紀ノ川は濁流となった。


 その水が、

 堤防の内側へと押し寄せる。


 太田城の周囲は、

 みるみるうちに水に沈んでいった。


 堀が消え、

 道が消え、

 畑が消え、

 やがて城の石垣の半ばまで水が迫った。


 太田城は――

 まるで湖に浮かぶ“浮城”のようになった。


 兵たちは櫓に集まり、

 その光景を呆然と見つめた。


「……これが、水攻め……」


「城が……沈む……」


 左近は、

 静かに水面を見つめた。


 濁った水が、

 城の周囲をゆっくりと満たしていく。


 その水は、

 まるで太田衆の命を奪うために

 静かに、確実に迫ってくる“死”そのものだった。


 


 秀吉軍は、

 太田城の北一キロ――

 黒田という地に本陣を構えた。


 そこから見下ろす太田城は、

 すでに水に囲まれ、

 逃げ場を失っていた。


 左近は櫓の上で、

 遠くの黒田の陣を見つめた。


 秀吉の本陣には、

 無数の旗が立ち並び、

 松明が揺れ、

 まるで“炎の城”のようだった。


 左近は、

 懐から右近のロザリオを取り出した。


 黒い木玉が、

 雨に濡れた指先で冷たく光る。


「和友……

 俺はまだ生きている。

 だが、この城は……長くはもたぬ」


 ロザリオを握りしめ、

 左近は静かに目を閉じた。


 水の音が、

 まるで太田衆の命を数えるように

 ゆっくりと、しかし確実に響いていた。


 ――太田城の最期が、

 静かに、確実に迫っていた。


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